作品の概要と感想(ネタバレあり)
ゲイのカップルであるエリックとアンドリュー、そして養女のウェンの家族が山小屋で穏やかな休日を過ごしていると、突如として武装した見知らぬ謎の男女4人が訪れ、家族は訳も分からぬまま囚われの身となってしまう。
そして謎の男女たちは家族に、「いつの世も選ばれた家族が決断を迫られた」「家族のうちの誰か1人が犠牲になることで世界の終末を止めることができる」「拒絶することは何十万もの命を奪うことになる」と告げ、エリックとアンドリューらに想像を絶する選択を迫ってくる。
テレビでは世界各国で起こり始めた甚大な災害が報じられるが、訪問者の言うことをにわかに信じることができない家族は、なんとか山小屋からの脱出を試みるが──。
2023年製作、アメリカの作品。
原題は『Knock at the Cabin』。
原題の方がよりシンプルに内容が反映されています。
個人的に大好きな、『シックス・センス』『ヴィレッジ』『オールド』などのM・ナイト・シャマラン監督作品。
正直、『オールド』が面白かった&だいぶわかりやすくて一般にもお勧めできる作品だったので、「そろそろ危ないんじゃないか……?」と危惧していましたが(失礼)、本作もかなり楽しめました。
あらすじがすべてで、「選択するかしないか」だけでほぼ全部の時間を使っており、しかし全然飽きないのがさすがシャマラン。
とはいえ、だいぶ理解できない点が多いのも事実。
『オールド』では「シャマランも丸くなっちゃって、もう」とか、何様のつもりだ?と自分で突っ込んでしまうようなことを思ったりもしましたが、本作はシャマランっぽさが強く感じられました。
どこから持ってきたのかわからない大きな風呂敷を広げて、独自の世界観で何がどうなるのかハラハラさせて、「何がどうなったの……?」で終わる。
そんなシャマランらしさが溢れていましたが、本作の結末はけっこうまとまっていた気がします。
終始先が読めない展開でしたが、どんでん返しのような要素はなし。
ただ、『オールド』『ノック 終末の来訪者』とどちらも原作があるようなので、完全にシャマランオリジナル作品ではありません。
次回作はオリジナル作品で、すでに2024年4月に公開予定らしいので、楽しみにしたいと思います。
本作は作中でも黙示録について言及されており、聖書から引用したり派生したりしている点も多そうなので、そのあたりに疎い身としては、本質的な理解はなかなか難しいものがあります。
ですが、それらがわからない上、いきなり世界の運命を握る選択とか言われて、観客も主人公(?)のエリックとアンドリュー並みに訳もわからないのに、それでも引き込まれてしまうプロセスの描かれ方はやはりすごい。
来訪者4人のキャラがとても立っていたところが、個人的に飽きない要因の一つでもありました。
特に、エリックとアンドリューが決断をせず4人の側が犠牲になる際、突然無表情になって儀式のように動き出すところが大好き。
キャスティングも素晴らしかったです。
最初に退場してしまったレドモンド役は『ハリー・ポッター』のロン役の印象が強いルパート・グリントでしたが、お元気そうで何より。
看護師のサブリナ役のニキ・アムカ=バードは、『オールド』にも出演していました。
圧倒的な存在感を放っていたリーダーっぽいレナード役のデイブ・バウティスタは初めて観ましたが、アクションを中心に作品に出ているのですね。
すごく大柄でしたが、もともとプロレスラーだったとのことで、納得。
家族側の、脳震盪を起こしたエリック役のジョナサン・グロフは、何と『アナと雪の女王』のクリストフの声でした。
さらには、まさかの『マトリックス レザレクションズ』のスミス役。
しかしスミスは最初の3部作のヒューゴ・ウィーヴィングのイメージが強すぎるので、言われても思い出せない。
本作はずっと山小屋の中で展開されるわけですが、あまりソリッド・シチュエーション的な感覚は抱きませんでした。
合間合間で回想シーンが挟まれたのもあるかもしれませんが、人間模様に重きが置かれていたからかもしれません。
それでいて、非常に閉塞感や不安感も感じられたのは、エリックとアンドリューが縛られていたせいもありますが、カメラワークもおそらく大きい。
本作の特徴として、明らかに顔のアップが多用されていました。
これは、向かい合っている感覚を強く抱かせる意味があったと考えられます。
3人家族と、4人組。
そして終盤では、エリックとアンドリュー。
対峙であり対話でもありましたが、その「向かい合う」点が強調されていました。
一方で、不快感や不安感を抱かせる演出にも繋がっていたと感じます。
とあるCMでも「顔のドアップが不快だ、怖い」というのが少し話題になっていましたが、顔のアップというのは、それだけで圧迫感を感じます。
人はそれぞれ、自分にとって快適な距離感であるパーソナルスペースを持っていますが、こちらに迫ってくるような顔のアップは、多くの人にとってパーソナルスペースが侵食されるような不快感を抱きやすいものとなるのです。
シャマラン監督の恒例カメオ出演は、今回はテレビの料理番組でしたが、時間が長いのでわかりやすかったです。
さて、本作は解釈が非常に難しいのが悩みの種です。
