作品の概要と感想(ネタバレあり)
6人の男女は、新作ポルノ映画「農場の娘たち」を撮影するために借りたテキサスの農場を訪れる。
そこは、史上最高齢の殺人鬼夫婦が住む屋敷だった──。
2022年製作、アメリカの作品。
公開前から『悪魔のいけにえ』や『シャイニング』など古典ホラーへのリスペクトやオマージュが話題になっていた通り、漫画家の荒木飛呂彦が「『田舎に行ったら襲われた』系」と的確すぎる表現をしたジャンルの設定を地で行く、1970年代のホラー映画を彷彿とさせる作品です。
しかし、いざ観てみると、シンプルなスラッシャー映画ではなく、思った以上に色々な要素が詰め込まれていました。
その分、トータルで見ると若干物足りなさも。
「田舎に行って襲われる」というテンプレ設定は踏襲しつつ、その中でそれを逆手に取ったり、斬新さがたくさん詰め込まれていた印象です。
わかりやすいところでは「ワニとトップレス」のイラストが描かれた扉からみんなが出てきたシーンを筆頭に、気がつけていない細かい伏線もまだ多くありそう。
何より、史上最高齢のシリアルキラー夫婦というだけでとても面白いです。
実際には、欲求の充足が目的のほとんどであることもあってか、高齢のシリアルキラー、特に高齢になってから連続殺人を始めるというケースはほとんどありません。
『X エックス』はその点、「若さへの嫉妬と渇望」という点に動機を置いていました。
誰しもに訪れる、老いという現象。
それを楽しめるか、あるいは恐ろしいと怯えるかどうかは、人それぞれの生き方によってくるでしょう。
ですが、それは確実に死に近づくプロセスであり、必然的に多かれ少なかれ恐怖を孕んでいます。
『X エックス』のシリアルキラー夫婦に同情したり感情移入する人はなかなかいないと思いますが、彼らの心情は、これまでのモンスターのようなスラッシャー映画の殺人鬼たちとは一線を画し、悲しみのような感情を喚起させられます。
老化といえば、ちょうど同じ2022年に公開されたM・ナイト・シャマラン監督の『オールド』や、日本でも『PLAN 75』などでも扱われているテーマで、同時期にこのようなテーマが多く扱われているのは、世界的な高齢化社会や閉塞感という時代が反映されているのでしょうか。
いずれにせよ、老化というテーマを直球で扱うと、上記の理由から暗めの作品になりがちです。
しかし、『X エックス』においては、「いやおばあちゃん、悩みはわかるけど、それで何でそんな方向に?」というポイントがぶっ飛んでいるところがコメディ的でもあり、うまいバランスを保っていました。
その一方で、殺人鬼が史上最高齢夫婦とということもあり、スプラッタ要素はやや古典的であり、派手さや目新しさは控えめ。
超人的なおじいちゃんおばあちゃんというわけでもなく、そもそも身体能力に限界があるので、それは仕方ありません。
最後、銃を撃った反動で木の葉のように吹き飛び、腰をやられて自滅したパール(おばあちゃん)の姿は、リアルでもあり笑ってしまいました。
心臓麻痺で死んだキラーなんて、それこそ史上初ではないでしょうか。
高齢者の恐怖という意味では、これもM・ナイト・シャマラン監督の『ヴィジット』がありますが、あれはどちらかというとシャマランらしい独自の試みが前面に出ていたのに対し、『X エックス』はあくまでもベースに古典的ホラー映画の設定があるところが、逆に斬新でした。
しかし、『ヴィジット』『テイキング・オブ・デボラ・ローガン』に続き『X エックス』がこの世に生み出されたことで、個人的に「裸のおばあちゃん3大ホラー作品」が完成しました(他にもあるだろうけど)。
とはいえ『X エックス』のパールは、ヒロインのマキシーンを演じたミア・ゴスが演じているので、老いた顔や身体も特殊メイクの賜物。
その点も斬新ですし、特殊メイクの技術がホラー映画のリアルさを牽引してきたと考えると、よく観ないと特殊メイクであることに気がつかないまま観終わってしまうレベルで特殊メイクが作品に活かされている点は、感慨深いものがあります。
『ミッド・サマー』に続いて観たのが本作だったので、「モザイクはA24のお家芸か?」と思ってしまいました。
ベッド下に隠れていたマキシーンの心情は、察するに余りあるものです。
そりゃ見つかるリスクを負ってでも、這って逃げ出したくなりますね。
考察:パールの心理や、古典的設定の中の斬新さ(ネタバレあり)
パールの心理
パールが求めていたもの
何ともいえない不気味さが魅力のおばあちゃん・パール。
彼女はいったい何を求めていたのでしょうか。
