作品の概要と感想(ネタバレあり)
仕事のため、家族と離れ、1人留守番をすることとなったエヴァン。
その夜、ノックの音に玄関のドアを開けると、そこには2人の若い女性が立っていた。
道に迷ったという2人を親切心から家の中へ招き入れたエヴァンは誘惑に負け、彼女たちと一夜をともにしてしまう。
それはエヴァンの地獄への第一歩だった──。
2015年製作、アメリカの作品。
原題も『Knock Knock』。
個人的かつ時事ネタで申し訳ありませんが、2023年の映画鑑賞をイーライ・ロス監督の『サンクスギビング』で締めくくったので、2024年は同じくイーライ・ロス監督作品で未鑑賞だった本作で始めてみました。
とはいえ、本作は完全オリジナルではなくリメイク作品。
オリジナルは1977年の『メイク・アップ(原題:Death Game/The Seducers/MAKE-UP)』という作品。
邦題は『メイク・アップ 狂気の3P』と書いているものもあるようですが、どないやねん。
いや、間違ってはいないですけれども。
オリジナル版は未鑑賞ですが、ざっとあらすじを見てみた限り、軸となる部分はほぼ忠実なリメイクのようです。
オリジナル版は、1975年に実際にあった事件を基にしているらしく、冒頭では「これは事実に基づき作られた映画です。人は誰しもが災難に巻き込まれる可能性がある事を、この物語は気づかせてくれます」といったメッセージから始まるようです。
『ノック・ノック』も現代的なデバイスを活用したりエンタメ風味の味つけがされていますが、軸となる部分がほとんど同じにもかかわらず今でも通用するというのは、それだけ普遍的なテーマを扱っているということでしょう。
本作はいわゆるハニートラップによって幸せな日常が一晩で崩れ去る男性を描いた物語でしたが、未成年淫行や不倫などで逮捕されたり業界から消えた芸能人も、こういうパターンもあったんだろうなぁ……と思わせるリアルさがありました。
しかし、性別や性的なトラブルに関わらず、詐欺被害など、誰しも些細なミスや選択で同じような状況に陥ってしまう可能性を持ち合わせています。
なので、何ともダサくて情けないキアヌ・リーブスが本作の見どころでしたが、「はっ、自業自得だろ。馬鹿な奴だなぁ」と他人事のように笑い飛ばし、「自分は絶対にこんなことにはならない」と思う人ほど、きっと危険。
油断を戒め、日々を大切にしよう、と改めて思えたという意味では、新年に相応しい映画だったかもしれません。
「一度の過ちをものすごく後悔する」という感覚の描かれ方が抜群でした。
闖入者によって一気に日常が崩壊する、という構図では、胸糞映画の話題では必ず名前が挙がる『ファニーゲーム』に似ている印象も受けました。
ただ、ひたすら理不尽で、観客を不快にさせることだけに特化していたような『ファニーゲーム』に対して、『ノック・ノック』はメインの登場人物全員にイライラさせられながらもどこか間抜けで笑ってしまうエンタメ作品であり、本質的には大きく異なります。
一方的に究極の理不尽さを押しつけられる『ファニーゲーム』に対して、『ノック・ノック』の主人公エヴァンは、根本的には自業自得なので、抵抗したり説得しようとする姿もどこか滑稽。
優しいというよりは流されやすく、成功しているにもかかわらず根本的には内気で自信がなく女性経験も乏しいエヴァンを演じたキアヌ・リーブスの演技は抜群でしたし、「何でキアヌ・リーブスがこんな作品に……」と思う一方で、キアヌ・リーブスだからこそ本作が成り立っていたようにも感じました。
キアヌ・リーブスといえば、印象が良い俳優の1人でしょう(少なくとも日本では)。
「Sad Keanu(ぼっちキアヌ)」としてミーム化した写真たちはあまりにも有名ですし、その他にも、ホームレスの男性とタバコを吸っている写真を撮られたりと、いわゆる「いい人」かつ気取らない身近さを感じさせるイメージが強いのは間違いありません。
そんなキアヌがエヴァンを演じたからこそ、実際にいそうなエヴァンという人物像、現実にあり得そうな転落劇、そしてエヴァンの滑稽さが際立っていました。
また、単純に、作品のバランスを取る機能も担っていたように思います。
上述した通り本作は、闖入者の女性2人にも、エヴァンにも、終始イライラさせられます。
