【小説】今村夏子『星の子』(ネタバレ感想・心理学的考察)

小説『星の子』の表紙
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作品の概要と感想(ネタバレあり)

タイトル:星の子
著者:今村夏子
出版社:朝日新聞出版
発売日:2019年12月6日(単行本:2017年6月7日)

主人公・林ちひろは中学3年生。
出生直後から病弱だったちひろを救いたい一心で、両親は「あやしい宗教」にのめり込んでいき、その信仰は少しずつ家族を崩壊させていく──。


2017年発売、第39回野間文芸新人賞受賞作。
2020年には映画化もされました。

いわゆる宗教2世である主人公・林ちひろの視点での日常を描いた作品。
宗教2世は、「特定の信仰・信念をもつ親・家族と、その宗教的集団への帰属の下でその教えの影響を受けて育った世代」などと定義されています。
そして、それによって子どもの養育、発育、発達、成長に著しい障害が発生することが、宗教2世問題として社会的な問題となっています。

ちひろは決して宗教を信仰する家族のもとに生まれたわけではなく、むしろ幼少期に病弱だったちひろの存在が、その引き金となってしまいました。
そのため、物心ついたときには両親はすでに信仰しており、ちひろにとってはそれが自然な環境でした。

この点は、姉のまーちゃん(まさみ)は少し事情が異なり、かなり小さかったとはいえ、両親が信仰にのめり込んでいき、変化していく過程を認識することができました。
それが反感の種となり、黙って家を出るという行動に繋がります。
親がおかしくなっていく過程を見ている気持ちは察するに余りあるもので、「ちーちゃんのせいだ」と言ってしまうのも、気持ちとしては理解できてしまいます。

宗教2世という難しい問題が、本作ではとてもリアルに描かれています。
しかし、著者が宗教2世問題を描こうとして書いた作品ではないのが、面白いところ。
文庫版巻末の小川洋子との対談では、宗教とは何ら関係のない、自身が体験した小さな出来事から発展して本作が生まれたことが語られていました。

そのため、宗教2世問題を提起するような「押しつけがましさ」がまったく感じられません。
それは、本作が徹底してちひろ目線で展開されることによって、より鮮明になっています。
まるで児童文学のように読みやすい文章は、あくまでもちひろ目線であるため。
ちひろにとって自分の環境は「当たり前のもの」であり、小さな違和感は覚えていましたが、宗教に強く抵抗を感じることもなければ、そもそも「宗教」といった言葉もちひろはまったくと言っていいほど使いません。
決して強い信仰心があるわけではない、しかしすっかり当たり前のものとして宗教的価値観が浸透しているちひろの言動に、ハラハラした方も少なくないはずです。

結末の賛否を含めて、様々な感想や解釈が入り乱れている本作。
それはそれだけ、宗教というテーマの難しさを浮き彫りにしています。
著者からのメッセージ性はなく、ただただ1人の少女の日常がリアルに描かれているからこそ、それぞれの読者の感じるものが異なっているのだと思いました。

俗っぽい感想かもしれませんが、個人的にはやはり、ちひろの境遇は痛ましいものだと感じてしまいました。
ラストのシーンは、希望なのか不穏なのか。
後述しますが、個人的にはとてもマイナスな印象で捉えました。


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考察:宗教2世問題(ネタバレあり)

ちひろの両親はなぜ宗教にのめり込んだのか

もともと宗教を信仰していたわけではない、ちひろの両親。
2人が宗教にのめり込んだのは、病弱だったちひろが、父親の同僚・落合さんからもらった水「金星のめぐみ」によって健康的になったことが大きなきっかけでした。

そのときにあったのは、純粋にちひろのことを心配する気持ちです。
あらゆる手を試しながらもどうしようもなかった問題が、水ひとつで解決しました。
もちろん、本当に水に効果があったのかはわかりません。
少なくとも、霊的なパワーではありません。
しかし、偶然に必然を見出すのが人間です。

これは、宗教などにのめり込む流れを、とても端的に表しています。
きっかけは些細なことであり、藁にもすがる思いでつかんだものに救われたとき、人はその対象に強い感謝の念を抱きます。
それが霊的なものやスピリチュアル的なものであれば、それを信じ込むきっかけにもなるでしょう。

とはいえ、多くの人は、そこで一気にのめり込むことはありません
たとえば病気の治療など苦難が継続していれば、その対象にすがり続けることはあり得ます。
しかし、ちひろの場合、問題は解決しました。
少なくとも、水を買い続ける以上のことまでする必要性はなかったはずです。

そこでのめり込んでいったのは、完全にちひろの両親の問題です。
きっかけは病弱なちひろの存在でしたが、のめり込んでいったのはまったくちひろのせいではありません。
2人は一見優しいですが、ほとんど軸となるような信念や価値観が見受けられません。
ちひろ目線では見えていませんでしたが、何かしら問題を抱えていたのでしょう。
依存しやすいパーソナリティであったとも推察されます。