彼女が求めていたものは、単純に見れば若さです。
しかしよく話を聞いていくと、老化を受け入れられずに若さを求めているというより、戦争で青春や若き日々を奪われてしまったことにより、そこで心の成長が止まってしまっていたと考えられます。
彼女は決して、若い相手を求めているわけではなく、夫のハワードにも性的な接触を求めていました。
その際、「自分のことを特別だと言って」といった趣旨の発言からは、悲哀や切なさすら漂います。
殺人も含めて、ハワードは基本的に彼女を支え、付き合い、最後まで味方であろうとしている印象。
あくまでもパールが主でハワードが従の関係でした。
つまり、パールが求めていたのは、自分だけを激しく求めてくれる情熱的な愛情です。
ハワードと結婚はしていますが、子どももいなさそうな雰囲気ですし、何回も戦争に出ていったハワードとは、一緒にいられる時間も少なかったのでしょう。
殺人の意味(男性編)
さて、ではパールの殺人にはどのような意味があったのか。
決して殺害することが目的であったようには見えません。
まず最初に殺害されたのは、自主映画監督のRJ。
彼に対しては、好みのタイプであったのか、パールは誘惑を試みました。
動揺するRJに誰もが共感し、観客の心が一つになったシーンです(断言)。
しかし、それを断られたことで、彼女はあっさりとRJの首にナイフを突き立てます。
実に潔く自分勝手。
「いや、まだ刺さってるのにそんなに吹き出ます?」と思わず突っ込んでしまう勢いで出血するRJの上に跨り、パールは何回も何回も滅多刺しにしてRJを殺害します。
滅多刺しというのは残虐に見えますが、現実では「確実に死んでいるか不安だから何度も刺してしまう」ということがほとんどです。
そのため犯人は、女性であったり被害者よりも非力であることが多いのです。
しかし、パールもどう考えても非力ですが、それが理由で滅多刺しにしているようには見えません。
考えられる一つは、単純に、誘いを断られたことに対する腹いせ。
もう一つは、やや無理矢理ながら精神分析的に考えてみます。
精神分析において、ナイフのような刃物は、その形状と人間の体内に侵入することから、男性器の象徴と解釈されることがあります。
そう考えると、RJを滅多刺しにしているパールの心理は、男性的な性の支配です。
上述した通り、パールが求めていたのは単純に若さでも性的な接触でもなく、自分だけを見てくれる情熱的な愛情です。
それは裏返せば、自分だけを見てほしいという、相手に対する独占欲でもあります。
そのような視点で見れば、パールは女性としての性的快楽だけを求めてRJを誘惑したわけではなく、相手を独占できれば良かったのだと考えられます。
男性的な形であっても性的に支配し、そして相手を殺害するという究極の支配。
どうせ受け入れられないなら殺してやろう、というまるで暴走したストーカーばりの執着です。
そう見れば、殺害後の唐突すぎるダンスも理解できます。
浮かれていたのです。
ダンスはまた、パールにとっては失われた青春の象徴でもありました。
もちろん、RJは好みではあったのでしょうが、彼にこだわっていたわけではないのは確実で、すでにそのようなアプローチ(好みのタイプには性的接触を試みて、断られたら殺害する)が常態化していたのだと考えられます。
一方、プロデューサーのウェインと俳優のジャクソンはあっさり殺されました。
ウェインは、それほど若いわけでもないのもあり、シンプルに好みではなかったのでしょう。
ジャクソンは、パールの知らぬ間にハワードが殺害したというのもありますが、好みであればハワードに伝えていたはずです。
好みではなかったのと、女優のボビー・リンを「ブロンドは嫌い」「アバズレ」といった理由であっさり殺害していたのもあり、黒人への差別的なものもあったのかもしれません。
殺人の意味(女性編)
男性陣が先にあっさり一掃され、一方の女性陣。
ボビー・リンは上述したような理由でワニの餌となり退場。
それとは対照的に、パールはマキシーンに対しては強い執着を示していました。
ポールはマキシーンに対して、「類まれなる美しさ」と感じていました。
ここで大事になってくるのが、パールとマキシーンを同じミア・ゴスが演じているという点です。
前日譚を描いた続編の『Pearl(原題)』でも、若き日のパールを演じるのはミア・ゴス。
それが暗に示しているのは、マキシーンはパールの若い頃に似ているのだろうということ。
それが、マキシーンへの執着の理由であったのです。
