【映画】ブラック・フォン(ネタバレ感想・心理学的考察)

映画『ブラック・フォン』のポスター
(C)2021 UNIVERSAL STUDIOS. All Rights Reserved.
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作品の概要と感想(ネタバレあり)

映画『ブラック・フォン』のシーン
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コロラド州デンバー北部のとある町で、子どもの連続失踪事件が起きていた。
気が小さい少年フィニーは、ある日の学校の帰り道、マジシャンだという男に「手品を見せてあげる」と声をかけられ、そのまま誘拐されてしまう。
気が付くと地下室に閉じ込められており、そこには鍵のかかった扉と鉄格子の窓、そして断線した黒電話があった。
すると突然、フィニーの前で断線しているはずの黒電話が鳴り響く。
一方、行方不明になった兄フィニーを捜す妹グウェンは、兄の失踪に関する不思議な夢を見る──。

2022年製作、アメリカの作品。
原題も『The Black Phone』。

原作は、スティーブン・キングの息子であるジョー・ヒルによる短編小説『黒電話』。
こちらは読めていないので、以下は映画のみの感想になります。
原作もいつか読んでみたい。

連続殺人鬼モノ……と見せかけて、オカルティックな要素が加わったサイコ・スリラー
安心安定のブラムハウス製で、とても楽しめました。

楽しめましたとは言いつつ、何となく切なさが残るジュブナイル・ホラーでもありました。
同じくジュブナイル・ホラーに位置づけている『FOUND ファウンド』とはまた全然テイストが違いますが、主人公とその友達がホラー映画好き、という点が共通していました。


本作は1978年の設定でしたが、そのややレトロな雰囲気が内容にもとても合っていました
1970年代は、実際に有名なシリアルキラーが多く見られた時期でもありますが、あんなに人目の届かない場所が多かったらそうなるような……と思ってしまいます。
国土が広いというのも、善し悪し。

出てくる少年たちや主人公・フィニーの妹であるグウェンといった登場人物は、とても魅力的。
イーサン・ホーク扮する連続殺人鬼(グラバー)も、独特の空気感を纏っていました。
終始マスクをしているのはイーサン・ホークの贅沢な使い方、あるいは無駄遣いとも言えるかもしれませんが、表情が見えない中での難しい演技が逆に光っていました

主人公のフィニーも、おとなしいながら理知的で素敵な少年だったのですが、顔も髪型も大学時代の友人にとても似ていて、無駄に気が散ってしまいました(すごくどうでも良い話)。

グラバーの背景は動機がまったくわからないところは消化不良感も残りますが、ここまで何も情報がないというのは、あえて描かれていなかったと捉えるべきでしょう。
オリジナリティとインパクトの強いマスクのデザインはとても好き。
グラバーの犯行がメインなのではなく、少年たちの友情やフィニーの成長、そして兄妹や家族の絆がメインだった印象です。

ことごとく大人が役に立たないところが、まさにジュブナイル・ホラー感がありました。
子どもたちの力だけで切り開いた、脱出への道。
フィニーが最後にグラバーを殺したのは正解だったのかわかりませんが、脱出後の表情は、明らかに以前とは変わっていました。

あまり人物の説明や背景に時間を割いていないのに印象に残るキャラが多かったのは、見せ方がとても上手かったのでしょう。
特にロビンは、実際にはほとんど登場していないのに好きなキャラでした。
あんなに強くて優しいロビンもグラバーに負けたというのは衝撃でしたし、黒電話越しに優しく語りかけるロビンの声と、それによってフィニーがグラバーに立ち向かった姿は感動的。

全体的に鬱々としていた雰囲気の中で、良いアクセントになっていたのが妹のグウェンでした。
臆せず立ち向かう勇気が序盤から描かれており、ひたむきなまっすぐさは心打たれますが、父親にバレそうになってるのに「アーメン」を欠かさなかったり、神様に文句を言うようなところは、ユーモア溢れる存在でした。
あと個人的には、ちょっとぶっ飛んじゃっていたマックス(グラバーの弟)も好き。

フィニーとグウェンの父親は、なかなかにひどい虐待を繰り返しており、相当イライラした人も多いのではないかと思います。
ただ、アルコール依存で暴力を振るう人物像として、ものすごくリアルに描かれていました。
本当は子どもたちを愛してるのに、お酒に溺れ、暴力を振るってしまい、自己嫌悪を繰り返す。
おそらく妻(フィニーたちの母親)の死がきっかけでアルコール依存に陥ったのだと思われ、虐待にフォローの余地はありませんが、彼もまた相当に苦しんでいるのだろうというのが克明に伝わってきました。


ジャンプスケアが強めでしたが、ホラー的な演出も良かったです。
個人的には、少年たちがどのように殺されたのかは一切語られず、しかし少年たちの霊(?)の姿から観た人それぞれが色々と想像してしまえる自由度が、逆に恐ろしさを際立たせていたように感じて好きでした。
事件としては凄惨であり、なかなか暗い作品ですが、その凄惨さが現実らしさを反映しており、ともすればオカルトに傾き過ぎそうな設定ながら、絶妙なバランスを保っていたように思います。