単純に表面をなぞったような見方でも十分楽しめたのですが、本質的な理解にはおそらく到底達していません。
後半では、ひとまず現状での個人的な考察を述べてみたいと思いますが、細かい点でまとまりきっていない部分もあるので、いずれ再鑑賞する機会があれば、また加筆するかもしれません。
考察:社会と家族という、社会的なテーマでは?(ネタバレあり)
宗教的な点について少しだけ
『ノック 終末の来訪者』は、聖書や黙示録のモチーフが多用されていました。
上述した通り、この点は知識が乏しいのでどこまでが聖書モチーフなのかわからず、宗教的な解釈は他の詳しい方にお任せしたいと思います。
ただ、個人的に印象的だった部分に少しだけ触れておくと、どうしても見逃せないのは「7回のノック」です。
タイトルでもあり、エンドロール後にも流れたことからは、意味がないわけがありません。
キリスト教では、7という数字は「完成、完全」を象徴するようです。
神が天地創造を行ったのが7日間であるのを筆頭に、聖書には7という数字が散見されます。
つまり、あの7回のノックは、明らかに人間を超越した存在の関与が示唆されていると考えられます。
しかしそれは、あの来訪者4人組が神の遣いである、という解釈ではありません。
キリスト教で「3」という数字は、三位一体、神の世界を象徴します。
また、「4」という数字は、自然、つまり神が造った全世界を表す数とされています。
この3と4が組み合わさって、7となるのです。
つまり、3人の家族と4人の訪問者が揃ったあの山小屋自体が、世界を超越した場として機能している、と理解しました。
さらに、来訪者4人組は黙示録の4騎士と言われていましたが、7という数字に関連して興味深いのは、黙示録の第7章です。
以下に、少し印象深い部分をピックアップします。
1 この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた。
9 この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、
13 すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」
14 そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
「……で?」
と問われると、
「何か白い衣っていうのとかも、4人組は白いのを頭に被せて儀式してましたし、関連ありそうじゃないですか!?」
という馬鹿っぽい答えでしかないのですが、勝手に関連性を感じたので書き記しました。
ちなみにどうでも良いですが、あの白いやつ、もう少し生地が薄かったらストッキング被るギャグみたいな顔になって、とても間抜けなシーンになってしまいそうでしたよね(本当にどうでもいい)。
社会と、家族と、選択と
さて、本題に近づきますが、これらの宗教的な点を踏まえつつも、本作は非常に現代的な社会が反映されている作品であると解釈しました。
これは勝手な妄想ではなく、シャマラン監督もインタビューにおいてそのような言及をしています。
「生き残りを懸けて葛藤するキャラクターこそ面白い。劇場に足を運んでもらうには“今”を切り取った作品を作る必要がある。わざわざ劇場に行くのは心の底から感動したいからだ。本作のような物語は不完全であることが重要になる。それこそが物語を伝える側の命題だ。観客と一緒に埋める余白を残しておくんだ」
https://knock-movie.jp/news/
「今回の場合は、人類は進化してきたけれど今の我々の姿は正しいのか、間違っているのかということです。僕は、人間誰もがストーリーを語るものだと思っています。今はいろんな人たちのストーリーがぶつかって衝突している状況で、一つの世界で同じ物語を語ることができないと、究極的には人類も惑星も破滅してしまうと思います。作品と同じように、時限爆弾がかけられているような状態。僕は映画の中のキャラクターと同じように“父親”でもあるし、人類はその爆発に間に合うよう一つにまとまることができるのかということを考えています」
「また、興味深いと思っていることのひとつは、映画の前提が「神はいるかもしれないが、我々は彼らの考えを誤解してはいないか?」という部分です。もし、その存在がこの家族をただの普通の家族だと思っていたとしたら? 僕らの方で何か勘違いをしていたら?」
https://eiga.com/news/20230407/14/
このあたりが考察に重要そうな部分ですが、宗教的な要素は用いられつつも、あくまでも主題は「今の世界に生きる人間」であると考えられます。
3という数字は、精神的な統一を象徴することも多々あります。
昔話などでは、「3人」「3回」「3年」など、3という数字が非常に多く見られます。
人間世界の統一された最小単位は1人の人間ですが、コミュニティの最小単位として挙げられるのは家族です。
あとでも少し触れますが、エリック、アンドリュー、そしてウェンの3人は、安定した家族の象徴です。
4という数字は、上述した通り自然の象徴とされています。
また、精神科医で心理学者のユングは、無意識から算出される象徴としては、むしろ4が完全統一を示し、3はそれに至る前の力動的な状態を反映していると主張しました。