かつての自分と似た美しさ。
その頃に心が止まってしまっているままの自分。
取り戻したい自分。
自分が失ってしまった若さを今持っていることに対する嫉妬。
それらの「回想」「慈愛」「羨望」「嫉妬」に、さらに上述した男性的な支配欲もない混ぜになったのが、優しくレモネードを振る舞い、ベッド上で性的な雰囲気で触っていたかと思えば、罵って殺害しようとするなど、マキシーンに対する一貫しない態度の理由だったと考えられます。
もう一人、よくわからなかった扱いが音響担当のロレインです。
彼女は地下室に閉じ込められたわけですが、『シャイニング』オマージュのためだけだったとは考えられません。
また、地下に吊るされ拷問の果てに殺害されたらしい古い死体も不明です。
このあたりは続編で明らかになる可能性が高いですが、現時点で考えられるのは、パールの支配欲を満たすためだったという可能性です。
男女問わず、それなりに好みであれば地下室に連れ込み、いたぶって殺害することで支配欲や独占欲を満たしていた。
そう考えると、ハワードが「お前のためだ」と言ってロレインを閉じ込めていたのも納得できます。
銃があるとはいえ、斧とか武器だらけの地下室に閉じ込めて、あのあとどうするつもりだったのかはご愛嬌。
古典的と見せかけての斬新さ
愚かでない若者たち
生と死のコントラストは、ホラー映画における古典的演出です。
性やドラッグといった刹那的な快楽に溺れる、生のエネルギィに溢れた若者たちが一瞬で殺されていくという点に、死の恐怖が倍増されます。
しかも彼らは、基本的に愚かでお馬鹿。
同じエネルギィでも、たとえば世界の未来や他者の幸せを真剣に考えている若者集団だったら、また印象が変わるはずです。
馬鹿だったら殺されていいというわけではなくても、「まぁしょうがないよね」という言い訳ができることで、彼らの死にカタルシスが生じます。
『13日の金曜日』の考察に書いたシャーデンフロイデの感情です。
『X エックス』では、言うまでもなく「スラッシャーの聖地・テキサスの田舎に若者集団が訪れる」という点がまずノスタルジック。
また、「ポルノ映画を撮る」という目的で、わいわい騒ぎながら目的地へと向かう彼らの様子は、典型的な愚かな若者たちに見えます。
しかし、最初の肩透かしは、「あそこに行ってはいけない」的な「警告」をする人物がいないこと。
事故った牛のグロ死体が不穏さを予感させてはいますが、警告の意味にまではなっていません。
「警告を無視して行った」というのが、不穏さを示すと同時に愚かさを示す一つの要素になるわけですが、彼らはそのように愚かには描かれていません。
さらに、徐々に彼らのキャラクタが明らかになっていくにつれて、「殺されて当然なお馬鹿な若者たち」ではない人物像が見えてきます。
単に快楽的なポルノ映画ではなく、ホームビデオが普及していた時代に合わせて、あくまでも芸術作品を作り上げてやろうという意気込み。
ハワードに対しても、小馬鹿にしたような様子は見せますが、あからさまに馬鹿にしたような言葉を吐いたりはしません。
性的な面も、決して奔放というわけでもなく、映画製作のための割り切り以外は、基本的にカップルのみの絡み。
つまり、彼らを知るにつれて、「殺されて当然の若者たち」という印象ではなくなっていくのです。
特に、イメージが大きく変わるのはジャクソンとボビー・リン。
ジャクソンは、パールを探すハワードに「俺が絶対見つけてやる」と力強く励ましながら協力。
ボビー・リンは、徘徊していると勘違いしたパールに対して、とても優しく保護しようとしました。
彼らは皆、古典的ホラー映画で描かれてきた愚かな若者像とは異なるのです。
唯一、ちょっと毛色が違ったのはウェイン。
一人だけ若者ではなく、明らかに嫌な奴ではないけれど、どちらかというと古典的ホラー映画キャラ寄り。
おそらく、古典的ホラー映画キャラ要素のすべては、彼が一身に背負わされていたのではないかと思います。
パンツ一丁で、靴も履かずに外に繰り出すという愚かすぎる行動。
納屋に入り、画面手前に釘が映し出されたときも、期待を裏切ることなく、何のフェイントもなく素直に踏んでくれます。
終いには、穴を覗き込んでぶっ刺されるという、これでもかというほど古典的な死。
ただ、湖で泳ぐという古典的行動は、さすがにマキシーンに譲られていました。
ウェインを含めても、あまり愚かでもお馬鹿でもない彼ら彼女らが無慈悲に殺されていく様は、古典的ホラーとは一線を画します。
しかし、彼らは本当にいい人たちだったのでしょうか?
