作品の概要と感想(ネタバレあり)
とある殺人現場で発見された、身元不明も死因も不明の遺体。
遺体安置所を営むトミー・ティルデンのもとに、解剖の依頼が舞い込む。
息子のオースティンと解剖を進めるうちに、徐々に遺体の異様な状況が明らかになっていく──。
2016年製作、イギリスの作品。
原題も『The Autopsy of Jane Doe』なので、そのまんまです。
「ジェーン・ドウ(Jane Doe)」は、日本語で言う「名無しの権兵衛」の女性版。
「名無しの権兵衛」が現代でどれだけ通じるかわかりませんが、つまりは「名前が明らかになっていない、明らかにしたくない」場合に使われます。
男性版は「ジョン・ドウ(John Doe)」で、映画『セブン』などで使われています。
検視官のトミー(ちょっと太ってるけどイケオジ)と息子のオースティン(現代風だけどめっちゃ父親想いのいい息子)が身元不明の女性遺体を解剖するうちに、次々と明らかになってくる不可思議な状況。
雰囲気や演出が抜群に良く、個人的にとても好きな作品でした。
光と影の使い方や、何より音を使った恐怖喚起が秀逸。
じわじわ不穏な雰囲気になっていくところが日本のホラーっぽさもあり、そういったホラーが好きな人にはぜひ観ていただきたい一作。
解剖シーンをかなり丁寧に描いており、手術シーンとかが苦手な人はきついかもしれません。
ホラーの演出としては比較的シンプルで、だいたい「何か起こるぞ」という演出があってから何かが起こります。
ただ、「何か起こるぞ」感を出しておきながら何もないこともあるので、その不安定さが良い緊張感に。
前半は、ジェーン・ドウの遺体の不気味さに、嵐の山荘のようなミステリィ要素も加わります。
閉鎖空間で登場人物も少なく、ただ解剖シーンを中心に進めていくだけなのに、テンポが良くて緊張感が途切れません。
86分という短さとは思えないのは、無駄に冗長なシーンがなく、必要なシーンだけで次々と進んでいくからだと思います。
後半は、謎が明らかになりつつ一気に展開。
前半は、どのような方向に転ぶかが見えず、まったく状況がわからないことによるドキドキワクワク感があるだけに、オカルト色の濃くなる後半の展開が合わない人も当然いると思いますが、前半だけでも楽しむ価値はあると思います。
職業柄もあってか、ティルデン父子が基本的に冷静なのも評価高いです。
どれだけ異常であっても目の前の状況を受け入れ、現実的な対処を画策します。
ホラーにつきものとはいえ観客を苛立たせがちな、無駄な行動も少なめ。
本作は、回収されていない謎もいくつかありました。
後半では、それらを自分なりに考察してみたいと思います。
考察:いくつかの謎と、「遺体」の怖さ(ネタバレあり)
いくつかの謎の考察
①ジェーン・ドウは何者か?
ジェーン・ドウは結局、魔女狩りの被害者であったと作中でも考察されています。
途中で明かされた「セーラム(セイラム)の魔女裁判」は、実際にあった事件です。
1692年から1963年にかけて、200名近い村人が魔女として告発され、20人が死刑や拷問で死亡。
ジェーン・ドウは、その犠牲者の一人でした。
トミー(父さん)は、「彼女は絞首刑や火刑の代わりに、拷問されたんだ」と推理。
ただ、そうだとすると、大勢が犠牲になった中で、なぜ彼女だけがこのような存在として残ったのかは謎として残ります。
本当に魔女だったのか。
他にも各地にこのような遺体が彷徨っているのか。
あるいは、犠牲者たちの想いが統合された象徴としての存在かもしれません。
劣化や腐敗することのない身元不明の遺体(というより生きている?)として、たどり着く先々で人々に同じ苦しみを味わわせていたのでしょうか。
映画序盤に出てくる惨殺されていた一家も、同じようにジェーン・ドウの呪い(?)により、家に閉じ込められて逃げ出すことができず殺害されたと思われます。
トミーは、すぐに自分たちが殺されないことについて、「同じ苦しみを味わわせたい、復讐したいから、殺さないんだ」と推理。
これまでは誰もジェーン・ドウの真実を見抜くことができず、ただ苦しんだ末に最終的には殺された。
唯一、トミーが今回、ジェーン・ドウの苦しみを初めて読み解き、さらにはその苦しみを引き受けようとしました。
手首と足首が折れ、肺が焼けていくというジェーン・ドウと同じ苦しみ(かつての魔女裁判の被害者の苦しみ)がトミーを襲うと同時に、ジェーン・ドウの身体や目は生気を取り戻していきます。
もしかすると、誰かが苦しみをすべて引き受けてくれれば、ジェーン・ドウは復活できるのかもしれません。
ただ、苦しんでいる途中のトミーをオースティンが殺して楽にしてあげてしまったので、ジェーン・ドウの儀式は終わらず、見限られたオースティンも殺されてしまったのではないかと思います。
オースティンの心情は理解できますが、結局、トミーの苦しみも無駄に終わってしまいました。
②何が起こっていたのか?