スコット・デリクソン監督のインタビューによれば、日常的な暴力、シリアルキラー、オカルティックな電話体験などは監督自身の体験がベースになっており、本作について、以下のように語っています。

「僕自身の子供時代の思い出と、ジョー・ヒルの短編小説を組み合わせたものなんだよ」

「僕は“自分が感じたこと”を使って、それをカタルシスとして出せるものを探していた」

それが、本作が現実離れし過ぎない説得力に繋がっているのでしょう。

描かれていない部分が多く、原作で補完できる点もあるのかもしれませんが、考察も自由度が高めの作品。
考察しているサイトも多そうなので、心理学的に解釈してみた点のみ、後半では取り上げたいと思います。

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考察:黒電話はなぜ鳴ったのか?グラバーの背景は?(ネタバレあり)

映画『ブラック・フォン』のシーン
(C)2021 UNIVERSAL STUDIOS. All Rights Reserved.

半地下室の黒電話

『ブラック・フォン』で鍵を握っていたのは、タイトルにもなっている通り、当然ながら黒電話です。

断線した黒電話がなぜ鳴ったのか。
そこは現実を超越しているので理由を探すのもおかしな話かもしれませんが、観た人それぞれの解釈を聞いてみたいところです。

個人的には、あの閉じ込められていた半地下室自体が、現実と非現実、そして心理学的に考えれば意識と無意識の世界の狭間にあったのだと解釈しています。

断線した黒電話が鳴り死者の声が聞こえるというのは、だいぶ設定としては現実離れしています。
しかし、『ブラック・フォン』は、ファンタジーや完全にオカルトな作品にならず、妙なリアリティを保っていました。
その理由が、あの半地下室という舞台設定にあったと考えています。

『変態村』の考察などでも触れましたが、地下というのは、心理学的には無意識の世界の象徴と解釈できることが多くあります。
しかし、『ブラック・フォン』では、上部には窓があり、完全な地下室ではなく半地下の空間でした。

つまり、半地下室は意識と無意識の間にあると解釈でき、つまりは「狭間」の象徴です。
それは、意識と無意識の狭間であり、夢と現実の狭間であり、生と死の狭間であり、子どもと大人の狭間でもありました。

意識から無意識にエネルギーが向かうと心は退行し、幼児のような言動を示します。
フィニーの寝ていた体勢が胎児っぽい、というのはさすがに強引な解釈な気がしますが、無意識への退行は、無意識に飲み込まれれば病的な状態となりますが、うまく無意識の要素を意識の世界に持ち帰ることができれば、創造性をもたらします。

意識と無意識の狭間にいるというのは非常に不安定で危機的な状態ですが、フィニーとグウェンの母親は、予知夢を見るなど、どうも特殊な能力をお持ちであった様子。
予知夢を見るのはグウェンに引き継がれていたようですが、フィニーにもそのような能力が潜在的に引き継がれていたと考えても不思議ではありません。

そもそも電話というアイテム自体が、あの世や異世界へ繋がるツールとして定番でもあります。
しかし、あくまでも黒電話は生者と死者を繋ぐツールであり、狭間に位置していたのはあの半地下室で、その空間にある黒電話を活用できたのはフィニーだからでした。
これらの条件が整ったことが、本作の現象を生み出したのでしょう。
フィニーが、あの場所にいたからこそ、黒電話は死者と繋がったのです


意識と無意識という点だけで考えれば、電話の声は本物の死者の声ではなく、フィニーの無意識と捉えることもできます。
つまり、フィニーの無意識にある「成長する力」や「暴力性」といったような様々な要素が、少年たちの声を借りて語りかけてきた、という解釈です。

しかしこの場合は、フィニーが知らない情報が多くもたらされている点に矛盾が生じます。
「意識的には知らなかったけれど、どこかで見たり聞いたりして無意識的に知っていた」と解釈するにも無理がある情報ばかりだったので、やはり、あれは本当に少年たちの霊と繋がっていたのだと考えらるのが自然でしょう。

グラバーの目的やマスクの意味

謎の誘拐殺人犯・通称グラバー。
彼の目的は、本作ではほぼ一切明かされませんでした。

ジョー・ヒルによる原作の『黒電話』では、連続殺人鬼はスキンヘッドの太った男として描かれていて、実在した有名なシリアルキラーであるジョン・ウェイン・ゲイシーがモデルであることが明言されているようです。

ジョン・ウェイン・ゲイシーは、シリアルキラーに少しでも興味があれば知らない人はいないであろう、日本史でいうと織田信長みたいな存在です(どんなたとえだ)。
ピエロの格好をして30人以上の少年たちを誘拐し、強姦、殺害したゲイシーは、そのインパクトから様々な作品で取り上げられており、それこそジョー・ヒルの父親であるスティーブン・キングの映画も有名な小説『IT』のペニーワイズのモデルにもなっています。

ゲイシーは同性愛者であり、被害者は男児ばかりでした。
彼らを殺害したのは、自身が同性愛者であることを隠蔽するためとされています。
また、彼は多重人格を主張しており、なるほど、グラバーの犯行形態やマスクの意味として、これらを当てはめて考えるとすんなり理解できそうです。


