【映画】変態村(ネタバレ感想・心理学的考察)

映画『変態村』のポスター
(C)2004 LA PARTI PRODUCTION, THE FILM, TARANTULA
スポンサーリンク

 

作品の概要と感想(ネタバレあり)

映画『変態村』のシーン
(C)2004 LA PARTI PRODUCTION, THE FILM, TARANTULA

山の中でキャバレー・シンガーのマルクの車が故障してしまう。
森の中を歩いて行くと、出会った男にペンションを紹介される。
そのペンションのオーナーである孤独な初老の男バルテル氏は、歌手であるマルクに何故か異様な執着を見せ始める──。

2004年製作、ベルギー・フランス・ルクセンブルク合作の作品。
ファブリス・ドゥ・ベルツ監督による「ベルギー闇の3部作」の1作目にあたります。

原題は『Calvaire』で、「キリストの磔刑」「苦難、試練」といった意味合いのようです(フランス語)。
固有名詞の「le Calvaire」は、キリスト磔刑の地である「ゴルゴダの丘」。

邦題の『変態村』は「さすがにひどすぎやろ」と思っていた関東人ですが、いざ観てみたら完全に的外れでもない、いやでも違うそうじゃない感も漂うという、色々な側面において、何とも受け取り方が難しい作品でした。

映像の質感、長回しの撮影、噛み合わない会話、終始溢れる異質な空気などは、『ファニーゲーム』に似ていたと感じます。
狂気の方向性はまったく異なりますが。

そう、狂気溢れる作品、というのが率直な感想です。
ですが、狂気とは何でしょうか。
それは絶対的なものではなく、相対的なものでしかありません。

「狂っている」と思うのは、正常な状態からのずれを感じるからです。
では正常とは何かといえば、主観であり、かつ多数の人や物に共通して認められやすい傾向に過ぎません。

つまり、『変態村』を観て狂気を感じるのは、常識では理解ができないからに他なりません
理解できないものに対して、人間の脳は強い恐怖や不安を抱くようにできています。

その意味では、「変態」は「標準的なものから変異した状態」なので、かなり適切といえば適切です。

人が死んだり襲われたり呪われたりするホラーは、「死への恐怖」というわかりやすい恐怖心を刺激します。
しかし、『変態村』のような「理解できない作品」は、自分の存在自体を揺さぶられるような、強い不安を喚起させられる不安定感が特徴的です。

個人的にはそういう作品、大好きです。

さて、本作は考察が非常に難しい作品であり、そもそも考察などしようもないのかもしれません。
作中の時期がクリスマスであることやタイトル(原題の方)からすると、キリスト教的なモチーフやイメージも何かあるのかもしれませんが、寡聞にして知らないためそのような観点からの考察は困難です。

ただ、心理学的な視点で見てみて、非常に興味深い作品でもありました。
本作の正しい解釈ではないかもしれませんが、せっかくなので書き残しておきたいと思います。

スポンサーリンク

考察:恐ろしき無意識の世界(ネタバレあり)

意識と無意識

今では当たり前に使われている「無意識」という概念を提唱したのは、精神科医のフロイトです。
自覚できる意識に対して、無意識は自覚することができず、しかし人間の考えや行動に影響を与えます
言い間違いや夢は、無意識の影響によるものとフロイトは考えました。

意識できる領域は氷山の一角であり、無意識の領域はとても広大です。
意識の世界は秩序立っているのに対して、無意識の世界は非常に混沌としています。

フロイトと親交のあったユングは、無意識を「個人的無意識」と「普遍的無意識」に分けました。
個人的無意識はフロイトの無意識とほぼ同義ですが、普遍的無意識は人類に共通する無意識です。
ユングは、時代や国が違うのに、昔話には同じようなモチーフがあることに気がつき、人類に共通のイメージがあるのでは?と考えました。

