【小説】二宮敦人『殺人鬼狩り』(ネタバレ感想・心理学的考察)

小説 殺人鬼狩りの表紙
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作品の概要と感想(ネタバレなし)

タイトル:殺人鬼狩り
著者:二宮敦人
出版社:TOブックス
発売日:2022年4月1日

ある平和な孤島で、100人近くが虐殺された。
脱獄した大量殺人鬼5名に。
”人形解体屋”、”ごはん男”、”血のナイチンゲール”らの猟奇的な殺戮に誰もが絶句するなか、 警察は事件解決の切り札を放つ。
一見普通の女子大生、名前はユカ。その特技は──人殺し。
彼女は予測不能な凶悪集団の首を次々と切り裂いていく。
生存率0%の島で、慈悲無き少女は鬼を狩り尽くせるか──?


この設定だけで、面白くないわけがありません。
こういう振り切ってる作品、大好きです
『バトル・ロワイアル』のような、西尾維新などを彷彿とさせるいわゆるラノベ的な、中二病の香りが漂うような──。
もちろん突っ込みどころは満載なので、ラノベ的な作品をエンタテインメントとして割り切って楽しめない人には、絶対的に向いていません。
考察できる点がないわけではないですが、それほど深いわけでもないので、簡単に感想のみ

「壮絶サバイバルホラー」と公式が銘打ってはいるのでブログに持ってきましたが、実質は、ほぼまったくホラーではないと思います。
それなりにグロめのシーンがあったり、視点となる主人公は新米警察官なので、人間の常識を超えた殺人鬼たちに襲われる恐怖とは言えますが、怖いと感じたりホラーと捉える人はまずいないでしょう。
とはいえ確かにジャンルが何かと言われれば難しく、まず設定の面白さありきで、キャラクタ重視のバトルもの、それぞれの思惑や人間模様による気持ちの変化……あたりが主軸でしょうか。

というわけで、こういうのは大好きなんですけど、やはり専門家としては、声を大にせずにはいられません。

「殺人鬼」と書いて「サイコパス」と読むのだけは、どうか、どうかやめてください──

魂の叫びです。

さすがにこれを読んで「そっかぁ、やっぱりサイコパスってこんな人たちなんだぁ」と現実的に捉える方はいないでしょうが、あえてわざとなのかはわかりませんが、サイコパスに対する典型的かつ古典的な偏見も振り切っている作品になっています
サイコパスについては、櫛木理宇の小説『死刑にいたる病』の考察で少し詳しく触れているので、もし「具体的にどういうところが間違っていて、サイコパスじゃないんだろう?」と気になる方がいらっしゃいましたらご参照ください。

そこが常に気になりすぎて最後まで集中できなかったのですが、逆に、「サイコパス」の表記がすべて「殺人鬼」あるいは「アンドロイド」にでも置換されていたら、個人的には普通に楽しめた作品だったと思います。
文章もわかりやすく、イメージしやすい。

ストーリィはあってないに等しく、次々と立ちはだかる個性的な殺人鬼たちと対決し、殺し殺され突き進んでく、ゲームや漫画のバトルもののような展開です。
殺人鬼たちの設定は(それこそゲームや漫画的ですが)細かくて、順番に描かれていくバックグラウンドはオリジナリティが強く、丁寧に組み立てられている印象を受けました。
キャラクタものとしては、それぞれとても魅力的。
ただただ血に飢えた薄っぺらい殺人鬼ではなく、それぞれに人を殺す理由があり、それぞれに殺し方へのこだわりがある

そういったバックグラウンドからは、人間とは何だろう、と思考が広がる部分も。
「当たり前」や「常識」といった思い込み。
そのような枠組みを軽々と乗り越える存在を目にすると、普段、人間が思考停止している部分を突きつけられることになります。
殺人に抵抗がないという、人類にとって脅威を感じさせる存在なので極端になっている部分はありますが、結局はマイノリティを「異常」として排除しようとする構図は、現代社会の縮図とも言えます。

殺人鬼に対して、味方である殺人鬼をぶつける。
しかし、その味方である殺人鬼・園田ユカも、本当に味方なのかはわからず、裏切りを疑う者も少なくなく、監視すらついています。

鬼に対して、鬼をぶつける。
味方の鬼は、みんなから信用されているわけではない。
その構図は、漫画『鬼滅の刃』に通ずるものがあります(偶然どちらも2016年)。
『鬼滅の刃』の鬼たちにも悲しいバックグラウンドがある部分も、似ています。

境遇によって、理解者がいるかどうかによって、立ち位置が変わる。
人間同士も対立するし、人間と鬼も対立するし、鬼同士も対立する。
異なる部分があれば、尊重し合うか、対立するかしかないのです。

というわけで、少し話を広げてしまいましたが、極限設定でのエンタメ作品として、楽しめた一作でした


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考察:それぞれの殺人鬼の心理(ネタバレあり)

あまり深く考察するような作品でもないので、最初は感想だけで終わらせていたのですが、見返してみるとあまりにも薄っぺらいただの読書感想文だったので、考察部分を加筆しました。
現実味はない前提であっても、それぞれの殺人鬼の心理について、簡単に考察してみたいと思います。

「血のナイチンゲール」伊藤裕子

救うことが私の生きがい!
ありがとうって言われたい!

