【映画】LAMB/ラム(ネタバレ感想・心理学的考察)

映画『LAMB/ラム』のポスター
(C)2021 GO TO SHEEP, BLACK SPARK FILM &TV, MADANTS, FILM I VAST, CHIMNEY, RABBIT HOLE ALICJA GRAWON-JAKSIK, HELGI JOHANNSSON
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作品の概要と感想(ネタバレあり)

映画『LAMB/ラム』のポスター
(C)2021 GO TO SHEEP, BLACK SPARK FILM &TV, MADANTS, FILM I VAST, CHIMNEY, RABBIT HOLE ALICJA GRAWON-JAKSIK, HELGI JOHANNSSON

アイスランドの山間に住む羊飼いの夫婦、イングヴァルとマリアが羊の出産に立ち会うと、羊ではない「何か」が産まれてくる。
子どもを亡くしていた2人は、その「何か」を亡くした娘と同じ「アダ」と名付け、育てることにする。
アダとの生活は幸せな時間だったが、やがて事態は思わぬ方向へ転換していく──。

2021年製作、アイスランド・スウェーデン・ポーランド合作の作品。
「A24が〜」というのが先走っているような気もしますが、「A24」はあくまでも北米での配給権を獲得したというだけであり、製作ではありません。

全体として、とても雄大で静かな映画。
台詞が少ないこともあるでしょうが、とにかく景色の美しさ、静謐さが圧巻です。
季節によって変わる大地の姿や生活の様子を観ているだけでも価値があります。

監督のヴァルディミール・ヨハンソンは、幼少期、祖父母の羊牧場で時間を過ごすことが多かったとのこと。
そのため羊についてはとても詳しいようで、それが『LAMB/ラム』における日常生活に、強いリアリティを持たせていました。
出産と耳にパチンとしていたシーンは、本物の羊が使われていたようです。

内容としては、残念ながら個人的にはあまり合いませんでした。
ただ、がっつりホラーではないだろうな、アート系だろうな、と期待値は下げながら観に行ったので、観てがっかりしたというわけでもありません。
面白かったかと言われると微妙なのですが、終わったあとに色々と考えてしまう映画であり、頭に残るものがあるのは確か
童話や御伽噺のようなイメージです。

全体的に、ヒントとなるものが散りばめられるに留まり、明確な解答は明かされない部分がほとんどです。
それにより、観る人によって感想やどこに注目したかが大きく異なると思うので、その意味では多様な解釈や楽しみ方があり、面白い作品であると思いました。
自由度はとても高い映画。
逆に言えば、序盤は特に静かなシーンが続くこともあり、どんどん展開していって最後には謎が明らかになる、といったような作品が好きな人にとっては、かなり退屈かもしれません。

それもあって、感想というのがなかなか難しい作品でもあります。
最後にアダの本当の父親(羊男)にイングヴァルが銃殺されるシーンが衝撃ではありますが、驚きよりも「お、おぉ……?」という戸惑いの方が大きめ。
結局、観たあとにそれぞれが何を感じどう解釈するか、といった点に重きが置かれているように感じます。

そういった意味でも、アートな作品。
内容は全然違いますが、ジョーダン・ピール監督の『NOPE/ノープ』にも通ずるものがあるように感じました。

同様に考察も少々難しいですが、宗教的な観点やアイスランド民話には疎いので置いておいて、心理学的な観点をメインに可能な限り考察してみたいと思います。

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考察:マリアの心理や、アダは結局何だったのか(ネタバレあり)

映画『LAMB/ラム』のポスター
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『LAMB/ラム』には、アダという名前の存在が2人(1人と1匹?)登場します。
ややこしいので、以下、過去に亡くなったマリアとイングヴァルの子どもを「娘アダ」、本作に登場する頭は羊、身体は人間のアダを「羊アダ」と呼びます。

マリアとイングヴァルの背景

『LAMB/ラム』の主人公は誰かと言えば、マリアでしょう。
本作はすべて、マリアを中心に描かれています。

夫のイングヴァルとの会話の中で、2人は過去に娘(娘アダ)を亡くしていることが明らかになります。
娘アダの死因は明らかになっていません。
ただ、イングヴァルが羊アダに絵本を読み聞かせていた際、フラッシュバックのように挟まれた回想シーンでは、湿地帯のような場所で、イングヴァルが転びながら娘アダの名前を叫んで探している様子が描かれました。
このことからは、病死などではなく、外での何らかの事故死的な可能性が推察されます。

冒頭の時間旅行の会話では、イングヴァルが「未来は知らなくていい。俺は今のままで幸せだ」といったことを言うのに対して、マリアは「過去に戻れる?」と尋ねます。
これは明らかに、子どもを亡くす以前に戻りたいという思いです。

つまり、マリアは過去にとらわれているということです。
もちろん、イングヴァルも引きずっているでしょうが、それでも前を向こうとしているイングヴァルに対して、マリアの時間は娘アダが死んだときから止まったままなのでした。