それは作中、ウェインによって「いい子なんていない」と否定されています。
人は誰しも、人前では多かれ少なかれ仮面を被っているものです。
その仮面の裏に、とんでもない顔を隠していることも少なくりません。
『X エックス』でそれが象徴的に描かれていたのは、ラストでマキシーンがパールを車で轢いたシーン。
逃げるだけならあのまま逃走すれば良かったのに、わざわざバックしてパールの頭を潰したのは、仲間たちに対する復讐の意味もあったかもしれませんが、決して生き残るべくして生き残ったファイナルガールではないことを示しています。
途中から自己主張をし始めたロレインも、閉じ込められるという他のキャラとは異なる扱いもあり、「何かしてくれるんじゃないか、もしかしたらファイナルガールになるんじゃないか」と予感させますが、結局『シャイニング』ごっこしか見せ場がないままあっさり退場。
このあたりの肩透かし感も絶妙です。
そもそも、マキシーンが生き残ったのも半ば偶然であり、ファイナルガールらしさはありません。
ロレインを助けようとはしましたが、決して戦おうとして立ち向かったわけでもなく、さらには老夫婦はほぼほぼ自滅。
典型的なファイナルガールでないことは、たびたび流れていたテレビの宣教師の映像からも見て取れます。
宣教師と同じ「私にふさわしい人生を手に入れる」という台詞を叫んだマキシーンは、その後パールを轢き殺します。
しかし、実はその宣教師の娘がマキシーンであり、宣教師は「娘が悪魔の側に行ってしまった」的な言葉を口にしていました。
キリスト教に対するアンチ的な部分は、古典的ホラーらしさがあります。
明確なコントラスト
『X エックス』は、対比させた演出も印象的です。
まずは、上述した古典的な舞台設定と、その中での斬新な要素たち。
また、「古さと新しさ」という意味では、映像も対比的です。
映画の初め、納屋の中から遠いショットで家を映し、保安官たちが来るシーンでは、納屋の扉が画面両端を狭めており、正方形に切り取られていました。
これはまさに、作中で撮影されていた古いカメラの映像や、ブラウン管のテレビを彷彿とさせる切り取られ方です。
画面の切り替わりも、序盤では縦線が左から右に流れるような、めちゃくちゃダサいレトロな切り替わり方をしていたのも、もちろん意図されていたに違いありません。
途中から忘れて意識して観ていなかったので定かではありませんが、「テンプレ古典スラシャーじゃない」というのが明らかになってくるあたりから、その切り替わり演出も使われなくなっていたはずです。
「老いと若さ」「世代の違い」もコントラストです。
若さに嫉妬する高齢者が、性をテーマとした映画を撮り若さを爆発させる若者たちを殺害するという構図。
ボビー・リンの「年取ったらセックスできなくなるんだから、今を楽しまないと」的な台詞が、この映画だと重く響きます。
ハワードもジャクソンも戦争に赴いていましたが、まったく時代が異なり、話が合いません。
このような「旧」と「新」のコントラストが、非常に意識的に描かれていたように感じました。
とりあえず本作のみで考察してみましたが、まさかの3部作とのことだったので、続編の妄想が色々と膨らみ、今後明かされていくのが楽しみでもある作品でした。
追記
『Pearl パール』(2024/07/20)
続編『Pearl パール』の感想・考察をアップしました。
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