それは、徐々に目的や本質が逸れていったことからも明らかです。
ちひろのためにと思って始めた行動が、ちひろにも「奉仕の対象はいつからかわたし以外のものへと変わっていった」と見破られているほど、宗教の信仰そのものが目的へと移り変わっていきました。
つまり、「自分たちのための」信仰です。
こうなるともうマインド・コントロール状態で、自分たちでは考える力を持てなくなっていきます。
娘が家出をして行方不明になっても、滝に打たれたり断食をしたりといった間抜けなことしかできなくなってしまうのです。

盲信的なマインド・コントロール下に置かれているとき、もっともやってはいけないのが、説得しようとすることです。
カルト的な宗教になるほど排他的で、信じないや邪魔をしてくる者は「悪魔」「敵」であると教え込まれます。
説得しようとするほどその考えが深まり、溝も深まる。
「雄三おじさん水入れかえ事件」はもう、めちゃくちゃ気持ちはわかりますが、まさに逆効果になってしまいました。
このときのまーちゃんの気持ちを思えば、切なすぎるものがあります。

人生や時間、お金を費やすほど、どんどんあとに引けなくなっていきます。
「金星のめぐみ」が偽物であったと否定することは、これまでのお金や時間がすべて無駄であったと認めることと同義です。
そのような状況では、「合理化」という心理メカニズムが働きやすくなります。
事実から目を背け、都合の良い部分だけを見て都合の良いように解釈し、「雄三は本当に水を入れ替えてはいなかったんだ」と自らを納得させるのです。

団体はカルトだったのか?

ちひろが所属していた団体は、カルトだったのでしょうか。

「カルト」というのも定義や視点が色々とあり、実は曖昧で、ある研究者によってはカルトだという団体も、別の研究者はカルトではないということもあり得ます。
この点は改めてまとめようと思っていますが、搾取的であったり、他者に害を与えるようであれば、少なくとも問題のある団体であることは間違いがありません。

しかし、ここで立ちはだかる大きな壁が、「信教の自由」です。
財産をすべて寄付するなど、人から見れば「搾取」でも、本人にとっては「信仰の証」であれば、他者による否定は本人の信仰心を強めるだけです。
さらに、マインド・コントロールが上手であるほど、その人が「能動的に、自ら望んで選択したように」見えるものであることも、ややこしさに拍車をかけます。
巧みなマインド・コントロールは、マインド・コントロールされている本人にもその自覚がありません。

ちひろの家族が信仰していた団体は、団体名すら出てきませんでした。
それがまた、ちひろにとっての「当たり前な存在」であることを痛感させられます。
「金星のめぐみ」「星々の郷」といった水や研修施設の名称や、流れ星にからは、何かしら星に関連した団体であることを想像させます。
カリスマ的な教祖がいる団体というよりは、宇宙のスピリチュアル的な概念が教義の中心でしょうか。

この団体がカルトか、というと微妙なラインです。
ちひろで見える範囲には限界があるので、全貌や実際にどうであったのかは情報が足りません。
河童の儀式(勝手に命名)は相当に怪しいですが、怪しい=カルトというわけでもありません

ただし、水などの販売は詐欺的であり、いわゆる霊感商法に近いものがあります。
ちひろの家も、引っ越すたびにどんどん小さくなり、両親の服装もみすぼらしいものになっていきました。
両親が、財産のほとんどを信仰に費やしていたことは明白です。
雄三おじさんの助けがなければ、ちひろは修学旅行にも行けていなかったかもしれません。

一方、強引な勧誘や、積極的に全財産を寄付させるといったようなことまではやっていないようです。
また、危険なカルトは排他性が特徴的ですが、「信者以外は悪魔だ、話してはいけない」といったような極端な排他性までは見られません。

ただ、傾向としてはかなり詐欺的・搾取的な団体であると考えられます。
海路さん・昇子さんペアの黒い噂も、おそらく火がないのに立った煙ではないはずです。

宗教2世問題

では何が問題なのか?
カルトではないなら信教の自由で良いのではないか?

その考えも否定はできません。
本人たちが良くて、周りに迷惑をかけていないのであれば良い、という見方もあります。

しかし、その子どもたちの問題はまた別です。
宗教2世問題の何がいけないのか。
そこに自由があればいいのですが、信仰の強制になりがちであるからです。

また、宗教によっては、教育やしつけと称して虐待行為を行っているところもあり、それは論外です。
たとえば、映画キャラクターに出てきたコミュニティなどは、子どもを学校にも行かせてすらいませんでした。
たもさん『カルト宗教信じてました。』など脱会者の手記も多いエホバの証人は、子どもを暴力的に躾けたり、献血を拒否していたことなどで有名です。
『カルト宗教信じてました。』は、漫画なので読みやすいですが、信じられないような2世の実態がリアルに描かれています。