創造と狂気

意識の世界は、生活している社会の影響を大きく受けています。
ルールや倫理観、言語など、規制の中で育っていくのが意識です。

一方で、上述した通り、無意識の世界は何でもありの世界であり、それは意識から見れば無秩序で混沌としており、時に狂気にすら見えるでしょう。
起きてから考えてみれば訳のわからない夢だったり、『不思議の国のアリス』などがイメージしやすいかもしれません。

無意識の世界の無限で常識にとらわれないエネルギーは、うまく意識の世界に引き出せば、創造力に繋がります。
一方で、うまくコントロールできずに無意識の世界に侵食されてしまえば、傍から見れば言動が支離滅裂で、狂気に支配されているように見えてしまう危険性も孕んでいます。
精神に異常を来した芸術家も数多くいますが、創造と狂気は紙一重なのです。

『変態村』はマルクの無意識の世界?

学術的な話は飽きるので、細かいことは省きながら『変態村』に話を戻します。

ユングは、夢や昔話を分析する中で、いくつかのパターンを見出しました。
その中で、無意識の象徴として多く用いられるのが「海」「森」「地下」などです。

『変態村』の主人公マルクも、霧の立ち込める森の中に迷い込んでしまいました。
深い森の中に迷い込むというのは、昔話でも多く見られるモチーフです。
このことは、マルクが意図せず無意識の世界に入り込んでいったことを示唆します。

これが個人的無意識の側面が強いのか、普遍的無意識の側面が強いのかは、何とも言えません。
両者の混じり合った世界かもしれません。

しかし、無意識の領域に踏み込んでしまうのに何かしらきっかけがあったと考えれば、それは映画冒頭のシーンでしょう。
老女から、そしてスタッフの女性から性愛的なアプローチを受けたマルク。
作品を観終わってから振り返るとあまり意味が感じられないシーンですが、同じような行動が繰り返されていたことには意味があるはずです。

これらのアプローチに対し、マルクは動揺し、静かに、しかし明確に拒絶を示しました。
一方の変態村……と呼ぶと何だかかわいそうですが、わかりやすいので森の中の村を「変態村」と呼びますが、変態村では女性は一切出てきません

女性からのアプローチ、そしてそれに対する拒絶が、男性しかいない無意識世界に迷い込むきっかけになったのだとすれば、もしかしたらマルクには同性愛の傾向、あるいは女性に対する苦手意識や、性に対する嫌悪感のようなものがあったのかもしれません

そしてそれは、マルク自身、自覚していなかった可能性もあります。
そう考えると、変態村における家畜との獣姦、男性ばかりのコミュニティ、男性同士がペアになる謎の踊りなどは、抑圧された性に対するマルクの内面、つまり個人的無意識と見ることもできるのです。

わざわざ映されていたメイクのシーンなど含めて、マルクにはやや女性的な仕草も見られました。
マルクはシャンソン歌手?っぽいですが、フランス語のシャンソン(chanson)は女性名詞です。

また、マルクが森で出会った男性ボリスは犬のベラを探していましたが、見つけたと言って連れてきたのは牛でした。
これも一見訳がわかりませんが、具体的な部分を見るからわからないのであり、抽象的に見れば、探していたのはより動物的な女性性と捉えることもできます。
ミルクを生み出す牛は、女性性を強く感じさせる存在です。
アリスを導いたウサギのごとく、マルクを変態村に導いたのはそんなマルクでした。

ボリスもバルテル(妻グロリアに逃げられたペンションオーナー)も、大切なものを失っていました。
ここは描かれていませんでしたが、マルクもまた、もしかすると最近何かを失っていたのかもしれません(精神的な喪失も含めて)。
ただもともとアンニュイなだけかもしれませんが、マルクにはどこか物悲しさも漂っていました。

