【映画】マッド・ハウス(ネタバレ感想・心理学的考察)

映画『マッド・ハウス』のポスター
(C)2019 1BR Movie, LLC All Rights Reserved.
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作品の概要と感想

映画『マッド・ハウス』のシーン
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親元を離れ、一人暮らしを始めたサラ。
共同生活を送っているようなマンションの住人たちは、歓迎パーティまで開いてくれる。
しかし、夜には騒音が聞こえ眠れず、部屋には謎の人影が──。

原題は「1BR」
「BR」は「ベッドルーム」の意で、「1BR」は日本語では「1LDK」に該当する不動産、間取りの用語のようです。
つまり、リビングダイニングキッチンとは別に、寝室が独立しているタイプの間取り。
サラが引っ越したのが、とあるマンションの一室、1BRの間取りの部屋でした。

邦題の『マッド・ハウス』の「マッド(MAD)」は「狂った」といった意味なので、原題より若干ネタバレですね。
日本版ポスターからも、「引っ越した先がやばい家だったお話だよ」というところまでは自明な感じに。

内容としては、カルトやマインド・コントロールもの
それもかなり強引な手口。
詳しくは後半で述べますが、まさに家全体がカルト的なコミュニティであり、「マッド・ハウス」そのものです。

無駄を省いてコンパクトにまとまっており、リズム感も良く飽きさせない展開でした。
とある実話をモチーフにしているらしく、だからこそ、実際にあり得るような雰囲気がぞっとする怖さを掻き立てます。
直接的な恐怖というより、じわじわ追い込まれていくような心理的ホラーでしょうか。

それほど意味はないのに猫好きを敵に回しているところは、なかなか攻めの姿勢を感じます
ただあの猫のシーンは、部屋の中で不審な現象が起きる流れでの最後の着地点として、「え?ほんとに?違うよね?ほんとに?」と思わせ、まさかのほんとでした!というインパクトを生み出していました。
良くも悪くも、不穏さや緊張感はあのシーンがピークだった気がします。

ラストは、地域一帯、そもそも不動産屋もそのコミュニティの一員だったというもので、だいぶ投げっぱなしではありますが、「脱出できたと思ったらそんなことなかった」というホラーの定番。
カルトは決して遠い存在ではなく、本作のように、突如日常の中に紛れ込んでくる可能性があるものであり、身近な恐怖を描いた作品として楽しめました。


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考察:元ネタと、コミュニティという閉鎖空間(ネタバレあり)

映画『マッド・ハウス』のシーン
(C)2019 1BR Movie, LLC All Rights Reserved.

元ネタとプロセスの妥当性

この物語のモデルとなっているのは、「Synanon(シナノン)」というカルト集団。
詳しくないので、いずれもっと調べて加筆したいですが、もとはアルコールや薬物依存治療の組織であったようです。
それが次第にカルト宗教化し、脱退しようとした者への暴力や殺人未遂事件まで起こった、という顛末。

とはいえ、『マッド・ハウス』の舞台であるマンションやその母体が、もともとそのような何らかのセラピー的な組織であったかとうかは描かれていません(「過去はクズだった」的な発言をしたり匂わせる住人は多かったので、それが回復・更生施設的な存在であることを示唆しているのかもですが)。
いずれにせよ、すでにある程度カルト化している集団にサラが飛び込んでいってしまった、というお話です。

軸は、いわゆる洗脳もの
何も調べずに観たので偶然ながら、以前書いた櫛木理宇の小説『侵蝕 壊される家族の記録』と同じようなテーマですが、その方向性はまったく異なります。

「洗脳」と「マインド・コントロール」は似た概念で、実際にほぼ同義として扱う研究者も多くいます。
ただ、厳密には異なるものです。

洗脳は、肉体的・精神的暴力を用いて、相手の精神を変容させるものです。
暴力を伴う、という点が特徴的。
暴力は、殴る蹴るといった肉体的暴力から、眠らせない、薬物の使用、精神的に追い込む、といったあらゆる方法を含みます。

マインド・コントロールは、心理的に相手を操作して、意のままに操るものです。
洗脳は暴力を用いた「強制的」な側面がありますが、マインド・コントロールは、マインド・コントロールされている側が、あたかも「自ら選んでそのような言動を取っている」ように見えるのが特徴です。
上手なマインド・コントロールでは、本人も「騙されている」などとはまったく思っていません。