つまりは、4の方がより完全性の高い上位であり、自然や社会、世界全体を示すものとして捉えられます。
4人の来訪者は、それらを象徴する存在として選ばれました。
おそらく、運命であり、偶然であり。
本作で描かれたのは、社会と家族の対峙や対話であり、その中での選択です。
そして家族の側は、同性愛のカップルに、口唇口蓋裂?らしき先天性の疾患があるアジア系の養子。
明らかに、現代の社会的にはマイノリティな家族です。
誤解を恐れず言えば、社会的な差別や偏見が向けられやすい要素の詰まった家族です。
そんな家族と社会の対峙。
その中で提示される選択肢は、家族の犠牲か、世界の犠牲か。
ここで大切なのは、この選択は、4人組(社会)が求めているわけではなく、より超越した存在、それを神と呼ぶのか運命と呼ぶのかは自由ですが、それによって提示されているだけであるという点です。
山小屋自体がそれを象徴する場であるというのは、すでに述べました。
また、冒頭でウェンが集めていたバッタも、それを示唆するものでしょう。
我々は瓶に詰められたバッタ同然であり、その中でできる選択を積み重ねて生きていくしかないのです。
レドモンドが過去にエリックたちと出会っていたことも、4人組の車で3人が歌っていた歌が流れたことも、深い意味があるというより「ただの運命のいたずら」として捉えています。
他に本作で特徴的なのは、4人組が非常に礼儀正しい点でしょう。
謎の4人組が侵入してくるというシチュエーションだけ似ているジョーダン・ピール監督の『アス』のような、侵襲的な来訪者というのが、本作のような映画などでは通常イメージされやすいものです。
しかし本作における来訪者は、そういった「よくある災いをもたらす来訪者」像からは一線を画します。
彼らもまた、社会を象徴しながらも、1人1人は運命に翻弄される人間に過ぎません。
それぞれに家族や、守るべきものもありました。
本来は3と4が合わさって全体となるべきであり、対決したり排除し合うような関係性ではないはずです。
『ノック 終末の来訪者』においては、犠牲は伴いましたが、全体として見れば、現時点では世界の終末は回避できたハッピーエンドとして捉えられるでしょう。
その結末に至ったのは、7人の登場人物たちがお互いに敬意を忘れず、「対決」ではなく「対話」をしたからです、
4人組が、同性愛や先天性の疾患、人種を差別し排除しよう威圧的に接していたら。
3人家族が、自分たちマイノリティを排除しようとする存在として社会を敵対視していたら。
このような結末には至らなかったはずです。
エリック、アンドリュー、ウェンの3人については、家族愛も描かれていました。
シャマラン監督の一番下の子も養子らしく、シャマラン監督自身の家族観も投影されているらしいのですが、「親は同性愛カップル、子どもは養子」という血の繋がりのない3人組が家族として成り立つのか?というテーマ。
当然成り立ちますが、本作で描かれていたのは本質的な家族愛です。
お互いを想う心。
そして、実の親からも差別的な視線を向けられたエリックとアンドリューが社会を憎み、「パートナーと子どもさえいればいい」という思いであれば、3人だけ助かって3人で幸せに生きていくという選択もあったはずです。
しかし、エリックが選択において最も重要視したのは、ウェンの未来でした。
3人だけで生きていく未来よりも、社会の中で生きていくことがウェンの幸せになると判断したのです。
もちろん、それも正解だったのかはわかりません。
人間にできるのは、選択を積み重ねることだけ。
最後に、黙示録の4騎士は、
・第1の騎士は、勝利の上の勝利(支配)を得る役目を担っている
・第2の騎士は、地上の人間に戦争を起こさせる役目を担っているとされる
・第3の騎士は、地上に飢饉をもたらす役目を担っているとされる
・第4の騎士は、疫病や野獣をもちいて、地上の人間を死に至らしめる役目を担っているとされる
ようです。
しかし、4人の死によってもたらされた災厄は、これらをなぞったものとは言い難い部分もありました。
この点も個人的には、黙示録をなぞったというよりも、現実世界が反映されたものという解釈です。
津波、飛行機の墜落、疫病、そして雷雨と火災による世界の終わり。
飛躍してるのかもしれませんが、個人的に連想したのは、3.11であり、9.11であり、COVID-19であり、自然破壊による地球の終焉です。
特に前者三つが、個人的には偶然とはどうにも思えません。
さらに抽象化すれば、自然災害、戦争、疫病、天変地異ということになります。
世界という瓶の中で、運命に翻弄されながら、人間にできるのは選択することだけ。
何かを選択するということは別の選択肢を切り捨てるということなので、犠牲の伴わない選択はありません。
しかし、その選択によって未来は変わります。
何が正解かわからない中でも、個人が考え、個人同士が話し合い、社会が取り組み、最善の選択を目指してくことができる。
それが、本作に込められたメッセージの一つなのではないか、と感じました。
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