結局、あの悪夢の一晩には何が起こっていたのでしょうか。
結論としては、ほとんどはジェーン・ドウによって引き起こされた、ティルデン父子の幻覚妄想、あるいは現実から切り離された空間での出来事のようなものだったと思われます。
理由としては、終盤のラジオで「今日も天気は良好。4日連続の快晴です」と言っていたからです。
ティルデン父子が体験した悪夢の夜は、外では木も倒れるほど大荒れの嵐のようでした。
しかし、現実では嵐にはなっていかったわけです。
つまり、雷の音が聞こえ出した場面では、すでに現実から乖離した状況になっていたはず。
その場面は、ジェーン・ドウの遺体の外部の検証を終え、心臓や肺を見ようとしていたあたりからです。
実際にメスを入れて解剖を始めたあたりから、すでに現実ではなかったことになります。
しかし、すべては、「あの空間」では、トミーとオースティンの身に確かに起こっていた事実。
それは、燃えていた写真やビデオカメラ、斧で破られたドアなど、事件後の状況からも明らかです。
ただ、実際に解剖した様子だけが、一切認められません。
③エマはどうなったのか?
オースティンの彼女、エマ。
エマは、起き上がって彷徨い始めた遺体と間違えられて、トミーが振り下ろした斧により死んでしまいます。
父さん、やっちまったな!
そのシーンの直前、エレベータの音がしたので、あのときに下りてきたのでしょう。
それは、解剖が始まる前にした「あとで来てくれ」というオースティンとの約束を守るため。
エレベータで下りてきてからすぐに姿を現さなかったのは、序盤の、音がしたのでエレベータの様子を見に来たオースティンを、背後から脅かしたシーンが伏線になっていると思われます。
地下では大事件が起こっているなんて思いもせず、今回もオースティンを脅かそうと思った末の悲劇。
と、いうのが素直な捉え方ですが、個人的には、本当はあの夜、エマは来なかったのでは?と思っています。
理由は、三つあります。
すべて最後の捜査シーン。
- トミーとオースティンの遺体は、死んだときの状態そのまま。一方、すぐシーンが切れてしまいますが、一瞬映った限りでは、エレベータ前では捜査員が床を何か調べていましたが、エマの遺体は見当たらない
- エマは明らかに他殺体にもかかわらず、捜査員たちの話題にものぼらず、「侵入者の形跡はない」と断言されている
- 最後に運び出された遺体は、ジェーン・ドウのもの以外は、2体だけ
これらのことから、エマが来て殺してしまったというのも、現実ではなかったのではないかと考えています。
エマ側から見れば、エレベータが故障していたなどで、下りることができなかったのではないでしょうか。
はっきりしない謎たち
①なぜ遺体に襲われたのか?