伊藤裕子は、実は一番(あるいは唯一)心理学的に考察しやすいキャラクタでした。

実母からも義父からもゴミのように扱われ虐待されて育った伊藤裕子は、カラスから弟を守ったことで初めて母親から認めてもらえたと感じ、人を救うことに価値を見出していきます
そして、救うために人を傷つける
救えようが救えなかろうが、自分を褒めて、認めて、感謝してくれる人がいれば良い。

その描写は極端ですが、現実にもあり得る心理です。
虐待されていたり自己肯定感が低い場合、誰かから認められることに生きがいを見出していく人は少なくありません。

精神医学に、「ミュンヒハウゼン症候群」という疾患があります。
細かくは端折りますが、自分が病気や怪我であると主張したり捏造するものです。
目的は関心や同情を集めるためで、「逮捕されたからおかしな言動をして精神病の振りをする」「保険金目的」といったような詐病とは区別されます。
ただただ「体調が悪い、何もないわけがない」と言って病院をはしごして検査を繰り返す人もいれば、実際に尿に血液を混ぜたり、自傷行為まで行う人もいます。
本気で「何か異常があるのでは」と心配になって、異常がなくても何回も何回も検査を依頼していたりしたらまた別の疾患になりますが、ミュンヒハウゼン症候群の患者は、心配されたり優しくされたいのです。
たとえば、フジテレビの医療ドラマ『コード・ブルー −ドクターヘリ緊急救命−』にもミュンヒハウゼン症候群と思われる患者が登場していました。

彼ら彼女らは、自分が病気であると主張することで関心を集めます。
そこまでいかなくとも、病気のときに優しくされて温かさを感じたことがある人は多いはずです。

他に、病気や怪我が絡んで関心や同情を集められるのはどういうときか。
それは、病人や怪我人を看護・介護しているときです。

自分が病気と主張するミュンヒハウゼン症候群に対して、他者の病気や怪我を主張・捏造し世話をすることで関心を集めるのは「代理によるミュンヒハウゼン症候群」と呼ばれます
ミュンヒハウゼン症候群よりも深刻なのは、自分ではなく他者を傷つける可能性があり、虐待の一類型となっていることも多いことです。
たとえば母親が子どもに対して、「家でいつも痙攣を起こすんです」など虚偽の症状を主張して病院巡りをするような形だけであればまだマシですが、実際に体調不良を誘発する薬(下剤など)を飲ませたり、わざと怪我をさせることもあります

また、加害者は非常に熱心に世話をして心配しているので、一見、そのような加害をしているようには見えません。
しかし実際は、甲斐甲斐しく他者を世話をしている自分に酔い、それによって同情を集めることに悦びを感じているのです。
代理によるミュンヒハウゼン症候群も、その患者と思われる母親が出てくるとても有名なホラー映画があり、その映画によって代理によるミュンヒハウゼン症候群もやや有名になりました(メインのストーリィとは関係ないですが、一応タイトル名は伏せておきます)。
その作品では、長期にわたって母親が熱心に実の娘の看病をしていましたが、実は、母親が洗剤を食事に混ぜて食べさせ続けていたことが明らかになりました。

伊藤裕子の病理も、代理によるミュンヒハウゼン症候群を極端化させたものとも考えられます。
ただ、代理によるミュンヒハウゼン症候群は、主に自分の子どもを対象とすることが多く、この点はやや伊藤裕子の病理とは異なります。

実はもっと伊藤裕子にしっくりと来るものがあり、それが「死の天使型」という女性の連続殺人犯の類型です。

女性の連続殺人というのは男性と比べてかなり少ないのですが、いないわけではありません。
「死の天使型」というのは、まさに、看護師に多く見られる連続殺人です。
彼女らは、勤務先の病院で、患者に症状を悪化させるような薬物を飲ませたり、注射したりして殺害します。
背景としては、医師に対する不平等感による自尊心の問題や、自分の意思決定とはあまり関係なく患者が治癒したり死亡したりすることによる学習性無力感などの影響が仮説として挙げられています。

「死の天使型」が発覚しづらい理由として、伊藤裕子のように、自分で症状を悪化させておきながら懸命に救命活動を行ったり、死亡した場合も誰よりも悲しんでいるように見えるというのが挙げられます。
看護師であった伊藤裕子は、まさにこの「死の天使型」の暴走形と言えるでしょう。

最初に出てきたからか、殺人鬼6人の中では一番リアリティがありました。

「ごはん男」高橋光太郎

さて、伊藤裕子で力を使い果たした感じがあり、このあとの殺人鬼たちはあまりリアルに考察できる部分がありませんが、進めていきます。

良かれと思ってみんなを助けてたのに!
人はランクこそすべて!