マリアにとっての羊アダ

そんな2人の前に現れた、というより生まれてきたのが、謎の生命体。
頭は羊、身体は人間の「それ」に対して、2人はアダと名付けました。

明確にされていませんが、背景を考えれば、名付けたのはマリアで間違いないでしょう。
イングヴァルはすべてにおいて、マリアに合わせていました。
それは優しさでもある一方、過去から現在にマリアを引き戻す強さ(=父性)の欠如でもあります。

「それ」にアダと名付けたのは、冷静に考えれば非常に残酷です。
マリアにとって羊アダは、新たな生命として尊重して育てようという存在ではなく、「死んだ娘の代わり」でしかなかったのです。

マリアの母性

いずれにせよ、マリアの止まった時は、羊アダの存在によって動き始めました。
そこで現れてくるのは、強い母性です。

母性については、湊かなえの小説『母性』を筆頭にこれまで他の記事でも触れてきていますが、「生み出し、包み込み、育む」という正の側面と、「すべてを呑み込み、死に至らしめる」という負の側面の2面性が存在します。

羊アダに対して、たびたび過保護な様子を見せるマリアでしたが、その際たるものは、羊アダを産んだ母羊への対応です。
羊アダを追いかけてくる母羊に対して「来るな!」と物凄い形相で叫ぶ様子からは、自分から羊アダを奪おうとする(というのはマリアの主観で、実際はただ母羊は我が子を取り戻したいだけですが)母羊に対する怒りと同時に、強い恐怖が読み取れます。
それは、「また娘を失ってしまう」という恐怖です。

上述した通り、娘アダは何かしら野外でのアクシデントによって亡くなったことが推察されます。
そう考えると、羊アダが母羊に呼ばれ外に出て行方不明になったことは、マリアとイングヴァルにトラウマを呼び起こした可能性が高いでしょう。

それらが合わさったことで、マリアは母羊の殺害を決意します。
それは、娘を奪おうとする母羊への憎しみと、再び娘を失う恐怖に基づいた行動でした。
ここに、我が子のためなら何でもするという、母性の負の側面が非常に強く現れています。

それによってマリアは真の母親の座を勝ち取り、束の間の平穏が訪れます。
最初は羊アダに対して戸惑いを隠せなかったペートゥル(イングヴァルの弟)も羊アダに心を許したことで、まるで過去に戻ったかのような「擬似家族」が出来上がります。

イングヴァルとの性的なシーンはやや唐突にも思えますが、それはマリアが母性を取り戻し、現在を取り戻したことを示唆すると考えられます。
過去にとらわれていたら、出産や子どもを連想させる性的な行為に抵抗があっても不思議ではないからです。
マリアもイングヴァルも眠っているシーンが多いのは、そのような平穏が訪れ、穏やかに眠れるようになったことの表現でしょうか。

ラストで撃たれたイングヴァルを見つけた際、マリアは羊アダとその父親が立ち去った方向を見ます。
立ち去る2人の姿を目撃していたわけではあませんが、何か感じるものがあったのでしょうか。
おそらく彼女はあのあと、羊アダを取り戻そうとするはずです。
それだけがすべてを失った彼女の希望であり、そうしなければ、きっと彼女は生きていられないでしょう。

マリアとペートゥルの関係

マリアへの好意を隠そうともせず、たびたびアタックするペートゥルですが、ただ一方的にというわけではなく、2人は過去に関係があったと推察されます。
明らかに距離感が近く、2人になったときの親密かつ微妙な空気は、ペートゥルがただ一方的にちょっかいを出しているといったものではありません。

ペートゥルもペートゥルでダメンズっぽいですが、それなりに常識は備えている様子も窺えます。
そんな彼の、マリアの入浴を覗いた際の「わざとドアを開けていたんだろ?」といった発言は、まるで「ミニスカートを履いている女性は痴漢されたがっているんだ」といったような性犯罪加害者の考え方の歪みに近いほどのレベルです。
しかしこれも、以前関係があったとすれば、多少は理解可能なものになります。

ペートゥルからのアプローチについてマリアがイングヴァルに一切相談していないことや、イングヴァルのいないときにお金を渡して都会に送り出したことなども、2人に関係があったことを示唆します。

そうなると問題は、果たして娘アダは本当にイングヴァルとの子どもだったのか、という点です。
もしかするとペートゥルとの子どもであった可能性も否定はできませんし、マリアもどちらの子どもなのかわかっていなかった可能性すらあるかもしれません。

イングヴァルの父性の弱さ

母性の強いマリアとは対象的に、イングヴァルは非常に父性に乏しい存在です。
父性は、規範を示して教え導き、必要に応じて望ましくないものを断ち切るような厳しさを兼ね備えたものです。

イングヴァルは、子どもを失ったマリアを思い遣る優しさは持ち合わせていますが、それはただ寄り添う優しさであり、ともに前を向いて進んでいこうという希望をマリアに示すような強さを兼ね合わせた優しさではありません。

また、羊の出産や耳ぱっちんのときも、イングヴァルは常にサポートに回り、それらの作業はマリアがメインで行っていました。
優しくはありますが、頼りになるかといえば微妙な存在です。

