作品の概要と感想(ネタバレあり)
フィラデルフィアで乗客・乗員131人が死亡する悲惨な列車事故が発生し、警備員のデヴィッドだけが奇跡的に無傷で生き残った。
そんな彼の元に、イライジャと名乗る人物から不審な手紙が届く。
コミックギャラリーのオーナーであるイライジャは生まれつき骨形成不全症という難病を抱え、これまでの人生で数え切れないほど骨折を繰り返してきた。
彼は自分とは対極に位置する頑強な人間が存在すると考えており、デヴィッドこそが不滅の肉体を持つ“アンブレイカブル”であると確信していた。
デヴィッドはイライジャの話を一蹴しながらも、思い当たる節がいくつもあることに気づく──。
2000年製作、アメリカの作品。
原題も『Unbreakable』。
大好きM・ナイト・シャマラン監督作品。
本作『アンブレイカブル』はだいぶ以前に観ていましたが、すっかり忘れていたので再鑑賞。
本作は、シャマラン監督の代表作『シックス・センス』の次に公開された監督作品で、その分、観客側の期待も偏りがあったものと想像します。
自分も初めて観たシャマラン監督作品が『シックス・センス』だったので、『アンブレイカブル』はリアルタイムで観たわけではありませんが、面白いながらも評価はそこそこでした。
しかし大人になってから、かつ『シックス・センス』のイメージに囚われすぎず、多様なシャマランワールドを体験してから改めて鑑賞すると、とても深みのある作品でした。
どうしてもどんでん返しに期待してしまいがちなシャマラン作品ですが、本作もそのような要素もありつつも、そこがメインではありません。
静かで悲しい自分探しの物語。
失語症および前頭側頭型認知症を発表し俳優業を引退した今となっては、ブルース・ウィリスの演技が観られるだけでも感慨深いものがあります。
『シックス・センス』に続くシャマラン監督&ブルース・ウィリスのタッグも熱いですし、『ダイ・ハード3』も好きな作品なので、ブルース・ウィリス&サミュエル・L・ジャクソンの組み合わせも実に贅沢。
監督自身のカメオ出演もシャマラン作品では名物ですが、本作ではドラッグ所持を疑われた男性としてかなりわかりやすく出演。
出てくるとついつい笑ってしまいます。
本作はいわゆるヒーローモノと言えるでしょうが、その描き方が実にシャマラン節。
ヒーローの活躍というのはほとんど描かれません。
ヒーローといえば、自分の力に目覚めてから、葛藤しつつも使命を果たすために活躍していく姿がメインになることが多いものですが、本作はほぼ目覚めるまで、そして目覚めてからもひたすら葛藤、葛藤。
そんなヒーロー像に、ブルース・ウィリスの物悲しい雰囲気がとてもマッチしていました。
サミュエル・L・ジャクソンによる闇と覚悟を抱えたイライジャの張り詰めた空気感も抜群で、陽キャなヒーローコンビ(?)だった『ダイ・ハード3』と同じ2人とはとても思えません。
シャマラン作品はどの作品も独特のカメラワークですが、本作は特にそれが強く感じられました。
冒頭、列車の中で乗り合わせた女性と会話するシーンでは、前の座席に座る少女目線で、デヴィッドと相手の姿が交互に映ります。
このあたり含め、コミックのコマ割りを意識したようなカメラワークが多用されていた印象です。
しかし冒頭のデヴィッド、わざわざ指輪外して何やってんねん……!と突っ込んでしまいました(現在の夫婦仲を示唆する伏線だったわけですが)。
シンプルに「現実世界で自分がヒーローであることに気がついたら……?」という視点だけでも楽しめますし、続編もありますが、ひとまず本作単体で簡単に考察してみたいと思います。
考察:表裏一体の2人による自己実現の物語(ネタバレあり)
『アンブレイカブル』において、デヴィッドとイライジャは正反対の存在ですが、同じ悩みを抱えています。
それは、「普通ではない自分」の存在価値です。
怪我も病気もしない身体。
デヴィッドは最近までその事実に気がついていなかったようですが、無意識的に感じていたところはあったでしょう。
まぁ普通周囲が気がつきますよね、といった細かい点はシャマラン作品で気にしてはいけません。
フットボールの道より結婚を選びましたが、夫婦関係がうまくいかず、自分の存在意義や人生に悩みを抱えていました。