突如起き上がり襲いかかってきた、安置されていた遺体たち。
なぜそんなことになったのか。
はっきりとは描かれませんが、ジェーン・ドウによるものであろうことは確実です。
ただ、ちりんちりん、の鈴の演出は最高ですが、その目的はいまいちわかりません。
現実とは異なる空間でのできごとだったと考えると、あれは単純に怖がらせ、苦しませるための演出だったのでしょうか。
近くにあったら使われた、ぐらいの感覚かもしれません。
猫のスタンリー(ジェーン・ドウの遺体が到着したときに何やら威嚇するような声を出していたので、何か感じていたのかも)を火葬した火葬炉を発火させたのも、目的が謎です。
煙の中で遺体たちに襲われる演出のため、としか思えないような……。
いずれにせよ、演出家ジェーン・ドウによる「怖がらせてやろう」という演出であったのでしょう。
しかし、消防士の次に一酸化炭素中毒の恐ろしさを知っていそうなティルデン父子が、一直線に煙の中に突き進んでいったところは、思わず心の中で突っ込んでしまいました。
口にハンカチとか当てることもなく、姿勢を低くもせず、ゆっくり歩いて突入していきながら、咳き込むこともない。
さらには、蠢く遺体たちの存在もわかっているのに、無警戒に視界の悪い煙の中を突き進む。
そして案の定、襲われます。
ジェーン・ドウの身体を燃やしたときも、めちゃくちゃ熱そうな距離で微動だにせずじっと見つめていました。
炎に対しては無敵親子。
②ラストの警察官
やはり一番の謎は、ラストシーン、ジェーン・ドウの遺体を運ぶ警察官。
「もう二度としないよ。約束する」という台詞は、正直、何を指しているのかまったくわかりません。
耳にインカム?をつけているようなので、彼女に電話しているだけだという考察も多いですが、そうだとするとあまりにも意味のないシーンになってしまいます。
振り向いている姿勢からも、ジェーン・ドウに語りかけていると捉える方が自然です。
ラジオが切り替わり、あの歌が流れ始めるのは、まだ悲劇は続くよということの表現に思います。
切り替わる前の一瞬、「ヘブライ書4章では神の言葉は……」というラジオの声がわざわざ入っていることからは、聖書と関連あるのかもしれません。
その辺は疎いので、いずれ調べて考えてみたいです。
それにしても、遺体をほとんど剥き出しの状態で、警察官1人だけに搬送を任せるのは、だいぶやばいですよね。
その時点でもう何かおかしかったのかな。
「遺体」の怖さ
この作品で個人的に評価の高い点は、ジェーン・ドウの遺体が一切動き出さないことです。
思わせ振りに何度も顔が映し出されながらも、瞳ひとつ動かない。
遺体役の女優(オルウェン・ケリー。YouTubeにあるメイキング映像では素敵な笑顔も見せてくれているので必見です)の演技の凄さは置いておくにしても、ずっと不気味な遺体として存在し続けていたことが、この映画のリアリティのバランスを保っていたように感じます。
あれが動き出していたら、かなりバランスが崩れていたはず。
そもそも、遺体がなぜ恐怖の対象となるのか。
恐怖の感情が死に根ざすものである限り、死を想起させるものに不安を感じるのは当然です。
そのひとつが、遺体。
人間であり、人間でない存在。
そして、死という概念と直面せざるを得ない存在です。
人間は、特に、人間に対する細かな違いに敏感です。
死んでいる人間を見た場合、脈を見たりしなくても、直感的にその死を察知することも少なくありません。
同じ人間のはずなのに、「何か違う」という怖さ。
障害者への偏見なども、「違うこと」「わからないこと(理解不足)」に由来する恐怖に基づくものという意味では、同じ線上に位置しています。
道端に転がった動物の死体でも、嫌悪や恐怖を感じ、目を背けたくなる人も少なくないはずです。
それは、幸いにして差し迫った死の恐怖に怯えず、平和に暮らせている日常の中に紛れ込んだ、死の概念であるからに他なりません。
現代の日本では、昔に比べるとはるかに死は身近ではないものになっています。
昔は、たとえば3世代の家族が同居し、子どもであっても、自宅で祖父母などが死にゆく過程を目撃し、体験することが普通でした。
核家族化が進み、さらには医療の発達や介護施設の拡大により、死や遺体に直面するのはせいぜい霊安室かお葬式だけ、ということも珍しくありません。
病室や霊安室、葬儀場は、やや非日常感を伴う場であり、日常からは極力、死が排除されているのです。
それによって、死や遺体はさらに未知の存在となり、その恐怖が増していきます。
人間であって人間でない存在。
しかし、いつかは自分もそうなる存在。
遺体を見て感じる心のざわめきは、遺体そのものへの恐怖ではなく、遺体が想起させる自らの死にざわめいているのです(もちろん、近しい者の遺体であれば悲しみなども喚起されますが)。
その意味では、遺体が動き出した瞬間、それは象徴的な死の概念から離れて、直接的な恐怖に変わります。
襲われる、何かされる、殺されるんじゃないか、といったような恐怖です。
そのため、『ジェーン・ドウの解剖』が合わない人は、遺体が動き始めたあたりからではないかと思います。
直接的な恐怖かつ現実的ではない展開に変わったことで、冷めてしまうのです。
しかし、ジェーン・ドウの遺体は、目の色が変わったりはしますが、あくまでも動かない遺体であり続けます。
それは常に、象徴としての死の恐怖を発し続ける存在です。
そこを貫いた点が、この映画の恐怖を高める一番の要因になっていたのではないかと思いました。
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