【映画】星の子(ネタバレ感想・心理学的考察)

映画『星の子』のポスター
(C)2020「星の子」製作委員会
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作品の概要と感想(ネタバレあり)

(C)2020「星の子」製作委員会

大好きなお父さんとお母さんから愛情たっぷりに育てられたちひろだが、その両親は、病弱だった幼少期のちひろを治したという、あやしい宗教に深い信仰を抱いていた。
中学3年になったちひろは、一目ぼれした新任の先生に、夜の公園で奇妙な儀式をする両親を見られてしまう。
そして、そんな彼女の心を大きく揺さぶる事件が起き、ちひろは家族とともに過ごす自分の世界を疑いはじめる──。

こちらの記事では、原作である今村夏子の小説『星の子』のネタバレも含まれるので、ご注意ください。

原作については以下の記事を先に書いているので、ご参照ください。

原作は2017年発売、映画は2020年製作。

大筋や細々したエピソードは、基本的に原作に忠実でした。
時間軸が入り乱れるのは原作も同じでしたが、映画は唐突に時間軸と場面が切り替わるので、原作を読んでいないとわかりづらいところもあったかもしれません。
原作は文章も読みやすいので、未読の方はぜひ読んでみてください。

ただ、エピソードの大枠はほぼ同じながら、テーマの描かれ方はだいぶ異なっていた印象です。
原作はどちらかというと、疑問を抱きつつも信仰が当たり前となっているちひろの日常にハラハラする感じでしたが、映画版では、ちひろの迷いや葛藤が強く描かれていました。
その象徴がラストシーンの大きな違いであり、この点は考察部分で後述します。

しかし、映像化されるとやはり痛々しさが際立ちますね
祭壇など宗教的なアイテムもそうですし、何よりタオルを頭に乗せて水をかけ合う両親のシーン。
お揃いの緑のジャージまでしっかり忠実に再現されており、真剣にその儀式を行っている光景はまさに異様そのもの。
「2匹いるな」という南先生(岡田将生)の発言がさらに破壊力を増しており、そりゃちひろも涙目(この演技がとても上手かった)になるってもんです。

「金星のめぐみ」の値段も明らかになりました。
2リットルのペットボトル6本で、一般価格4,470円のところ、会員価格は3,440円ぽっきり!
特別な儀式によって宇宙の力を宿された万能水が、1本たったの600円弱!
これはお得ですね!

という、客観的に見ればどう考えてもおかしいことであっても、自分も含めて誰もがタイミングさえ合ってしまえばハマってしまい得るところが、カルトの恐ろしさです。

配役に関しては、芦田愛菜の、言葉に頼らず主人公・林ちひろの心情を表現した演技力は言わずもがな。
髪をばっさりと切ったのは、芦田愛菜自身の案だったようです。

脇を固める俳優陣も、基本的には安定なのですが、やはり小学生時代の子役たちは少し演技が気になってしましました。
ちひろの子は上手かったですが、周りの子たちの演技に気を取られてしまったのが、子どもを中心とした作品の映画で難しいところ。

昇子さんを演じた黒木華、海路さんを演じた高良健吾の存在感は抜群で、胡散臭さ大爆発でした。
でも、いるいる、いるよね、といった雰囲気がとても上手かったです。
岡田将生はとにかくかっこいい。
けれど、南先生は原作以上に嫌な性格になっていました。

雄三おじさんを演じた大友康平も合っていたと思うのですが、個人的には、大友康平の存在は知っていながらも、ちゃんと出演作品などを観たことがありませんでした。
そのため、印象としては、近年は完全に「いすゞのトラックのおじさん」であり、どうしても、どうしても彼の登場シーンではあの歌が頭から離れなかったところが難点です。
完全に言いがかりですが、でも、イメージって大事ですよね。

省略されていたシーンで気になったのは、落合さんちの息子・ひろゆきくんのエピソード。
彼もまた2世としての被害者であり、望むような愛情を与えられないまま、一方では裕福な家庭の中で甘やかされていました。
それがちひろや他の女の子への暴行や脅迫にも繋がるわけですが、それらのエピソードがごっそり省略されていたのは、本筋に関係ないと言えばないですが、宗教2世問題のダークな部分には蓋がされていたように感じました。

原作で描かれていたのは、結局ほとんど成長しないちひろと家族の姿です。
その点に、宗教2世問題の根深さを感じました。

一方の映画は、上述した通り、後半に進むにつれてちひろの苦悩と葛藤が強く表現されていました。
それは言い換えれば、ちひろの自立のプロセスでもあります。
画面全体が暗いトーンであることもあり、原作よりも痛ましさや暗さが目立っていた印象です。
後半では、原作との比較を通して、その違いについて考察していきたいと思います。


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考察:原作との比較:自立への苦悩と葛藤(ネタバレあり)

