死を回避しようとするのは、本能的・遺伝的
前回、恐怖の定義について「恐怖とは、脅威となる対象に対して生じる、死の危険性を回避するための反応である」と端的にまとめました。
では、そもそもなぜ生物は死の危険性を回避しようとするのでしょうか?
この点については、「そういう風にできているから」としか言いようがないので、ここではあまり触れません。
「そういう風にできている」というのはつまり、遺伝的・本能的な要因です。
人間に限らず、死を回避しようとする傾向が弱い遺伝子は、生き残る確率が低くなります。
つまり、今、種として生き延びているということは、イコール、死を回避しようとする遺伝子が生き残った結果です。
人類の祖先にも、死を回避しようとしない遺伝子を持った個体はきっといたでしょう。
しかし、そのような遺伝子は長く生き延びられないので、進化の過程で淘汰されてきてしまったのです。
なので、「なぜ死を回避しようとするのか?」ではなく、「死を回避しようとする傾向を持った遺伝子が生き延びてきただけ」と表現するのが正しいでしょう。
そこには善悪の判断も、明確な目的もあるわけではなく、ただ死を回避しようとする遺伝子が生き延びてきたから、今そのような遺伝子を持った自分たちが存在しているのです。
この点はこの点でまた深掘りのしようがあるでしょうが、ここでは目的から逸れてしまうので、置いておきます。
死の何が怖いのか?:三つの要因と人間の想像力
ここで考えたいのは、死に対してなぜ恐怖を感じるのか?という点です。
それは、「死を回避しようとする傾向があるから」だけではないと考えられます。
まず考えたいのは、そもそも、本当に死ぬことそのものが怖いのか?という前提です。
個人的には、そうは思いません。
もちろん、本能的に上述した傾向があるので、死の危険性を前にすれば恐怖し、回避しようとするはずです。
しかし、そのような差し迫った危険性とは別に、普段でも人間は、死について考えると怖くなることがあります。
結論から言えば、個人的には、
- 死に至るまでの苦痛に対する恐怖・不安
- 死後どうなるのかわからないという未知に対する恐怖・不安
- 自分という存在が失われることに対する恐怖・不安
の三つが、死を恐れる大きな要因であると考えています。
これはいずれも、人間の想像力によるものです。
差し迫った危険性や、危険の予兆に対する恐怖反応や回避行動は多くの動物でも見られますが、安全でぬくぬくした平和な状況で、ふと死を考えて怖くなるというのは、おそらく人間だけでしょう(断定はできませんが)。
人間は、想像力によってこれだけ繁栄してきました。
それは知性と言い換えることもできます。
目の前のことだけに左右されるのではなく、将来のプラスを考えて今のマイナスを我慢できるのも、知性によるものです。
しかしそれによって、ありもしないものを想像し、怖がるという副作用も生じてしまったのです。
①死に至るまでの苦痛に対する恐怖・不安
まずわかりやすい、「死に至るまでの苦痛に対する恐怖・不安」から考えてみましょう。
痛みや苦しみというのもまた、極力避けたいものです。
それもまた死の可能性を回避するために備わった機能でしょう。
痛みや苦しみはない方が良いですが、痛みがなければ、たとえばナイフが刺さっても危険性に気づかず死んでしまいかねません。
そんな状況は極端にしても、痛みが病気のサインであり、早期発見に繋がることも多々あります(なので、痛みがなく病気が進行していくことの方が危険)。
ただ、それは加減を知りません。
たとえば、もう手術や治療が不可能な末期癌で、死を待つしかない、仕方ないからもう受け入れよう、という気持ちになったとしても、身体は「じゃあもう痛みは必要ないですね」となってくれるわけではありません。
日本人の死因は、1981年以降、ずっと悪性新生物、つまりはがんが1位です。
がんには「苦しみながら死ぬ」というイメージも少なくありません。
がんではなくとも、その他の病死なり、窒息死なり、溺死なり、焼死なり、失血死なり、死に至る前には「痛い」「苦しい」イメージがつきまといます。
なので、理想の死は安楽死、よく言われるのは「眠るように死にたい」「寝ている間に苦しまずに死にたい」といった表現です。
これらは、死そのものより、そこに至るプロセスを怖がっている、恐れていると考えられます。
死までは至らなくとも、耐え難い辛さを伴う痛みや苦しみ自体が、恐怖を感じる対象でもあります。
それが良くも悪くも自殺の抑制要因にもなっていることが、死そのものよりも痛みや苦痛を恐れていることを示唆します。
死にたいけれど、痛がったり苦しむのは嫌だ、という思いです。
②死後どうなるのかわからないという未知に対する恐怖・不安
二つ目は、未知に対する恐怖です。
基本的に、人間は未知のものに恐怖や不安を感じるものですが、これもまた死を回避するために備わっている機能です。
何か危険が潜んでいる可能性を警戒しているのであり、闇を恐れるのもまた同様。
しかし、皮肉にも、人間にとって最大の未知は、その死の先がわからないという点です。
まさに想像力が仇となってしまっているとも言えるでしょう。
死は不可逆的なものなので、現代の科学では、死んだらどうなるのかは、死んだあとしかわかりません。
よく九死に一生を得た人が三途の川を見たりしていますが、それだけで信じ切っている人も少ないでしょう。
わからないと、どんどん想像が膨らみます。
完全な無なのか?
