作品の概要と感想とちょっとだけ考察(ネタバレあり)
タイトル:姉飼
著者:遠藤徹
出版社:KADOKAWA
発売日:2006年11月10日(単行本:2003年11月26日)
蚊吸豚による、村の繁栄を祝う脂祭りの夜。
まだ小学生だった僕は、縁日で初めて「姉」を見る。
姉は皆、体を串刺しにされ、髪と爪を振り回しながら、凶暴にうめき叫んでいた──。
第10回ホラー大賞大賞受賞作品。
前回書いた矢部嵩『紗央里ちゃんの家』もそうでしたが、本作もまた何とも感想が難しい作品です。
すべてトリッキーな設定の中編4編。
ホラーというよりは世にも奇妙な物語系。
どれも個性的で楽しめました。
こういった尖った作品は大好きなのですが、万人受けしない作品であることも間違いありません。
それだけに、このような作品に出会えたときの感動はひとしおです。
特徴的なのは、異形(フリークス)モノや、SFのような特殊設定。
綾辻行人や平山夢明、飴村行あたりに近いものも感じました(作家デビューは飴村行より遠藤徹の方が先)。
ただ、綾辻行人ほどじめじめ這い寄ってくる恐怖感や不快感があるわけではなく、平山夢明や飴村行ほどぶっ飛んでいたり緻密な世界観が組み立てられているわけでもない。
特に「姉飼」がやはり一番インパクトがありグロテスクですが、文章や描写はカラッとしているので、こういった作品の割には読みやすさもあり、ライトに楽しめる1作かもしれません。
微に入り細を穿つような表現ではないので、強制的に映像が脳内再生され五感が刺激されるような感覚はありませんでした。
細かい描写や説明がない分、自由度が高いので、想像力豊かな人ほどどんどん恐ろしいイメージが湧いてきそうです。
個人的には残念ながら想像力に乏しいので、「姉……一体どんな感じなんだ……?」と姉のイメージがどうしても最後まで確立しませんでした。
程よくドライさを感じる文体の特徴は、著者の遠藤徹が研究者であることにも由来しているのかもしれません。
2023年7月現在、同志社大学のグローバル地域文化部で教授として務められているようです。
「どうやったらこんな設定思いつくん?」という個性の一要因も、専門による見識の広さによるものでしょうか。
背景や詳細はほとんど説明されないまま突き進みそのまま終わるところも、消化不良感を抱く方もいるでしょうが、個人的には好きでした。
ただ、「何様だよ」な感想であるのは承知の上で、まだ初期の作品だけあってか、特殊設定ありき、かつ「奇を衒おう」感が感じられてしまった部分もありました。
とはいえ、もちろんこれだけの特殊設定を思いつけるだけでもすごいですし、後発作品も読んでみたいところ。
以下、簡単に各作品の感想です。
姉飼
上述しましたが、やはりこの作品がインパクトや完成度が抜きん出ていました。
「姉」という、謎の存在。
この訳のわからない存在を生み出したこともすごいですが、それを「姉」と呼称しているのもまたすごくないですか?
名称もオリジナルのものをつけそうなものですが、あえて「姉」と名付けるセンス、恐ろしいです。
そんな姉に魅入られてしまった主人公。
幼少期に触れた衝撃的な体験が、その後の人生や人格形成に影響を及ぼすことは少なくありませんが、その極みみたいな体験をしてしまった主人公、かわいそうと言えばかわいそう。
姉にハマっていく様は、まさに依存症そのものでした。
主人公は「姉に奉仕し続けた」と言っていましたが、根底にあるのはサディズムであり、支配欲でしょう。
世話をするプロセスを経て、数ヶ月足らずで訪れた姉の死は、主人公にたまらない満足感をもたらしました。
「姉を失った悲しみと、姉を幸せにしてあげることができた悦びにまみれて泣いた」というのは、あまりにもエゴイスティックです。
その一瞬の感覚を追い求め、禁断症状に襲われ、再び姉を買って飼う。
まさに薬物に依存していくかのように、姉を飼うことが人生の中心になっていく。
おそらく主人公以外も、姉を飼ったら同様の道を歩むのだと考えられます。
牛を飼う人を「牛飼」というように、姉を飼う人のことを「姉飼」と呼ぶのでしょうが、その行く末は破滅しかありません。
幼少期に出会ったものにより倒錯してしまい、破滅の人生を歩んだ主人公。
しかし、逆に言えば、「早々に生きがいを見つけてそのために人生を捧げた」とも言えます。
町田刑事に忠告された主人公も、「そんなことは先刻承知なんですよ。自分で選んだことなんですから」と返していました。
経済的に困窮し犯罪などに手を染めてしまえば別ですが、姉を飼うこと自体は違法ではない(はず)ので、飼えなくなったら自ら破滅することも許容できるのであれば、それはそれで幸せな人生なのかもしれません。
ただやはり、依存的になるというのは、自分がコントロールしているのではなく、対象にコントロールされている状態です。
「自分で選んだ道だ」というのは、後戻りできなくなった主人公にとって、そう考えないとやっていけない、そう考えて生きていくしかないとも想像できます。
ラストシーンもしっかり伏線回収となっており、やはり4編中では本作が圧倒的に完成度の高い作品でした。
姉は姉として生まれたのではなく、全員元々は人間だったのかもしれない。
そんな後味の悪さも最高です。
「ジャングル・ジム」もそうですが、会話でかぎかっこが使われていない点も印象的でした。
キューブ・ガールズ
設定や展開など、なかなか好きな1作。
ただ、主人公(視点)の亜矢乃の口調や思考がいまいち合わなかったというか、無理に軽いノリの個性を出そうとしすぎている感があり、読んでいて若干恥ずかしさを感じてしまいました。
とはいえ、20年ほど前の作品であるのと、亜矢乃はキューブ・ガールとしてプログラムされた存在だったので、許容範囲。
設定としては珍しくはないかもしれませんが、キューブをお湯で戻すという突然の雑設定、好き。
あとはとにかく悪意あるラストですね。
恐怖を感じる設定で亜矢乃を作り出し、恐怖に怯えながら消えていく亜矢乃を記録に残す裕也の残酷さ。
「賞味期限」という表現もなかなかにえぐい。
個人的に好きなダークさで、その点においては、亜矢乃のライトさが裕也の残酷さを対比的に引き立てる役目を果たしていたので、亜矢乃が軽いノリであったことには必然性があったのだろうと思います。
深掘りされていたり風刺的なわけではありませんが、AIなどが進化する現代において示唆的な作品でもありました。
「理想の存在」を生み出せるようになったとき、それに依存することは避けられないでしょうし、人間同士のコミュニケーションは果たしてどうなるのでしょう。
このポイントは「姉飼」と共通する部分もあり面白い。
「キューブ・ガールズ」で視点となっているのは、「姉飼」とは逆で、依存する側ではなく、される側。
しかし、男性たちは「キューブ・ガールズが生み出す理想」に依存するのであって、亜矢乃であったり、キューブ・ガール1人1人に依存するわけではありません。
明らかな人工の創造物であっても、人間と同等の人格を持ったとき、どこまで人権が生じ、どのような存在として捉えるべきなのでしょう。
ジャングル・ジム
本邦初!
ジャングル・ジムを主人公とした、ジャングル・ジム視点の物語!
いや、調べてないですけれど、でも本邦初、いや世界初で間違いないでしょう。
そんな確信が抱けるほど、シンプルながら誰も思いつかないような、思いついたとしても書こうと思わないような、奇抜な作品。
陰ながら地域の人々を支える、心優しきジャングル・ジムくん。
ジャングル・ジムなんて触れなくなって久しいですが、日常で接する物たちも、彼のように陰ながら自分たちを支えてくれているのかもしれません。
そんなジャングル・ジムも、1人の女性と出会ったことで、運命の歯車が狂い始めてしまいます。
彼も1人の男ですから、そんなこともありますよね。
はぁ?
失礼、素が出てしまいました。
ジャングル・ジムはさすがに斬新ですが、物を擬人化してその視点で物語を紡ぐというのは、決して珍しいわけではありません。
それこそ平山夢明の『独白するユニバーサル横メルカトル』に収録されている表題作品も、地図の独白というトンデモ設定。
しかし本作のジャングル・ジムは、女性とレストランやバーでデートを重ね、ベッドを共にして、彼女への恋心を募らせていきます。
もう絶対、映像化不可能。
いやむしろ、映像化してほしい。
彼もまた、1人の女性への想いからジム生(じんせい、と読みます)が狂い、彼女への恋心は裏切られたことにより怒りに転じ、破滅へと至ってしまいました。
こうやって追ってみると、本作もまた、とある対象との出会いや執着が破滅に至るという悲劇が描かれており、「姉飼」に通ずるものが見出せるように思います。
妹の島
最後を飾るのは、とある異端の島で起こる怪奇。
とある一族が支配しており訳ありの人間ばかりが集まる孤島で起こる、いきなりの殺人事件。
ミステリィ作品のような雰囲気を醸し出しておきながら、まっっったくそんなことなかったのがさすがです。
光一による復讐、そして妹のアマリの復活の儀式(?)が事件の軸であったと思われますが、むしろそんなのはおまけと言わんばかり、異様な出来事ばかりが描かれます。
ただ、それでもやはり「姉飼」の狂気には及ばないのが、「姉飼」が優れた作品であると同時に枷にもなってしまっていた印象が否めません。
オニモンスズメバチというのはもちろん(?)創作のようですが、蜂使いである光一のキャラが謎に包まれており、不気味で光っていました。
光一視点の物語も読んでみたい。
そして本作もまた、禁断と言えるであろうオニモンスズメバチによる快感に目覚めてしまった吾郎が、破滅へと向かう道が描かれていました。
みんな破滅するやん。
依存症は、複数の要因が絡み合って生じます。
アルコール依存症はアルコールが大好きだからなるわけではなく、現実逃避したかったり、眠るためだったり、といったきっかけから始まることも少なくありません。
吾郎の妻は、島に来る前から正気を失っていたようでした。
吾郎がオニモンスズメバチの快楽に魅了されたのは、もちろんただただ快感が忘れられなかったから、というのもあるかもしれませんが、奥さんのことも一つの要因となっていたかもしれません。
吾郎の息子4兄弟は、どうも中身は空っぽな様子。
幸せな家族に囲まれ、島での生活に満たされていたら、明らかにリスクの高いオニモンスズメバチの快楽を求め続けていたでしょうか。
そう考えると、吾郎もまたかわいそうな存在でもありました。
好き勝手していた結果なので、自業自得でもあるかもしれませんが。
光一は、妹のアマリを失いました。
島に住む人たちも、ほとんどが様々な理由で本土を追われ、吾郎に拾ってもらった人ばかり。
あまりにも「喪失」で満ち溢れている島であり、遅かれ早かれ破滅する未来しかなかったかもしれません。
そんな中で、今ある命(4兄弟)の喪失が、失われた命(アマリ)の復活に繋がる。
その循環は、自然の法則に似ています。
失われた命が復活するというのは不自然ですが、植物が生え、冬には枯れて土に還り、春には再び芽吹くのは、まるで植物が復活したかのように見える、死と再生のプロセスです。
命を生み出し、包み込み、呑み込む機能を有する大地や海は、母性の象徴として解釈されます。
アマリの死体がバラされて各地に埋められた島は、島自体がアマリそのものになったとも言え、その意味で「妹の島」というタイトルなのかな、と考えています。
幼少期のアマリの身体にびっしりと蜂が貼りついていたという描写からは、アマリ=蜂という図式も成り立ちます。
光一が蜂を操っていましたが、おそらく光一がもともと持っていた力ではなく、そのようなことができるようになったのはアマリの死後ではないかと思います。
そうやって見ると、島が破滅に至ったのは、すべてアマリによるものと言えるでしょう。
アマリという名がマリアを彷彿とさせるのは、偶然でしょうか。
しかしいずれにしても、アマリは聖母的な存在ではなく、すべてを呑み込み死に至らしめる負の母性を象徴する存在です。
人がどんどん逃げた植物だらけの島で、吾郎の家が燃えたその後は、島全体が全焼する可能性が高いと考えられます。
火もまた、母性的な象徴。
その上で生活していたすべてを呑み込んだ島は、果たしてすべてが終わるのか、死と再生のプロセスを経てアマリと光一の新たな生活が始まるのか。
などとだいぶ飛躍したその後を考えてみるのも、楽しいかもしれません。
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