イライジャが指摘した通り、セキュリティの仕事を選んだのも、社会の役に立ちたいという無意識的な願望があったのかもしれません。
生まれつき難病である骨形成不全症を患うイライジャは、いわゆる「普通の」生活を送れません。
何をするにもリスクが伴い、ちょっとしたことで怪我をして長期間不自由になる。
イライジャの方が明確に、「自分は何のために生まれてきたんだろう?」という悩みを抱えていました。
極端に身体が強いデヴィッドと、弱いイライジャ。
2人は正反対ながら、「普通から外れている」という点において根底では共通しています。
イライジャの「私のような人間が“ある一方の端”の存在とすると、その対極の人間もきっといるはずだ」「元々は友達だ」という表現からも、2人が根本的には同一の存在であることが示唆されています。
このブログでもたびたび触れていますが、精神科医・心理学者のユングは、その人の生きられなかった側面を「影(シャドウ)」と呼びました。
対立するものは、相補的な存在でもあります。
平均値から外れた存在として、社会に役立つ光の側面として現れたのがデヴィッドであり、社会に危険を与える側面がイライジャだったと言えるでしょう。
しかしそれは、デヴィッドが善でイライジャが悪という簡単な図式ではありません。
お互いがお互いの影であり、あり得たかもしれない人生です。
ヒーローは、ヴィランがいてこそ活躍の場が与えられます。
戦争のない時代に兵士が必要とされないように、平和な社会であればまたヒーローも必要ではないのです。
平和な社会では、革新よりも平穏が求められがちです。
そのような環境では、平均から外れているデヴィッドもイライジャも、居場所がなくなり存在意義を見失ってしまうのです。
作中でイライジャが述べていた、「最大の恐怖は何だと思う?自分の居場所や存在理由がわからないこと。それは耐えがたく恐ろしい」というセリフは、本作のテーマをとても端的に表しています。
ミスター・ガラスと呼ばれ、普通の生活も送れないイライジャは、幼少期から常に自分の存在意義や生きる意味を自問し続けてきました。
そこで辿り着いた答えであり見出した希望は、コミックスの中のヒーロー。
ヒーロー像とは正反対の脆く弱い自分。
それは逆に、自分の対極にはヒーローがいるはず、という思考に繋がります。
ヒーローが生まれるには、悪が必要である。
それがイライジャの辿り着いた答えであり、自らヴィランを演じた理由でした。
それは社会のためではなく、自分の存在意義を見つけるためです。
自分がヴィラン側に回っても、社会に必要とされるヒーローを生み出すことができれば、それは自分が必要とされることと同義なのです。
自分の信念のために多数の他人を犠牲にする姿勢は、まさにヴィラン的と言えるでしょう。
一方のデヴィッドも、ヒーローであることに自分の存在価値を見出しました。
デヴィッドが家族と距離を取っていた理由は明確にはされていませんが、一つ想像できるのは、フットボール選手としての人生を捨ててまで選んだ家族なので、それがうまくいかないということは、自分自身の選んだ人生の否定にも繋がります。
家族と距離を置き、関係性をなあなあにしていたのは、その事実と向き合うことを恐れていたのではないかと考えられます。
にもかかわらず、息子ジョセフは、デヴィッドを慕っていました。
「お父さんのようになりたい」という憧れは、父親に良い父性を感じていることの証です。
自分の存在意義を探すデヴィッドにとって、それは大きな希望であったに違いありません。
デヴィッドがヒーローの道を選んだのは、ジョセフの存在も大きかったはずです。
ジョセフは、デヴィッドの強靭さに気がつき、その強さに憧れを抱きました。
冒頭、デヴィッドの乗った列車の番号をメモして心待ちにしていた様子からは、もともと父親を慕っていた様子が窺えます。
しかし、期待や憧れという意味では、デヴィッドの強靭さに気がついてからは、その強さに対するものが大きなウェイトを占めていました。
逆に、その期待に応えないということは、息子から嫌われたり失望される恐れにも繋がります。
デヴィッドが葛藤の末、ヒーローの道に踏み出したのは、息子の期待に応えたいという理由も大きかったはずです。