もしかしたら本当に地獄があるのかもしれない。
永遠の苦痛に苛まれるのかもしれない。
対象が明確なものに対する反応が恐怖、不明確なものに対する反応が不安とは言われますが、明確に区別できるものではなく、グラデーションです。
死後に対しても、「わからないこと」に明確な恐怖を抱くときもあるでしょうし、漠然とした不安であることもあるでしょう。
この未知性に対する恐怖を緩和するために生まれたのが宗教ですが、それはまた別の壮大かつややこしいテーマになってくるので置いておきましょう。
いずれにせよ、死後に天国のような場所が実在することが科学的にも証明されており、確実なものとして信じられていれば(宗教を心から信じている、でも良いですが)、死に対する恐怖はだいぶ薄らぐはずです。
③自分という存在が失われることに対する恐怖・不安
これは②とも絡んできますが、人間は、自分という存在が失われることにも恐怖を抱きます。
地獄はないにしても、死後は無であるとすれば、今のすべてが無駄になるのでは?
自分のすべてがなくなってしまうのか?
そんな不安に苛まれます。
この恐怖や不安は、死に限りません。
自分が自分でなくなること、しかもそれが永続的に続くとなれば、死に等しいような恐怖を覚えます。
たとえば、アルツハイマー病を筆頭とする認知症が際たるものでしょう。
記憶も失い、性格もまるで別人のようになってしまう。
それは果たして自分と言えるのか?
自分が自分であるという同一性を担保するのは記憶の連続性ですが、それが失われてしまうことが、自分を失うということです。
認知症は死の恐怖を和らげるために存在しているという説もありますが、認知症になっても死を怖がる人もいます。
果たしていざ認知症になることは、当人にとっては実は幸せなことなのか、やはり不幸なことなのかは、なってみたいとわかりません。
この点も、死後は死んでみないとわからない点に似ています。
ただ、いずれにせよ、今まで自分が積み重ねてきたものが失われてしまうこと。
それもまた、死に対する恐怖に繋がっていると言えるでしょう。
また、死体・遺体なども同様の恐怖を喚起します。
生きて動いていた肉体が、まるで物体のように冷たく動かなくなり、朽ち果てていく。
そのような変化も、自分もそうなってしまうことへの恐ろしさに繋がるのです。
まとめ:死そのものよりも、それにまつわることを恐れている
ここまでをまとめると、「死ぬのが怖い」と思うのは、死そのもの、死ぬ瞬間というよりも、死にまつわる諸々を恐れていると考えられます。
それは上述した、以下の三つの要素によるものです。
- 死に至るまでの苦痛に対する恐怖・不安
- 死後どうなるのかわからないという未知に対する恐怖・不安
- 自分という存在が失われることに対する恐怖・不安
逆に言えば、この三つがなければ、死そのものはあまり怖くなくなるはずです。
眠るように気持ち良く死を迎えることができる。
死後は、さすがに物体や肉体は持っていけないかもしれませんが、今の自分の記憶を保持したまま、幸せハッピーな生活を送ることができる。
現世の物を持っていけないのは嫌と思う人もいるかもしれませんが、それは恐怖とはまた異なる感情でしょう。
死へのプロセスと死後の平和や幸福が確実なものであれば、死は恐れるものではなく、むしろ厳しい現実を生きるよりも死を望む人が増えてしまうかもしれません。
死後はハッピーというほどの保証はなくとも、ゲームのようにリセットできる、やり直せることが確実であれば、死を望む人がもっと増える可能性は高いでしょう。
そのため、死後の世界を説く宗教には、まともなものであれば必ず、現世を生きる必要性もセットになっています。
というのは、また宗教の話になってしまうので置いておきましょう(自分で持ち出したくせに)。
余談ですが念のため付け加えておくと、私は特定の信仰は持ってませんが、宗教を否定しているわけでもなく、科学万能主義でもありません。
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