(C)2020「星の子」製作委員会

雄三おじさん水入れ替え事件

最初に原作との違いを大きく感じたのは、「雄三おじさん水入れかえ事件」で、雄三おじさんがその場で「な、まーちゃん。一緒に水入れかえたんだよな」と、まーちゃんが共犯であることに触れたことでした。

最初に違いを感じた点なので挙げましたが、この点はただ時間の都合が大きいのかな、と思っています。
しかし、ハサミ(原作では包丁)を持って「帰って!」と叫ぶまーちゃんの姿は、映像で観ると、切実さと切なさをより強く感じました。

コーヒー

映画で新しく加えられた要素として、コーヒーがあります。

コーヒーが出てくる重要なシーンは二つ。
一つは、まーちゃんが家出前夜に作ってくれたインスタントコーヒー
もう一つは、学校帰りにちひろがカフェで1人で飲んでいるシーンです。

その後、「ねぇ、何でうちはコーヒー駄目なんだったっけ?」と訊くちひろに、父親は「コーヒーはパワー弱めるからなぁ」と答えます。
それにちひろは何も応えず、何か考えるような表情で黙り込んでしまいました。

映画化にあたってわざわざ追加されたこの要素。
些細なシーンに見えますが、意味がないわけがありません。

コーヒーは、まーちゃんが「パワーを弱めるもの」として知っていたのかはわかりませんが、反抗して家を出ていく前、最後にちひろに与えてくれたものでした。
それは、ちひろにとって信仰や家族への反抗を象徴するものとなります。

上述した通り、映画版のちひろは、原作よりも信仰に迷いを感じていました。
それを表現していたのが、1人で飲むコーヒーであり、まーちゃんの残していった、家出前に着ていたジャケットを羽織っていたシーンであると考えられます。

南先生①

南先生は、原作でも性格が悪い感じでしたが、映画版ではさらに拍車がかかっています。
そして、宗教を信仰するちひろを真っ向から否定する存在として描かれていました。

まず、河童のごとく水をかけあっていたちひろの両親を見てドン引きするのは映画でも同じですが、「何やってんだ。完全に狂ってるな」とまで言います。
そのため、原作のちひろは「もう一度お礼をいい」車から降りてダッシュしたのに対して、映画版では、挨拶もせずに逃げるように車から降りてダッシュしました。

南先生については、後ほどまた触れます。

風邪ですか?

憧れの南先生に「不審者で完全に狂っている」両親を目撃されたちひろ。
街中を駆け抜け、しばらくしてから家に帰りますが、そこで今度は両親に追い討ちをかけられます。

食欲がないと言うちひろに、両親は心配している様子を見せますが、その態度は一方的です。
「食欲がない」「体調が悪いわけではない」「どこか痛いわけでもない」と伝えているのに聞く耳を持たず、一方的に決めつけ、果てはちひろの意向も無視して勝手にタオルを頭に乗せ、水をかけようとしました。
このシーン、トップレベルで痛ましいです。

そんな出来事があり、濡れたまま寝たちひろは翌日、熱を出してしまいました。
南先生に真実を伝えたあと、保健室にいったら38度5分。
そこまでは原作とほぼ同じ流れですが、映画版のちひろはここで「この水飲むと、風邪ひかないんです。でもやっぱり、風邪ですか?」と保健室の先生に尋ねます
「風邪でしょう」とあっさり答えられて、何ともいえない沈黙の時間が流れます。

これも映画版で追加されたシーンであり、それには必ず意味があります。
さらに、わざわざ貴重な時間を割いてまで沈黙のシーンが続くことも同様です。
これは、上述したコーヒーのシーンととても似ています。
それはつまり、信仰への迷いの表現です。
ここもまた、ちひろの葛藤を表す映画独自の場面として描かれていました。

海を見つめるシーン

保健室のシーンに続くのは、おばあちゃんの7回忌法要のシーン。
久しぶりに会った雄三おじさん家族に「高校はうちから通わないか?」と誘われ、「わたしは、今のままでいい」ときっぱりと断る、ここまでは原作と同じです。

これはやはり、ちひろは信仰や家族を選んだこと表しているのでは?
そう思わせるシーンですが、その後に続くシーンがまた映画版オリジナルの、海を見つめるシーン。
ここでは何も語られず、想像するしかありませんが、やはり原作通りの「このままではいい」という台詞とは違うような、複雑なちひろの胸中を感じさせるものでした。

南先生②

その後に続くのは、南先生の説教シーン。
似顔絵を描いていたことを怒られるのは同じですが、その際の南先生の発言が、大きく異なります。

原作では「おれは今、たまたま林に注意したけど、これは全員にいえることだぞ」と、全体への指導としてまとめます。
しかし、映画版では、ちひろのみに焦点を当てており、「だいたい、水で風邪ひかないなら誰も苦労しないんだよ、両親にも言っとけ」とまで言い放ち、完全に個人攻撃としか言えないような言動を見せます。