それがわざわざ、自慢するように新聞記事を見せた理由でもあったでしょう。
しかし、ヒーローとしての自分は、決して社会に必要とされて生まれた存在ではなく、自らの影が生み出した存在でした。
それはつまり、自分で社会に危険を生み出して、それを自分で救っているようなものです。
自分の存在意義を確立するための、自己中心的な自己満足に過ぎません。
それを悟ったデヴィッドは、イライジャを突き放し、通報するという選択を取りました。
ユングは、「自我」という概念と「自己」という概念を区別しています。
「自我」というのは、意識の中心です。
一方の「自己」というのは、意識と無意識を合わせた自分という存在全体の中心です。
上述した「影」は基本的に無意識の一部であり、自分が抑圧した気持ちなどが含まれます。
意識と無意識をうまく統合していくことが自己実現であり、個人の一生のプロセスであるとユングは考えました。
そう考えると、最後にデヴィッドが行った行動は、自らの影や無意識の拒絶であり、自己否定とも言えるでしょう。
デヴィッドとイライジャ、両者が理解し合い、受け入れ合い統合することが、お互いの自己実現には必要だったはずです。
それが決裂してしまったのはバッドエンドと言えるでしょうが、このあたりが続編『スプリット』『ミスター・ガラス』でどう展開するのかも、また追っていきたいと思います。
ちなみに、水というのは無意識の象徴としてよく用いられます。
デヴィッドとイライジャがどちらも水を弱点としていたのは、お互いが無意識で繋がっていることの象徴でもあり、どちらも自分の無意識を理解し受け入れることができておらず、怯え、翻弄されていたことの象徴でもあったのだろうと考えらえます。
自らの存在意義を問い、使命を探すというのは、シャマラン監督作品に多く見られるテーマです。
ややネタバレになりますが本筋とは関係ないので触れると、『シックス・センス』では代理によるミュンヒハウゼン症候群の女性が描かれていました。
娘に毒薬を飲ませて、それを献身的に看病する自分に酔いしれたり、同情されることに喜びを覚えたり、といった症状です。
他者を犠牲に自分の存在意義を見出すところは、『アンブレイカブル』のイライジャに通ずる部分も感じられます。
選択と使命という意味では、本記事を書いている時点でのシャマラン監督の最新作『ノック 終末の来訪者』がその究極でもありました。
原作がある作品ですが、使命、選択といったテーマが非常に大きくクローズアップされた作品です。
英雄譚は、古来、それこそ神話や昔話といったレベルから存在します。
その古典的かつ典型的なパターンは、少年や青年が、父性的な存在と戦って打ち勝つというものです。
そこでは、懲悪的な要素とともに、個人の成長や自立といったテーマが描かれます。
『スター・ウォーズ』シリーズ然り、『ハリー・ポッター』シリーズ然り。
しかし『アンブレイカブル』で描かれていたのは、居場所探しや存在意義といった、根底的なテーマです。
デヴィッドはおそらく、社会的なヒーローになりたかったわけではなく、妻や息子にとっての、家族にとってのヒーローになれれば良かった。
イライジャは、自分の生きる意味を見つけたかった。
デヴィッドは、家族と向き合うことから目を逸らしていました。
イライジャは、母親にとっては自慢の息子であったことが最後に明かされましたが、それで満足はできていなかったようです。
もっと社会的な意味や必要性を求めていました。
相補的な存在である2人はいずれも、ただ自分の居場所を求め、生きる意味を探していた。
しかし、その求める形がすれ違い、デヴィッドは影に唆される形で暴走し、自己否定に終わってしまいました。
社会的なヒーロー像、個人の成長や自立を描いたのではなく、孤独に悩む中年男性が自分の居場所や生きる意味を探す物語が『アンブレイカブル』であり、さらにそれが自己否定的なニュアンスで終わってしまったからこそ、いわゆる定番のヒーローモノとはまったく異なる物悲しさが漂っていたのだろうと考えられます。
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