作品の概要と感想(ネタバレあり)
精神を病み、共同経営者と妻を殺害した投資仲介会社経営者のジェフリーは、3歳と1歳の娘ヴィクトリアとリリーを連れ出して逃走。
森の中の小屋で娘たちを手にかけようとするが、小屋に潜んでいた何者かにジェフリー自身が消されてしまう。
5年後、ジェフリーの弟が娘たちを発見し、彼女らの心理状態を研究したいドレイファス博士と恋人のアナベルと一緒に、博士が用意した家で共同生活を始めるが──。
2013年製作、スペインとカナダの合作作品。
原題も『MAMA』。
ギレルモ・デル・トロが製作総指揮。
このシンプルなタイトルで変な日本版副題がついていないのが珍しいですが、ポスターの「ママ、私パパに殺されるの?」は、だいぶずれている気がします。
思ったより家族をテーマとした人間模様が軸に描かれていた本作。
丁寧な作りでかなり楽しめました。
何より子役の姉妹2人の演技が素晴らしかったです。
「ママ」の幽霊?の見た目も、滑稽さとのぎりぎりのラインを攻めていましたが、個人的には好みでした。
けっこう日本的な霊に近かったような。
登場時の声?音?も、『呪怨』の伽椰子に近いものがありました。
ただ終盤、姿がはっきり映り、てくてく歩く姿は若干シュール。
感動要素もありますが、押しつけがましい感じも受けず、良いバランスだったと思います。
ホラー演出もJホラーっぽさもあり良かったですが、ややジャンプスケアに頼りがちだった印象。
そんなに怖くもないので、ホラーが苦手な人にも比較的勧めやすそうな1作。
主人公のルーカス(と、兄のジェフリーも)を演じていたニコライ・コスター=ワルドーはかなりかっこ良かったですが、想像以上に存在が空気でちょっと残念。
ママに階段から突き落とされたときは完全に首が折れたと思いましたが、けっこう頑丈でした。
ルーカスとアナベルは優しい2人に見えますが、あまり計画性はなさそうでしたね。
絵描きとロックミュージシャンという組み合わせがもう不安定ですが、姪2人の捜索に資産をほとんど注ぎ込むルーカスに、そのような状況で妊娠を望むアナベル。
ルーカスとの子どもを望みながらなかなか叶わず落ち込んでいるアナベルに、仕方ないとはいえ救出した姪2人の世話を当たり前のように押しつけるルーカスは、優しそうに見えてだいぶ思い遣りに欠けているのでは、と思ってしまいます。
終盤、夢で見た場所が実在すると知って居ても立ってもいられなくなったのはわかりますが、退院して連絡もせずに即現場へ出向くところも、かなり衝動的でした。
それで言えば、明らかにやばそうな予感を抱きながらも夜に小屋に行っちゃうドレイファス博士もなかなかお茶目。
アナベルもアナベルで、ドレイファス博士の資料が入った箱を脇に抱えて堂々と持ち去るのは、かなり大胆な犯行でした。
あんな重要な個人情報が入っているパソコンにパスワードも設定していないドレイファス博士、なかなかお茶目。
ヴィクトリアとリリーの養育権を巡ってルーカスとジーン(姉妹の大叔母)が争っていましたが、2人とも「ヴィクトリアとリリーにとってどの環境がベストか」という観点が抜け落ちているように見えたのは気になりました。
ルーカスとジーンに限らず、特殊な環境で育った姉妹を研究したいという欲望を優先したドレイファス博士は、言わずもがな。
さらには、ママはママで、自身の本当の子の遺骨をまさかの放り投げてしまいます。
これらからは、『MAMA』は、親子愛が描かれていたようで、実は大人たちのそれぞれのエゴが描かれていた、と見ることもできるでしょう。
ただ、アナベルとヴィクトリア、ママとリリーの繋がりからは、「血の繋がりが全てではない」という見方もできるかもしれません。
展開に強引さはありましたが、軸となるストーリーがはっきりしており、小屋で育った姉妹という設定も斬新で印象に残ります。
決してハッピーエンドとは言えない終わり方も好き。
ただ少しわかりづらいラストシーンだったようにも思うので、後半ではその点を考察したいと思います。
考察:発達心理学的に見るラストシーン(ネタバレあり)
「リリーは死んでいた説」には否定的
まずちょっと前提的な部分から。
あまり他の方の感想や考察は見ないようにしているのですが、「実はリリーは最初から死んでいた」説を見かけました。
根拠としては、オープニング映像の絵でリリー動物に襲われているようなシーンがあったことや、リリーが蛾を食べていたことなどのようです。
個人的には、この説には否定的です。
救出後も普通に存在しており、みんなに見えており、触れられていたことがその最たる理由です。
オープニング映像の絵については、リリーが襲われたあと、姉妹でそれを撃退しているように見えます。
オープニング映像の絵は、少し長くなりますがそれぞれ順番に以下のような解釈です。
2人だけで残され、不安そうに暖炉の前に座る姉妹
↓
どこからか現れたチェリーを食べる姉妹
↓
暗闇の中、寄り添って寝る姉妹
↓
蛾の登場。リリーはこの時点で動物のように四つん這い
↓
タイトル
↓
動物に襲われるリリー
↓
動物を撃退した姉妹(あるいはママが殺した可能性もあるかも)
↓
喜ぶ姉妹
↓
おそらくママからもらった人形を手にする姉妹
↓
家の屋根の上で遊ぶ姉妹(野生っぽさが強くなる)
↓
木の枝に立つヴィクトリア
↓
蛾に囲まれ楽しそうなヴィクトリア(枝から飛び降りている?)