狭義ではこのような違いがありますが、洗脳とマインド・コントロールはまったく別物というではなく、広義のマインド・コントロールに洗脳が含まれると考えています。
広義のマインド・コントロールは、一般社会でも幅広く用いられています。
マーケティングでも活用されていたり、教育なども一種のマインド・コントロールでしょう。

マインド・コントロールについて語り始めると長くなってしまうので一旦置いておくと、『マッド・ハウス』で使われている技法は、かなり無理矢理思想を改変させようとしているので、洗脳と呼べるものです。
作品中で用いられていたプロセスは、だいたい以下の通り。

  1. 「まずは感受性を高める」と言っていたように、夜に騒音や不穏な人影を見せて、不安に敏感な状態にさせて、睡眠時間を削る
  2. 強制的に外界(家の外)との関わりを断つ
  3. 監禁し、壁に手をついた姿勢を維持させて、手に釘を打ったりまでして、肉体的に負荷をかける。同時に爆音で音楽を流したりライトを明滅させたりして、精神的にも追い込む(たぶんあまり睡眠時間も取らせていない)
  4. 孤独や絶望感が最高潮に達したあたりで仲間として受容する
  5. 共同体の中で生活しながら、赤裸々に自己開示をさせ、「THE POWER OF COMMUNITY(共同体の力)」の教えを刷り込んでいく

2の部分が難しいでしょうが劇中ではあっさりしており、凄腕ハッカー(というよりクラッカー?)がいるのかな、というのはさておいて。
「外界との関わりを断つ」「肉体的・精神的に追い込む」「過剰に情報を与える、あるいはまったく与えない」「思考力を奪い、弱ったところで受容する」といったポイントが、マインド・コントロールの技術が活用されている部分です。

そのため、プロセスとしてはそれなりにしっかりしています
ただ、4の判断基準はちょっとよくわかりませんでした。
父親の声の幻聴を聴いて気を失ったあとで受容されていましたが、何をもって試練を乗り越えたと判断されたのか。
だいたいあのような環境下で睡眠時間を削られ続けると、幻聴・幻覚が現れ始めるので、そのあたりが出現して正気を失ったと判断された基準でしょうか。

また、思想的な洗脳であれば、3の時点から、ひたすら「THE POWER OF COMMUNITY」の教えを流し続ける、という方が効果的であると思います。
思考能力が低下している状態のときに、刷り込むのです。

「異文化の閉鎖空間」という恐怖

『マッド・ハウス』で描かれている恐怖は、これまでの自分の価値観とは異なる文化で生活することを強要される恐怖です。
これまでの関係性をすべて断ち切り、新しいコミュニティの中で、新しい価値観に基づいて生きていかないといけない。
それは、これまでの自分の人生やアイデンティティを失うに等しい体験です。

知らない土地に引っ越したり海外に移住すれば、多かれ少なかれそのような体験は含まれます。
しかし、サラも引っ越しは自分の意思でしたが、これまでの関係性を断ち切ったり、コミュニティの価値観に合わせて生きていくつもりだったわけではもちろんありません。
自分の意思とは関係なく強制的に、というところがポイントです。

拉致被害者なども似たような体験をすると思いますが、『マッド・ハウス』での体験は、決して遠くに連れ去られたわけではなく、ただ新しいマンションに引っ越しただけ
それだけなのに、最初の拷問部屋(?)に閉じ込められた際の、「逃げ出せない」「もう日常に戻れない」という閉塞感と恐怖は、強烈なものがあります。
「ここに馴染んでしまった方が楽なんじゃ……」と思ってしまったら、もう心が折れる直前の合図。

これはカルトの恐ろしい側面を端的に表しています。
監禁後のプロセスはかなり過激ですが、コミュニティへの出会いのきっかけは引っ越しという誰でも経験し得るもの。
現実でカルトと接触するのも、大抵は些細な出来事です。
「私たち、カルトです」といった感じで接触してくることはなく、巧みに色々な団体や個人を装って近づいてきます。

『マッド・ハウス』では、閉鎖空間の構造が二段構えになっており、脱出したと思ったら、マンションだけでなく周辺一帯がその閉鎖空間であった……というもの。
この組織の教典と呼べる「THE POWER OF COMMUNITY」の著者がC・D・エラビー(C・D・E)なので、黒幕の「C・D・E不動産」は、その思想を実現するために存在する組織なのでしょう。
結局どうなったのかを描かないラストは賛否両論のようですが、「逃げきれないのでは」と思わせる絶望感を抱かせるラストです。