これがキアヌ・リーブスだから面白かったり画になっているだけで、「何やってんだよキアヌ……!救世主だったキアヌはどこに行ったんだよ、こんな姿見たくないよ……!」とツッコミながら観ることができますが、これが無名の冴えない男性であったら、リアルさはさらに増せどもただただイライラするだけの作品になりかねません。
ちなみにキアヌ・リーブスは、本作の時点で51歳ぐらいでした。
作中で「43歳にはとても見えない」と言われていましたが、それどころではありません。
ベルとジェネシスという女性2人の演技も光っていました。
2人とも、訪問時の態度と、一線を超えた翌朝以降の品と遠慮がない態度のギャップが素晴らしい。
話が通じるようで根本的なところでずれている感覚や、本当に心からゲームを楽しんでいるように見える様が、怖さにも繋がっていました。
特に、ベルを演じたアナ・デ・アルマスの、可愛くも無邪気なようで計算高いあざとさを纏った空気感は素晴らしかったです。
犬の鳴き声の真似が上手すぎました。
ジェネシスを演じていたロレンツァ・イッツォは、本作制作当時、イーライ・ロス監督と夫婦関係にありました。
2013年のこちらもイーライ・ロス監督作品『グリーン・インフェルノ』では初主演を務めており、2014年に結婚するも、2018年には離婚しているようです。
『ファニーゲーム』とは違い、エヴァンも女性2人も「どっちもどっち」でしたが、唯一かわいそうだったのはルイスでしたね。
ただただ巻き込まれただけでしかない上に、唯一の死者となってしまいました。
ちなみに、タイトルになっている『ノック・ノック』ですが、海外にはアメリカ発祥の「ノックノックジョーク」というものがあるようです。
たまに他の海外映画でも見かけますが、本作でも終盤、首から下を埋められたエヴァンを前にベルとジェネシスがやっていたのがまさにそれで、「Knock knock!」から始まる会話で、名乗りつつジョークを交え、オチをつけるというもの。
少しメタ的に見ると、ノックノックジョークの定型とは異なりますが、本作全体がジョークとも言えるでしょう。
突然ノックをして訪ねてきたベルとジェネシスに翻弄され、自滅するエヴァン。
ラストで、Facebookに投稿された動画を消そうとして自分で「いいね!」を押してしまうところなんか、完全にコントのオチでしかありません。
そもそもあんな大きな家でインターホンがないわけもなく、実際ヴィヴィアンやルイスはインターホンを鳴らしていたので、意図されていた面はあると考えられます。
観ていて楽しい内容なわけではないのに、なぜか一気に観てしまい楽しかったなぁという気持ちが残っており、改めてイーライ・ロス監督作品が好きなんだなと感じました。
考察:エヴァンと、ベルとジェネシス、それぞれの背景や心理(ネタバレあり)
エヴァンの背景と心理
本作の中では不甲斐なさが目立ってしまったエヴァン。
彼は、なぜ流されてハメられてしまったのでしょうか。
それは、ただ流されやすい性格だから、というだけではありません。
この点は、考察するというより、イーライ・ロス監督のインタビューで集約されてしまっていると言っても過言ではありません。
一家の父であるエヴァンは男としての不甲斐なさを感じていて、家族は自分を評価していない。
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父の日なのに妻は仕事があるからと出掛けてしまったり。
俺ってなんなんだ、と思っているような時に美女がやってきて、「あなたってセクシーね」「DJもやってるなんてすごいわ!」と言ってくれる。
だから翻弄されてしまう。
注意深く見ると分かると思うけれど、設定で彼は建築家だから、あの家を建てているはず。
でも隅っこでちまちまと仕事をしているんだ。
一方の妻は、家中に堂々と自作のアート作品を広げている。
押しつぶされてしまいそうなエヴァンが、あの誘惑美女を想像の中で生成してしまったという見方もあると思う。
改めて家の中の様子を思い出してみると、確かに家の大部分を我が物顔で占領しているのは、妻カレンの作品ばかり。
もちろん、単純に作品が大きいからというのもあるでしょうが、どこかエヴァンが肩身が狭そうなのも間違いありません。
冒頭では良いパパを演じ、仲の良い夫婦、広く大きな家と、一見何不自由ない幸せな家庭に見えますが、本当にエヴァンは幸せなのか?というのが少しずつ見えてきます。