↓
蛾に囲まれリラックスしたように寝転ぶリリー
↓
ネズミ?か何かの肉を食べるリリー
↓
そのリリーの姿を見て涙を流すヴィクトリア(リリーの野生的な姿に?)
↓
2人とも四つん這いになっている姉妹(2人とも動物を食べている?)
↓
四つん這いで外を歩く姉妹(ヴィクトリアもリリーに合わせた?)
↓
家の中から不安そうに外を見る姉妹
蛾を食べていた点などについては、ラストシーンの解釈と絡めて後ほど触れます。
ラストシーンの解釈:姉妹の視点
ラストシーンでは、姉のヴィクトリアはルーカスとアナベルを、妹のリリーはママを選びました。
この違いは、どこから来ているのでしょうか。
「野生で育った姉妹」という設定で最初に浮かんだのは、アマラとカマラです。
1920年に発見された、オオカミに育てられたという2人の少女です。
ただこれは、実際にはどこまで真実であったか、信憑性はかなり疑わしくもあります。
野生児の研究というのは非常に少ないので、実際に人間が野生で育ったらどうなるのか、というのは定かではありません。
しかしいずれにせよ、発達心理学的な観点から考えれば、幼少期に適切な養育環境に置かれていなかったという点は、発達上、重大な影響を及ぼし得るのは間違いありません。
親が保護者として機能していない環境下(虐待など)、あるいは児童養護施設などで育った子どもは、愛着が不安定になりがちです。
もちろん、そのような環境で育ったら必ず問題が生じるわけではありません。
特に児童養護施設のスタッフの懸命な関わりと愛情は、心底頭が下がります。
しかしそれでも、スタッフ1人につき数名の子どもを見ないといけないため、どうしてもカバーできない部分が生じてきてしまうこともあるのです。
本当の親に見捨てられた、といったような気持ちの影響などもあるでしょう。
また、野生で育った場合、言語の獲得と社会性は確実に遅れが生じます(人間社会を基準として考えれば)。
ママが世話をしていたとはいえ、言語的なコミュニケーションや人間の社会性を育むような関わりは皆無だったでしょう。
最初は言葉を覚えていたヴィクトリアも、リリーもママも英語を話さないので、徐々に話さなくなっていったはずです。
発達上、「臨界期」という概念があります。
これは「人間の脳には学習するのに適切な時期があり、その時期を過ぎると学習が非常に困難になってしまう」というものです。
諸説ありますが、言語などは「9歳頃まで」「思春期頃まで」と言われています。
臨界期という点を踏まえると、ヴィクトリアとリリーの最大の違いは、小屋に置き去りにされるまでに人間社会での生活を送っていたか、という点です。
それぞれ何歳だったかははっきりわかりませんが、生まれたばかりでまだ言葉も話さず歩いてもいなかったリリーに対して、ヴィクトリアは少なくとも幼稚園に通っており、父親のことも覚えていました。
つまりは、ヴィクトリアは3〜5歳頃までは、通常の発達過程を経て、その年齢なりの言語や社会性を学習していました。
一方のリリーは、ほぼ生まれながらにして野生で育ったと言っても過言ではありません。
このヴィクトリアとリリーの最大の違いは、人間社会に復帰したあと、2人に大きな影響を与えます。
かつで学習していたものを思い出せば良いヴィクトリアに対して、必要な時期に必要な学習をしてこなかったリリーは、0から学習しないといけません。
早々に「パパ?」と言葉を発し、人間らしさを取り戻していったヴィクトリアに対して、いつまで経ってもほとんど言葉を離さず、四つん這いになって移動し、ベッドの下で寝ていたリリー。
その差は、単純に年齢の違いだけによるものではありません。
むしろ、野生の生活、小屋でママに育てられた生活が、リリーにとっては馴染みのあるものでした。
蛾を食べていたのも、「実は死んでいた」的な設定によるものではなく、単純に野生側の生活が、リリーにとっては当たり前であることの示唆であると考えられます。
ただでさえ、子どもは敏感に大人の本心を察知します。
愛着が不安定であればなおさらです。
拒絶していたわけではないですが、いきなり子ども2人の面倒を見ないといけなくなったアナベルには、戸惑いが強くありました。
上述した通り、自分の子どもが欲しいのに、という葛藤もあったでしょう。
それらを見抜いていたために、ヴィクトリアとリリーはなかなかアナベルに心を許しませんでしたが、ママに導かれ外で寝ていたリリーを家に連れ戻し、嫌がられても諦めず、心からリリーのことを心配して手を温めてくれたアナベルに、リリーは心を許します。
その後も、「外に出たいときは?」というアナベルの質問に対し、リリーは「階段?」と答えるようになりました。
この点は、アナベルが真に子どもたちのことを想って行動したことで信頼関係が生まれた感動的なシーンでもありますが、現実的に考えれば、リリーが適応していく過程としては、かなりあっさりと描かれてしまっている印象も拭えません。
ただ、リリーの適応をメインに描いた話ではないので、それはそれで許容範囲です。
さて、そのような理由もあって、リリーはやはりまだまだ人間社会に適応するには時間がかかり、馴染みがあるのはママとの生活です。
だからこそ、リリーは最後、ママを選択したのです。
一方のヴィクトリアは、過去に両親から注がれていた愛情を覚えていたため、自分を想うアナベルやルーカスの気持ちを理解し、受け入れました。
3〜5歳までの時期を、どう過ごしたか。
それが、2人の選択を異なるものにした要因であると言えます。
とはいえ、子どもの適応力というのは目を見張るものがあります。
もっと選択の機会が遅ければ、リリーもアナベルたちを選んだのかもしれません。
細かい点では、ヴィクトリアは幼少期からかなり視力が悪かったようです。
小屋での生活では、ヴィクトリアはメガネをかけていませんでした。
そのため、ママの姿もぼんやりとしか見えていなかったはずです。
それが、両親の姿を記憶に留め、ママの姿によって上書きされなかった要因にもなっていたかもしれません。
ラストシーンの解釈:ママの視点
姉妹の選択の理由は上述したようなものでしたが、では、ママはなぜあのような行動に出たのでしょうか。
特に、なぜ自分の本当の子どもの骨を投げ捨て、リリーに執着したのか。
正直に言えば、ママの行動の目的はいまいちわかりません。
ママは、元はイーディスという女性でした。
精神を病んでいた彼女は、赤ちゃんを連れて精神病院から抜け出し、追い詰められて崖から飛び降り死亡しますが、赤ちゃんは途中の枝に引っかかって助かりました。
そのため、霊となって赤ちゃんを探し、彷徨い続けていたのです。
そこで見つけたのが、小屋で暮らすヴィクトリアとリリーでした。
彼女は、2人を自分の子どもと思ったのか、自分の子どもの代わりと認識していたのかはわかりませんが、2人を育てます。
とはいえ、人間的な世話ではありませんでした。
上述したような環境から、ママに心から懐いたのはリリーであることは間違いありません。
そのため、ママはリリーに特に強い愛情を抱いていたと考えられます。
ママが求めていたのはおそらく、我が子との生活なのでしょう。
そのため、邪魔者は排除しようとしますし、ヴィクトリアに対しても、自分に反抗的な姿を見せれば怒りを表現していました。
また、特に男性に対しては厳しさが窺えます。
ジェフリーやドレイファス博士は一瞬で殺害しましたし、ルーカスも容赦なく突き落としました。
ジェフリーは、ヴィクトリアを殺そうとしていたのが大きな要因かもしれませんが、アナベルに対しては、殺害できる機会が何回もあったのに、それほど強硬な手段には出ていません。
アナベルに対して優しかったというよりは、男性に対する怒りのようなものが感じられました。
生前、我が子と崖から心中しようとしていた姿からは、イーディスの夫であり、赤ちゃんの父親である男性の存在が感じられませんでした。
その点、何かしらの事情があり、男性に怒りを抱いていたり、それによって母子関係こそを重視しているようにも見えます。
つまり、ママはもはや、本当の我が子を探しているというよりは、憧れだった子どもとの幸せな生活を追い求めていたのでしょう。
小屋での生活の中で、その対象が我が子から姉妹、特にリリーに置き換わったのです。
最後に再び飛び降りたシーンが謎ではあるのですが、今のまま生きていく(?)ことはできないと理解していたのでしょうか。
かつて叶わなかった子どもとの心中を成功させ、それによって、永遠に2人(あるいは3人)で暮らしていくことができると考えたのかもしれません。
そう考えると、やはりママもリリーのことを考えていたとは言い難く、やはり自分のためのエゴ的な行動でした。
「ママでないとダメだった」リリーに対して、ママは「リリーでないとダメだった」とは言えません。
大人のエゴが渦巻く本作で、その一番の犠牲者となったのは、リリーだったと言えるでしょう。
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