マンション内でもこの地域一帯でも、警報ブザーが鳴りまくっているのにしばらく誰も駆けつけてこないところは「大丈夫かな?」と心配になりました。
どれだけ立派なシステムを構築しても、抜け穴を生み出してしまうのはいつだって人間ですね。

サラパパが押しかけてきたときも、説得がちょっと駄目そうだっただけで「殺すしかねぇ!」とアサシンブライアンが出てきますが、そんなに部外者をほいほい殺して大丈夫なのか。

「カルト」と呼ぶにはやや弱い

「カルト」は、もともとの用語の成り立ちなどは長くなるのでここでは触れずに、現在一般的には「過激で異端的な新興宗教集団」を指すことが多いです。
日本では、オウム真理教の事件以降、有名になりました。

カルトの大きな特徴のひとつは、強いカリスマ性を持った指導者がいることです。
その指導者が説く、革新的な思想としての教義
それを信じれば救われる、と思わせる魅力が、確かにあるのです。
指導者が死んだり、暴走すると、一気に瓦解していくことが多いのもカルトの特徴です。

『マッド・ハウス』では、その指導者と教義が弱く感じました
創始者はC・D・エラビーという人のようですが、ビデオ映像でちょっと出てきたぐらい。
その後、それほど崇められている様子も窺えません。
カルトであれば、死んでも神格化されるぐらいの扱いが必要です。

教義も、基本となる「4つの教え」は、「無私」「心の開放」「受容」「監視」
これらはカルトでは当たり前というか、本当に「基本」であり、その上にある革新的な思想・教義が見えません(「THE POWER OF COMMUNITY」には書いてあるのでしょうが)。
「相互監視」はカルトやマインド・コントロール上で大事なのですが、それを明言しちゃうのはすごい
ただ、英語で「security」と言っていたと思うので、「見守り合う」みたいなニュアンスかもしれません。
「監視カメラ」ではなく「防犯カメラ」と呼ぶようなものでしょうか。

儀式めいたものも、劇中では特に見当たりません。
イーディーの死に際しても、もっと神秘的な儀式めいたものにした方がカルト性が保たれやすいですが、ずいぶんあっさり

そのため、信者はなぜそこまで狂信的になれるのか、という点の描き方が少し弱いように思いました。

「普通の人」であるべきサラ

カルトでいえば、同年に公開された『ミッドサマー』の方が、圧倒的に話題とインパクトをかっさらいました。
若干、『ミッドサマー』は作品自体がカルト性を帯びている印象までありますが、その意味では『マッド・ハウス』公開のタイミングはちょっと不遇だったのかもしれません。

ただ、『ミッドサマー』とは異なり、『マッド・ハウス』は身近に潜むカルトの恐ろしさを描いています。
その点を踏まえると、主人公、つまり観客の視点に立つべきサラと、マンションの住民の対比が、その恐怖を浮き彫りにする要素になります。

けれど、その肝心のサラが、少々感情移入しにくいものだったように感じました。
猫の丸焼きシーンは衝撃で、マンション住人の「異常さ」を際立たせていますが、元はと言えば、ペット禁止なのに、嘘までついて連れてきたサラが悪い

ペット禁止の手紙が投げ込まれたシーンも、「何でばれているのか?」という不穏さを煽るシーンだったと思いますが、「アレルギーの住人もいるんだぞ!」のお言葉は、ごもっともですよね!としか言えません。
むしろ、そっちの感覚の方が正常に感じてしまうのが、この構図の中では致命的。

その後も、いまいちサラの感情がつかみづらいのが、感情移入を妨げます。
それはつまり、対比としてのマンション住人への恐怖が薄らいでしまう要因になります。

サラパパとの確執も、徐々に背景が描かれますが、いまいちしっくり来ませんでした。
引っ越し早々にあったブライアンのアプローチも、迷惑なのかと思っていたら、「ジャイルズ(猫)、恋の邪魔を」って、そんな好印象だったのか!と思ってしまいました。

コミュニティの一員となってからも、「あっ、意外と馴染んでるのね」と思ったら「あっ、やっぱり抵抗感もあったのね」とも思わされたり、サラが何を考えているかがいまいちわかりづらかった印象でした。

洗脳は良くないですが、ルールはきちんと守りましょう。

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