人間は、困難な状況に遭遇したりどうにも立ち行かなくなったりしたときに、精神発達上、より未熟で幼稚な段階の行動を示すことがあり、これを退行といいます。
精神分析的には、無意識から意識へと流れていたエネルギーが、意識から無意識へと逆行し始めていると理解します。

フロイトはこのような「病的退行」として退行の負の側面を強調しましたが、ユングは、退行には病的なものと創造的なものの両方があると主張しました。
退行が永続化すれば病的ですが、想像的な場合は無意識に意識が負けず、今までなかった新たな要素を自我が統合するだけの強さがあれば、想像的なものになり得ます。

しかし、いずれにせよ退行は、非常に危機的であり、困難な状況です。
それは人生における苦難であり、試練の時とも言えるでしょう。

変態村において、唯一「女性」となったマルクの姿からは、やはり性的な葛藤や課題が感じられます。
性的な同一性の揺らぎは、自分の存在の根本が揺らぐ、アイデンティティの危機です。
変態村に子どもがいたことからは、変態村には男性のみではなく、潜在的には女性性の存在が示唆されていました。
それを統合することが、マルクの無意識が求めていたことだったのかもしれません。

終盤とラストシーンの解釈

男性性同士の戦い(パルテルと、グロリアを寝取った村人)のあとも、マルクを「グロリア」と呼ぶ村人に対し、マルクは「グロリアじゃない、僕はマルクだ」と拒絶します。
そして男性性に支配されそうになり、構図が天井からの視点になりますが、これは意識的な、客観的な視点です。

そこから逃げ出したマルクは、村から、そして森からの脱出を試みます。
これは、意識の世界への帰還を意図する行動です。

しかし、無意識の世界は簡単には見逃してくれず、村人たちが追いかけてきます。
そこで主導するのは、人間の知性ではなく、動物的な野生の本能であり、家畜が匂いを辿って追いかけてきました。

水は、意識と無意識を繋ぐものとしても機能します。
村人たちは、村に近い川は躊躇いもなく追いかけてきましたが、沼に至っては、リーダー格以外は尻込みをしていました。
意識の世界に近づいてきたことを示唆します。

沼の途中で、マルクは十字架の磔に出会いました。
これが、何回観ても、像なのか誰かの死体なのか、よくわかりません。

しかしいずれにしても、十字架の磔はもちろんキリストを想起させます。
キリストは父性の象徴であり、母性原理がすべてを平等に「包含する」のに対して、父性原理の主たる機能は「切断」であり、世界を「主体と客体」「善と悪」「光と闇」などに区分します。

そう捉えると、あの十字架が立っていた場所は、意識と無意識の境界であると考えられます。
無意識は無意識で、そのままの形で意識の世界に立ち上ることはできません。
そのため、意識の世界を前に沼に飲み込まれ、無意識の世界へと還っていったのです。

その姿を前に、マルクはついにグロリアになりきり、「愛してた」と声をかけました。
これは、マルクが女性性を受け入れたことを示唆します。

では、本作はマルクが無意識の世界で自らの女性性を統合し、意識の世界へ戻るというハッピーエンドだったのでしょうか。

沼に沈みゆく村人を見守ったあとは、マルクの姿は一切映りません。
ただひたすら、森の風景が左に流れる映像が続きました。

風景を描いてもらう心理検査の一つである風景構成法などでは、左が過去、右が現在と解釈されます。
マリオなどの2Dのゲームも、左から右へと進んでいます。

つまり、左へ進むというのは、逆行しているということになります。
そして、エンドロール後に響いた悲鳴のような声。

これらからは、マルクの心は今回の試練に耐えきれず、あのシーンのあとに再び一気に無意識へと退行し、精神に異常を来してしまったのではないかな、と考えています。

スポンサーリンク

『変態村』が好きな人におすすめの作品

『ファニーゲーム』

狂気と悪意に満ちた、胸糞映画の代名詞。
『変態村』に出てくる村人たちのような、常識では理解し難い人間に興味がある人におすすめです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました