作品の概要と感想とちょっとだけ考察(ネタバレあり)
タイトル:紗央里ちゃんの家
著者:矢部嵩
出版社:KADOKAWA
発売日:2008年9月25日
祖母が風邪で死んだと知らされた小学5年生の僕。
叔母夫婦の家からは従姉の紗央里ちゃんの姿も消え、叔母たちの様子はどこかおかしい。
僕はこっそり家中を探し始める──。
第13回日本ホラー小説大賞長編賞受賞作品。
さて、これほど感想が難しい作品もなかなかありません。
誰に聞いても、一言で感想を言ってもらうなら「訳がわからない」でしょうし、おそらく訳がわかる人は1人もいないであろう作品。
ジャンルもまた難しく、不条理ホラー、というのも何だかしっくり来ませんし、人怖系のホラーともまた違う。
そもそもホラーか?と言われれば微妙でもあり、でも人によっては恐怖を感じるでしょうし、他に適切なものも浮かばない。
非日常的でありながらも、完全なる非日常だったりファンタジーやSF要素があるというわけでもなく。
強いて表現してみるなら、「日常からのずれが気持ち悪い作品」でしょうか。
小学生の主人公が夏休みに親戚の家に泊まりに行くという、ありふれた設定。
しかし、そこで起こる出来事は、とにかく謎。
科学的に説明できない現象が起きるわけではなく、会話が完全に成り立たないわけでもない。
ただ「ずれている」感覚。
そんなひたすら独特の世界観で繰り広げられる、唯一無二の作品。
表紙の絶妙な不穏さも良い。
これまで何度も書いてきましたが、人間ははっきりしないこと、曖昧なことに不安や恐怖を抱きます。
本作もそこを刺激してくるもので、紗央里ちゃん一家の「何かがおかしい」様子が、恐怖まではいかない、えも言われぬ不安や気持ち悪さを喚起させてきます。
「やっていることはわかるけれど、やっている理由がわからない」というポイントが核でしょう。
しかし、徐々に明らかになるのは、おかしいのは叔母さんや叔父さんだけではなく、主人公も相当におかしいということです。
人間の指を発見してもほとんど動じることなく、淡々と捜索を続けます。
視点となる主人公すら共感しづらく意味がわからないのが、本作の特徴である不安定感を醸し出すのに大きな役割を果たしていました。
ただ、思考回路も言動も到底小5とは思えませんが、個人的には本作だと不思議と不自然には感じられませんでした。
一方では、主人公は小学生らしく、夜の暗闇を怖がります。
無限に広がる想像力。
なるほど、夜の暗闇は未知が溢れているので怖いけれど、人の死体や身体の一部が転がっているのは「すでに終わったことの結果でしかない」というのは、理屈として納得できます。
そのあたりの、普通っぽさと逸脱した感覚のバランスが、何とも絶妙な作品。
謎は終始、謎のまま。
おばあちゃんが殺されてバラされて隠されていた理由もわからなければ、2階で発見したのはおじちゃんの死体なのかもはっきりとは説明されず、そもそもおじいちゃんがいつまで生きていたのか、夜に見たおじいちゃんは何だったのかもわかりません。
おじいちゃんと叔母さん叔父さんが同席したり会話しているシーンはなかったはずなので、主人公たちの到着以前におじいちゃんは殺されており、最初からおじいちゃんは主人公と父親だけにしか見えていなかった可能性も高そうです。
色々予想は可能ですが、説明は一切なし。
大抵、こういった謎があまりに投げっぱなしだと消化不良感や手抜き感が残るものですが、本作では不思議とそのような感覚を抱きませんでした。
おそらく、紗央里ちゃんの家で起こっていた謎が本作の本質なのではなく、「とにかくただただ不安定な状況に放り込まれた感覚を味わう作品」だからなのではないかと思います。
いや、不満を覚える人ももちろんいるでしょうけれど。
そのため、具体的な部分を検討する考察は他の作品以上にナンセンスな作品で、完全に考えるのではなく感じるタイプの作品であるのは間違いありません。
本筋とは関係ない部分では意味不明にぶっ飛びすぎている(たとえば警察との電話や、突然すべての漢字にふりがなが振られるなど)のも、無駄とも言えますし、強引に落ち着かない感覚にもさせられます。
これらを含めた「訳のわからなさ」を楽しめるかどうかで、評価は2極化するでしょう。
少しでも理由や謎の解明を求めていたり、本作の世界観が合わなかった場合、これほど読むのが苦痛で読後に後悔するような作品もなかなかないのではないでしょうか。
個人的には、かなり好きな部類に入ります。
特に、口語調のようで口語調とも異なる、相当読みづらいのに何だかリアルさを感じるセリフ部分が、癖になってしまいました。
そんな「訳のわからなさ」が大部分を占める一方で、妙な現実っぽさや説得力がある要素が紛れ込んでいるのも、本作の特徴であったと感じます。
たとえば、夏休みに親戚の家に行ったときの感覚。
親戚というのは、近いような遠いような不思議な存在です。
自分の場合は多くの親戚が比較的近くにおり、「夏休みに田舎の親戚の家に泊まりに行く」というイベントはほとんどなかったのですが、逆に言えば近くにいながらも、どれだけ親戚のことを知っているかといえば、ほとんど知らないかもしれません。
ずっと同居していたり、ほとんど毎日会ったり連絡するぐらいの距離感であればまた違うかもしれませんが、親戚は大抵「たまに会う」存在ではないでしょうか。
血が繋がっていない人もいれば、ほとんど喋ったことがない人もいる。
人は相手や状況によって見せる顔が異なりますが、「親戚に見せる顔」というのもまた独特なものであると感じます。
年に数回、親戚の集まりで会っただけで、どれだけその人のことがわかるかといえば、かなり微妙。
話が広がりましたが、『紗央里ちゃんの家』を読んで共感できた部分は、「そもそも親戚ってよくわからない存在」という点です。
本作の主人公のように、自分の家族(両親や姉)や仲の良いおばあちゃんや紗央里ちゃんを通してコミュニケーションを取るというパターンが無意識のうちに確立していることも少なくなく、それらが取り除かれた場合の「異質感」の表現が絶妙でした。
あまり話したことのない親戚と2人きりになったら、というのを想像すると、何とも言えない居心地の悪さを感じます。
「たまにしか会わない親戚の家」というシチュエーション自体が、そもそも日常と非日常の狭間であり、不安定感を喚起するのかもしれません。
また、本作の登場人物たちは、完全に理解不能というほどにぶっ飛んでいるわけでもないのがまた曲者。
ラスト近くで「何も思わなかったの?何も訊かなかったの?何も気ならなかったの?」と父親を詰問する主人公には、「ようやく言ってくれた!」感が溢れました(ついでに「お前が言うか」感も溢れましたが)。
しかし、それに対する父親の回答。
「どうでもいい」というそのシンプルかつ衝撃的な答えは、しかしどこかで、共感してしまう部分がありました。
さすがに息子がナイフで殴られてもどうでもいいお父さんは極端ですが、たとえば「誰々が結婚した離婚した」だの「誰々が亡くなった」だの、近い親戚であればまた別ですが、ほとんど関わりがなく、会ったことも数えるぐらいしかないような親戚だった場合、「どうでもいい」と思う部分があることは否定できません。
同情したり悲しみを感じる部分もあれど、自分の日常が侵食されるほどではありません。
「家族」というのもまた、千差万別な内情とは関係なく一括りにされてしまう単位です。
『紗央里ちゃんの家』は、とにかく不安定さを楽しむ作品でありつつも、「家族や親戚」といった概念の本質的な部分を抉る要素も持ち合わせているように感じました。
家族や親戚と数日を過ごしながら主人公の名前が一切呼ばれなかったことも、象徴的です。
その意味では、「家族も親戚もみんな仲良し!」な人の場合、上述したような感覚がわかりづらく、より一層退屈な作品となってしまうかもしれません。
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