むしろ、マリアの方が父性を感じさせます
母羊の殺害は、子どもを守るためという母性によるものでもありますが、1人で決断し実行する行動力は、むしろ父性的な要素です。

そして、それをイングヴァルは「知らない」という点が、非常に象徴的です。
思えば、この夫婦はほとんど大事なことを話し合っていません。
もしかすると、母羊の殺害も、マリアとパートゥンの関係も、イングヴァルは知っていたのかもしれません。
そうだとしても、それを切り出して話し合うこともありませんでした。
それは優しさではなく、父性の弱さを示すものです。
羊アダに対しても、読み聞かせなどはしていましたが、父親らしいことはほとんどできていませんでした。

マリアとイングヴァルは一見仲が良いですが、それは表面的なものであり、夫婦間の問題に向き合うことを回避しているために成り立っているものでした。
羊アダを2人の子どもとして受け入れる、しかも亡くなった子どもの名前をつけて、という異常性がそれを強く物語っています。

対照的に父性を強く示したのが、羊アダの父親(以下、アダパパ)です。
唐突に登場し、イングヴァルを撃ち殺して羊アダを掻っ攫って取り戻していきます。
非常に強い父性を感じさせるシーンです。

彼はずっと羊アダを見守っていました。
初出としては羊アダの瞳(でしたっけ?もしかしたら普通の羊の瞳)にうっすらとその姿が映っていましたし、牧羊犬が投げたロープを持ってこずに怯えていたシーンも、近くにアダパパがいたと推察されます。
それは隙を窺っていたのか、見守っていたのかはわかりませんが、強い父性を感じさせる存在であり、イングヴァルがアダパパに何もできないまま敗北したのも、必然的であったと考えられます。

羊アダや父親は何だったのか?キリスト教のミスリード

半羊半人の羊アダは結局、何だったのでしょうか。

12月25日にアダパパが母羊と交尾していることや、その母となる存在がマリアという名前であることは、必然的にキリスト教を連想させます。
子羊という存在がそもそも、新約聖書ではイエス・キリストを「子羊」「神の子羊」と呼んでいますし、イエスは迷いが多く弱い人間を「迷える子羊」と喩えました。

ただ、『LAMB/ラム』は決してキリスト教をモチーフとした物語ではないと考えられます。
上述したような、序盤のいかにもなヒントは、ミスリードさせるためのもの。
そう考えると、果たして羊アダは何を表していたのか。

ここの解釈はまた無限でしょうが、個人的には超自然的な存在の象徴としてとらえました。
半分羊、半分人間であり、動物的な獰猛さと人間のように銃まで使うという力を兼ね備えているのは、動物も人間も超越した存在です。

それは、「そういうもの」としてただ存在するのです。
圧倒的な自然の力の前に人間が無力なように、超自然的な存在の前にもまた、人間は為す術がありません。
それは、人間が作り出した宗教に対しても同様です。
キリスト教と関連があるように見えるというのは、ただ人間が勝手に都合良く考えているだけであり、自然や超自然的な存在には意図などなく、「ただそのように存在しているだけ」なのです。

マリアは、羊アダの存在を「贈り物」と表現しました。
それは、「子どもを失った私への神からの贈り物」といったニュアンスでしょう。
悲嘆に暮れる中で仕方ないとも言えますが、まさに人間らしい、エゴ的な受け取り方です。

しかし、羊アダもアダパパも、ただ「そういうもの」として存在するだけです。
アダパパも、決して恨みを感じてイングヴァルを射殺したわけではないはず。
恨みであれば殺すべきはマリアでないと不自然であり、彼は父親としてただ我が子を取り戻しただけです。
最後の悲劇は、終始自己中心的であったマリアへの罰と見る解釈もあるかもしれませんが、個人的には、アダパパにはマリアやイングヴァルに対する想いや意図は何もなかったのだろうと考えています。

ただ、アダパパの姿は、何となく頭部が山羊の悪魔・バフォメットを連想させます。
もしかすると、超自然的な存在の中でも、どちらかというと悪寄りだったのかもしれません。
「いやこれ羊だろ」とめちゃくちゃ常識的な反応を示していたペートゥルが、あっさりと溺愛する側に回ったのも、何となく悪魔的な要素を感じさせます。

でも、羊はどちらかというと平和的、善寄りなイメージでもあるので、ただただ理屈ではない超自然的な厳しさだったと考える方が、やはり自然でしょうか。
そのような存在に手を出してしまったのが、愚かと言えば愚かです。
そもそも、ラストシーンを「悲劇」ととらえるのもまた、人間の主観でしかないのでした。

ただ、ヴァルディミール・ヨハンソン監督は、「私たちが作りたかったのは、現実的なストーリーの中に、一つの非現実的な要素が存在し、一方で、特にその非現実的要素に触れることをせず、他と同様に現実的にしてしまうような物語です」と述べています。
それを考えると、やはり『LAMB/ラム』の中では、アダパパや羊アダは「そういうもの」として存在しており、その存在の意味を考察することはナンセンスなのかもしれません。

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