しかし、映画『ブラック・フォン』におけるグラバーに、ジョン・ウェイン・ゲイシーをそのまま重ねて考えるのは、個人的には間違いであると考えています。

上述したインタビューにおいては、スコット・デリクソン監督自身が、以下のようにも述べています。

「小説では、彼(連続殺人鬼)はジョン・ウェイン・ゲイシーに基づいているんだ。太ったピエロの殺人犯にね。僕は、少し違うことをやりたかった。あのマスクは、小説の中には出てこない。グラバーが犠牲者たちに自分自身を表現する方法として、さまざまな種類のマスクを使うクリエイティビティを与えたことは、この映画のもっともユニークな側面だと思う」

マスクについては、映画的に面白い演出であると同時に、グラバーの自己表現のツールだったのでしょう。
デリクソン監督のインタビューでは、

「彼がつけているそれぞれのマスクには理由がある。彼は、自分自身を隠したり、自分をさらけ出して話すために、すべてのマスクをつけている」

とも述べられており、それは決して多重人格的なニュアンスではないと考えられます。
そもそも、ジョン・ウェイン・ゲイシーは本当に多重人格ではなかったというのが、主流な見解でもあります。


グラバーが少年ばかり狙っていたところは、性的な欲求に基づくシリアルキラー像と一致します。
ゲームのように、彼らがルールを破ったら、いたぶって殺す。
それ自体に快楽を感じていた可能性も推察されます。

しかし、彼もまた、大人というより子どもっぽい雰囲気も持ち合わせていました。
彼の弟マックスも、プロファイルもどきの犯人探しに異様なほど熱中し、コカインを吸うなどなかなか過激な人物でした。

この兄弟の様子からは、彼らの家庭環境もまた、恵まれたものではなかったのだろうと推察されます。
おそらくグラバーの兄弟もまた、虐待を受けて育った可能性が高いでしょう。
ジョン・ウェイン・ゲイシーも虐待環境下で育ったため、シンプルにそれが背景設定とも捉えられますが、デリクソン監督も幼少期「家の中で暴力があった」と述べている点も考えると、監督自身の原風景が投影されている部分もあるかもしれません。

映画『ブラック・フォン』におけるグラバーの犯行には、性的欲求に基づくものであるという証拠は、何一つ明確には提示されていませんでした。
一方で、少年たちをいたぶるといったような嗜虐性は描かれています。

この点を踏まえると、デリクソン監督にとって、グラバーがあのような犯行に至った動機には、重点を置いていないのでしょう。
そこはジョン・ウェイン・ゲイシーなり原作の殺人鬼なりを当てはめたり、観る側の想像にお任せ。

デリクソンが描いていたのは、彼のマスクによる自己表現と少年に向ける暴力性であり、これらの点からは、グラバーはグラバーで、彼自身のトラウマを克服しようとしていたという解釈が見えてきます。
「暴力で支配される側」から「暴力で支配される側」になり、過去の自分を救済しようとする試みです。
その場合、ベルトで叩くなどの行為は、彼自身が受けてきた虐待である可能性が高くなります。

この解釈だと、「ルールを破ってイタズラ少年になってくれないと、グラバーは何もできない」という部分も理解しやすくなります。
彼の中では、暴力を振るわれるのは「悪い子」でないといけないのです。
もちろんそれは、彼が親から刷り込まれた価値観ということになります。

フィニーに対して葛藤する様子も見せていた点からは、グラバーの犯行が快楽殺人と考えるのはやや安直に思えます
彼の姿からは、そうせざるを得ないような苦しみや強迫性も感じられました。


本当のグラバーは、傷ついた弱い存在である。
それを隠すためにマスクをしていたのであり、まさに「仮面を被っている」状態でした。
心理学的に言えば「ペルソナを被っている」ということであり、だからこそ、本当の素顔を見られることをひどく恐れていたのでしょう。

それは多重人格とは病理としてはまったく異なり、常に自分を偽らないといけない辛さが伴います。
マジシャンとしてもマイケル・ジャクソンばりに白い顔にサングラスをかけていましたし、1人のときにもマスクを被っていたので、仮面を被ることが彼の当たり前になっていたと考えられます。
もはや、マスクを通してしかコミュニケーションが取れず、本当の自分というのは自分でもわからなくなっていたかもしれません

どんな理由があれ彼の犯行は正当化はされませんが、彼もまた暴力の犠牲者であったと考えると、根深い社会病理が見えてきます。
グラバーを殺して脱出したフィニーもまた、暴力による解決を学習したとも言えるでしょう。
環境面も考慮すれば、グラバーという存在はフィニーの将来を暗示しているかもしれません
そうならないためには、今後の環境やフィニー自身の努力も大切ですが、強さと同時に優しさを併せ持つグウェンの存在と、父親が立ち直ることができるかという点が、重要な鍵を握っていると考えられます。

コメント

  1. s より:

    フィニーです。面白くなってしまいます。

  2. アバター画像 異端者のフォーク より:

    >sさん
    すっかりファニーなボーイになってしまっておりました、ご指摘いただきありがとうございます。

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