どうも、これが幸せなんだと自分にも言い聞かせている感が否めません。
顕著なのは、夜中に爆音で音楽をかけながら仕事をしているシーンでしょう。
普段からあのようにやっている可能性もなくはありませんが、奥さんに遠慮したり、何より子どもの睡眠を邪魔してしまうので、普段はせいぜいヘッドホンで聴いているのではないかな、と思わせます。
絵に描いたような幸せな家族に見せかけて、エヴァンはどこか不満を抑圧しているように感じさせます。
それは家族への不満というより、自己実現に近い「自分の本当にやりたいこと」「自分の幸せ」が実現できないことへの不満です。
家族、特に子どもを作れば、自分の好き勝手にはできなくなります。
それは当たり前ではありますし、実際にエヴァンは今の生活に幸せを感じていたのでしょうが、もともとエヴァンは「本当に自分がやりたいこと」を周りに合わせてただただ抑圧してきたような傾向が感じられます。
その抑圧してきたものの一つが、女性関係でもあったのでしょう。
オープンな女性に慣れていないというエヴァンは、妻への一途さを感じさせますが、どこかで女遊びをすることへの憧れもあったのかもしれません。
過去にモテなかった人が成功したりしていきなりモテるようになると不倫しやすい、みたいなパターンです。
少なくとも本作の事件までは「いい人」に見えていたであろうエヴァンですが、本当に信頼されていたのかどうかは、少々疑問も残ります。
演出的な側面もあるでしょうが、Facebookへの投稿も「何かあったのではないか」と心配されるリアクションは見られませんでしたし(明らかに手とか縛られてるのに……)、何より帰宅した長男のセリフ「パパ、楽しんだんだね」が何とも切ない。
もはやギャグのような終わり方であり、上述した「いいね!」に続く2段階のオチとも言えるでしょう。
少し心理学的に見ると、エヴァンはアニマに呑み込まれた、とも言えます。
アニマというのは、精神科医・心理学者のユングが提唱した概念で、細かい説明は省きますが、簡単に言うと「男性の心の無意識に潜む女性のイメージ」を指します。
アニマにも色々あるのですが、心理学者のフォン・フランツは、破滅的なアニマの典型を示すシベリアの昔話として、「一人の猟師が、川の対岸にある深い森から一人の美女が現れるのを見る。彼女は手招きをしながら彼の心を動かす歌をうたったので、猟師は衣服を脱ぎ捨て川を泳ぎ渡ろうとする。ところが突如として美女はフクロウとなり、彼は冷たい川で溺れ死んでしまう」というものを挙げています。
日本の臨床心理学者である河合隼雄はこの話を受けて、「アニマの誘惑に負け、不用意に裸になって道の世界へ入り込もうとするとき、男性は破滅の道を歩むことになる」と述べています。
人間は誰しも男性性と女性性を持ち合わせているものですが、いわゆるジェンダー的な「男らしさ」にこだわるほど、女性性は抑圧され、アニマは大きな存在となります。
エヴァンもまた、「良き夫」「良き父親」であろうとしていたり、身体を鍛えるといったような「男らしさ」に(無意識的にせよ)傾倒していた様子が窺えました。
また、妻のカレンは自立した女性でもありました。
個展を開けるぐらいのアーティストであり、夫に依存することなく夫を置いて楽しく旅行に出かけることができる。
一方で包み込む優しさも持ち合わせており、冒頭の夫婦関係は、仲良し夫婦のようでありながら、まるでカレンがエヴァンの母親のような雰囲気もありました。
母性と父性のバランスが良い女性とも言えるでしょう。
そのようなカレンに対し、無意識的にであれエヴァンがコンプレックスを抱き、自分の存在意義を探し求めていたことも推察されます。
それは「良き夫」「良き父親」と何度も強調していたことからも窺え、人間性ではなく「夫」「父親」というわかりやすい役割に自分の価値を見出そうとしていました。
そのような中で現れたのが、ベルとジェネシスでした。
未知の体験は自分の価値を広げる可能性を秘めたように感じられますし、女性2人を相手にするというのは男性性の自信の回復に繋がったのかもしれません。
単純に、これまで抑圧してきたものの解放といった側面もあったでしょう。
ベルとジェネシス、特に「好きだ」と言って甘えてくるベルはカレンとは正反対のタイプであったことも、エヴァンがあっけなく流されてしまった要因の一つであったと考えられます。