また、このホームルームが終わったあと、原作では「あいつ性格悪いな」「明日休むなよ」と周りのクラスメイトが優しい声をかけてくれますが、映画版ではまさかの全員完全スルー

これは、時間の都合での省略もあるかもしれませんが、明らかにちひろが浮いた存在として描かれています。
原作では、宗教2世でありながらも完全に浮いているわけではなく、ちょっと幼い不思議ちゃんではありますが、それなりに周りとも馴染んでおり、普通の日常を送っていたちひろ。
それが、南先生が「明らかな迫害者」として描かれ、それを周りの誰も助けてくれない(釜本さんは一応フォローしてくれましたが)という構図は、原作よりもちひろが孤立している状況を浮かび上がらせるものでした。

そういった点も、映画版の方が痛ましさや暗さが増している要因です。

ラストシーンの解釈

さて、長々と書いてきましたが、ついにラストシーンです。
ようやく再開できた両親と星を見にいく、本作を象徴するシーン。

正直、このシーンを観てかなり驚きました
ここに来て原作とは大きく異なり、上述したような、ここまでの原作とは異なる部分の違和感がすべて繋がったからです。

その最大の衝撃は、まーちゃんの出産の話が出たことです。
詳しくは原作の考察で書きましたが、原作はまるでまーちゃんなどいなかったように振る舞う両親の姿に、強い違和感を抱きました。
家族として必要な話を避けてきた家族の姿が、そこに象徴されていたのです。

しかし、映画版ではそれを切り出しました。
これは非常に大きな変化。
まーちゃんから連絡があったことがきっかけとはいえ、両親は目を背けていた現実に向き合い、家族としてきちんと話すべき話題を切り出したのです。

原作では、まーちゃんは音信不通となり、その後はまったく描かれなかったところがとても現実的で、連絡をしてきたというのはだいぶフィクション色が強くはなりますが、ちひろの自立という観点からはとても重要な意味を持ちます。

原作では、現実から目を背け、ちひろのこともきちんと見ずに、ちひろの自立を妨げて呑み込み取り込もうとしていた両親と、それに呑み込まれかていたちひろ。
それが映画版では、ちひろの信仰への疑念と自立への迷いが強調され、両親も現実と向き合い始める可能性を示唆するラストシーンとなっていました。

原作のように、本当に意味でちひろの目線に合わせず、自分たちの目線でしか物事を見ないで、「見えない、見えない」と現実(=流れ星)から目を背ける両親ではありませんでした。
すれ違いや入浴時間を心配するちひろの気持ちに寄り添わないところは相変わらずではありますが、ちひろと一緒にちゃんと流れ星を見よう、という意思が感じられます。
それは、ちひろの自立を促す可能性に繋がり得るものです。

しかし、その後、一緒に流れ星を見られたのかどうかはわかりません。
もしかしたら、結局同じものを見ることはできなかったのかもしれません。
それでも、これは原作よりも希望を抱かせる終わり方であると感じました。

「信じる」ということ

『星の子』では、「信じる」というテーマが多く描かれていました。

宗教を信じる両親。
ちひろは、宗教を信じていたというよりは、両親を信じたかったのでしょう。
人が誰かや何かに裏切られたとき、他人事であれば簡単に「もう関わらない方がいいよ」と言うことができます。
しかし、自分でもそれが望ましいとわかっていても、当事者であると簡単に割り切ることができないのが人間です。
それが家族であれば、なおさらでしょう。

ちひろの両親が間違っているかすら、わかりません。
宗教を信仰することと対極に位置しているのが、表面的にしか物事を捉えない南先生です。
彼もまた、本当の意味で生徒たちを見ることはできていないのです。

『星の子』では、海路さんと昇子さんの詐欺の噂や、三角堂でのリンチの噂など、「噂」も多く登場します
これも、真実が明かされないところが巧みです。
信じるも信じないも、登場人物次第、そして読者や観客次第。

映画版ではカットされていましたが、原作では、春ちゃんの彼氏が「好きな人が信じるものを、一緒に信じたい。わかるまでここに来たい」と宣誓するシーンが印象的でした。
このシーンがカットされていたことからも、映画版では「無条件に信じる」ということよりも、疑い、迷い、自立に向かっていくちひろの姿が描かれていたと感じます。
原作の幼さを感じさせるちひろよりも、映画版では大人びて感じられるのは、そのためです。

それが、ふわふわした印象の原作とは異なり、映画版では痛々しさが強く感じられた要因であると考えられます。
それは、決して悪いことではありません。
自立は、痛みのプロセスでもあるのです。

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