親がいくら子ども自身に決めさせるという姿勢であっても、子どもは冷静で客観的な判断力を有しません
たとえ親からすれば強制しているつもりがなくても、幼少期から当たり前に教えられれば、それが自然なものとして捉えられやすくなります。
それが、心理的な面も含めて「子どもの養育、発育、発達、成長に著しい障害」に繋がり得るのです。
ちひろもまさにそうでした。

近年では、宗教2世問題が日本でも顕在化してきています。
しかし、公認心理師や臨床心理士といった心理職の専門家でも、養成課程でマインド・コントロールやカルトについて体系立って学ぶことはほとんどありません。
そもそも専門家が少ないのが実情であり、研究も少ないために、対応が遅れています。
また、宗教に関心の薄い日本的な文化の影響もあるでしょう。

しかし、たとえばフランスでは「無知・脆弱性不法利用罪」という法律があり、子どもにカルトの思想を教育したり、マインド・コントロールの影響下に置くだけで犯罪と見なされるそうです。
それをもとに、国の補助を受けてカルトの被害者を守る全国組織があり、精神面のケアや社会復帰への支援をしているとのこと。
日本でも、親による信仰の強制を児童虐待であると捉えるべきだという意見も出てきてはいますが、まだまだ「本人のせい」といった風潮や、問題に対して排除しようとする傾向が強いところが、社会全体の課題点です。

ラストシーンの解釈:子どもを見ない親

という社会的な問題提起はさておいて、『星の子』の話に戻ります。

『星の子』のラストシーン、家族3人で星空を見上げるシーンは、色々と曖昧なまま終わっており、読む人によって解釈の変わるポイントでしょう。
映画のポスターでも星空を見上げる3人の姿が使われており、本作を象徴するシーンです。

このシーンの前には、「星々の郷」の施設内における親子のすれ違いが、何度も描かれていました。
それは少ししつこいほどに強調され繰り返されており、ちひろに連動して読者の不安も煽られます。

その後に続く星空のシーン。
久々に親子3人でゆっくりと語り合い、寄り添う姿が描かれます。
受験の話になり、ちひろの志望する高校について、「……遠いな」と父親がしみじみと呟く。
寒いはずなのに、両側を両親に挟まれて暖かさを感じているちひろ。
ちひろの自立に理解を示し、別れを惜しむように寄り添い、家族3人の時間を大切にしている。
そのようなシーンとして読み取ることも可能です。

ですが、個人的にはどうしてもそのようには捉えられず、両親のエゴしか見えないシーンでした。
まず、その前に何度も両親とすれ違ったことで、ちひろは言いようのない不安を感じていますが、両親はそのような不安にはまったく気がつくこともなければ、気遣う様子も見られません
「お母さん今までどこにいたの?探したんだよ」というちひろの訴えにも、母親は「それはこっちのセリフよう」と一笑に付します。
受験の話に関しても、「今まで一度もそんなこときかれたことはなかった」というほど、親子間で必要なコミュニケーションがこれまでまったくなかったことが示されます。

さらに、流れ星を一緒に見ようというのも、「見えない」「まだまだ」「見えないねぇ」という両親の台詞が続き、だんだんと、実は見えているけれど見えない振りをしているんだな、ということがわかってきます。
これは、この家族3人の時間を惜しみ、もう少し、もう少しこのままでいたい、という両親の気持ちの現れでしょうか。

それは、その通りでしょう。
ただそれは、両親の願望だけであり、そこにちひろの気持ちはまったく考慮されていません
あるいは、「ちひろも同じ気持ちのはずだ」と決めつけているのでしょう。
お風呂の時間を心配するちひろの気持ちは、完全に無視しているといっても過言ではありません。
凍らせたタオルを頭に乗せたままくしゃみをしている父親の姿など、滑稽の一言に尽きてしまいます。

これはこのシーンだけに限った話ではなく、今までもずっとそうでした。
両親は、いつの間にか自分たちのために信仰し、のめり込んでいきます。
団体の言いなりであり、真に親として子どもたちのことを考えてもいなければ、見てもいませんでした。

そのため、愛想を尽かした姉のまーちゃんは、犠牲者となって家を出て行きます。
しかし、それでもなお、滝に打たれることしかできなかったのは上述した通りです。
そもそもラストシーンも、ちひろの一家は3人家族ではなく、4人家族です。
もはやまーちゃんなどいなかったかのように振る舞う両親の姿には、違和感しかありません。

「こうやって、ちーちゃんと同じ方角見てれば見えるかな……」と顔を寄せつつも、わざと見えていない振りをする母親。
子どものことを考えていると言いながら、自分たちの都合しか考えていない親の姿が、そこに重なって見えてしまいました。


近いうちに映画版も観てアップしたいと思います。


追記

映画『星の子』(2022/08/09)

映画版『星の子』の感想や、小説と異なる部分の比較・考察の記事をアップしました。



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