ちなみに念のため、娘になりきったベルとセックスしたのは、うまく調子を合わせて解放させようとしたのであり、もともとエヴァンが実際の娘や子どもに対して性的関心を抱いていたわけではないでしょう。
ただ、それもおそらくジェネシスたちの計算の上で、しっかりと動画に撮られて致命傷になってしまったわけですが。
ベルとジェネシスの背景と心理
2人についてはほとんど語られない上、語っていた内容もどこまで本当かわかりません。
なので、すべて想像に過ぎませんが、一応少しだけ考察を。
唯一のヒントは、ベルがエヴァンの娘の制服を着て現れたシーンでのセリフです。
ここだけはエヴァンとは関係ない内容が、それも感情的に語られていました。
そこで述べられていたのは、「パパを愛してる、ママに紹介されたときから」「2人きりの夜、私の部屋に忍び込んだでしょ。寝たフリしてたけど、服を脱がされて我慢できなくなった」「ママとやらないこともしたよね」「お願いだからもう怒らないで、パパ。パパが欲しくてママにあんなことを」といったものでした。
これは明らかに、義父による性的虐待を想像させます。
また、2人が最後に明かしたのは、「これはゲームだよ」ということでした。
これはおそらく、「家族を愛している男性を誘惑して、断れば何もしない、断らずに誘惑に乗ってきたら今回のような罰を与える」といったもの。
罰は結局、死ではありませんでしたが、ほとんど社会的に死を与えるような制裁であると言えるでしょう。
それは自業自得と捉えるか、やりすぎと捉えるか。
ゲームをしていた目的は説明されません。
ただ、純粋の娯楽のためだけに行っていたわけではないと考えられます。
上述したベルの背景を考えると、ベルのトラウマ克服というのが、意識的であれ無意識的であれ目的であったはずです。
義父から襲われ、心に傷を負い、男性不信になったことは間違いありません。
「パパが好き」といったことも口走っていましたが、おそらく自己防衛の一種でしょう。
「無理矢理襲われた」という現実を認めたくないので、「自分も望んでいたんだ」と思い込もうとする心理です。
そのため、ゲームの目的は、一つは誘惑に打ち勝つ男性を探すこと。
これは、上述したアニマの逆で、女性の無意識に潜む男性イメージをアニムスと言います。
ゲームは、ベルたちの理想的な男性、つまり「他の女性の誘惑に乗らず、妻や家族を愛し抜くまっすぐな男性」を探す旅でもありました。
白馬に乗った王子様を待つのではなく、内なるアニムスを探し求める旅に自分たちから出ていたのです。
また、もう一つの目的は、その期待を裏切る男性、つまりはベルに性的虐待を行った義父と同じような男性には、死に等しい制裁を加えること。
これは、かつて自分を支配した相手を逆に支配することで、過去の自分を癒そうとする試みです。
もしそうだとすれば、ただ意味もなく他人の人生を破滅させて楽しむ愉快犯とは異なります。
かといって、本作のようなゲームが許されるわけでもありません。
ただ、誰が悪いのか?というのは、難しい問題になるでしょう。
ベルとジェネシスの関係ははっきりしませんが、ジェネシスも同様の性被害のトラウマを抱えていたのか、ベルに同情して一緒にゲームを行っていたのか、いずれかであると考えられます。
2人は周到に準備をした上でゲームを開始したようですが、エヴァンだけを狙っていたわけではないはずです。
急いでいたわけでもありません。
エヴァンが1人、しかも近所に誰もいない夜に大雨が降ったというのは都合が良すぎるようにも思いますが、ターゲットの中で都合の良いタイミングが訪れるのをじっくり待つことはできたでしょう。
ただ、本作では、殺人事件になっている上に、指紋やらもベタベタ残っていると思うので、さすがに事件化して簡単に逮捕されてしまいそう。
しかし、ゲームだけを楽しみに生きる、そもそも失うものもない2人なのかもしれません。
とはいえ、そもそもあの家に盗聴器を仕掛けるというのは、なかなか難しそうです。
あと、父の日にあんなにみんな旅行に出かけるものなんですかね。
いずれにせよ、あれだけの芸術作品を置いておきながら警報装置なども設置していなかったようなので、防犯意識の甘さが、エヴァンの一番の敗因だったかもしれません。
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