高橋光太郎は、そんな不満や鬱屈が原動力となっているルサンチンマンです。
遺族を苦しめるためにご飯詰め詰めするという発想の残虐具合は、個人的にはとても興味深い(もとの発想はいじめっ子の太田くんで、彼の方がだいぶやばそうですが)。

高橋光太郎がおかしくなり始めたのは、社会はみんな助け合いだと思って人助けをしていたけれど、ただただ都合良く「奴隷」として使われているだけであったことに気づいたときからです。
これまで自分の根底にあった価値観が崩れたとき、人は自分の存在事自体が揺らぐような強い恐怖を覚えます
そのようなときは、マインド・コントロールされやすかったり、宗教を嫌っていたのにカルト宗教の熱心な信者になってすべてを捧げるといったような、これまでとは真反対の方向に極端な勢いで突っ走り始めることも少なくありません。

平等が謳われながら、強者が弱者を搾取しているのが現実です。
そして弱者は、それを覆す余裕や手段を持っていないことがほとんど。
その意味では、境遇面では一番、社会の影を背負わされているキャラと言えるでしょう。
彼は彼なりに、這いあがろうと必死なだけでした。
それが、弱者をいたぶるという、自分が受けてきた方法しか見出せなかったところと、ランクが下の存在を排除しても結局自分の順位には変動ないところが、哀れさを誘います
1人でも優しくしてくれる人がいたら違ったかもしれないと思うと、かわいそうでもあります(だいたい全員過酷な生育歴が設定されているので、みんなに言えますが)。

「幼少期に病死している」ということしか情報は出てきていませんが、たびたび「母ちゃん」に助けを求める様子からは、小さい頃に母親に愛された記憶はあるのでしょう。
押し入れや布団といった「包み込む」機能を持つものは、心理学的には母性の象徴であり、精神分析的には子宮の象徴と解釈されることも多々あります。
霧島朔也から隠れるためというのもありましたが、押し入れの中で布団にくるまって怯えていた高橋光太郎。
順位やランクへの強いこだわりを見せていた彼は、裏を返せば、それだけランクや順位にとらわれないような、自分の存在そのものを認めて優しく包み込んでくれる母性的な愛情を求めていた幼児のような存在でした

「膣幼女」川口美晴

性の快楽と好奇心がすべて!
老若男女、全員一口ずつ食べてみたいの!

突如登場した、童貞を殺す女神のような異端キャラ。
性としての「女性」に特化したぶっ飛び究極ビッチキャラで、川口美晴あたりからあまり心理的考察も何もなくなっていきます。
「包み込む」という母性の正の側面が暴走した伊藤裕子に対して、「呑み込む」という負の側面を暴走させた対比的な位置づけ。

彼女もまた、性虐待や性犯罪の被害者ではあります。
その被害者が、自分の存在が認められる方法として性行為を誤学習したり、あるいは汚れた存在であると感じる自分への自傷行為として性行為に走るようなこともありますが、川口美晴はそんな様子でもなく、ただただ性的快楽に溺れていったところに好奇心がかけ合わさって暴走。
そのかわいさで、男性はみんなめろめろ。
川口美晴パートだけ、男性の独善的な性欲による理想の女性を具現化したような川口美晴という女性イメージと、そんな女性に男性はみな逆らえない愚かな存在だという男性イメージ、どちらも極端な性的イメージが根底に流れていた印象です。

伊藤裕子は、虐待という社会の闇の象徴化。
高橋光太郎は、いじめや弱者強者という社会構造の闇の象徴化。
川口美晴は、性犯罪や不倫など、性欲によって築き上げてきたものすべてを自ら崩してしまう男や女の愚かさという闇の象徴化と言えるでしょうか。

「真面目ハンド」山本克己

体臭を馬鹿にする奴は許さない!
殺してしまった友人のために、殺し続ける!

川口美晴パートまで、それなりに残虐だったり痛々しいシーンが続き、苦手だったり耐性がない人はそろそろお疲れ。
そんな頃合いを見計らってのコーヒーブレイク、殺人鬼界のギャグ担当・山本克己

それがすべてです、以上

……で終わるのもかわいそうなので、少し考えてみましたが、やっぱりギャグ担当でしかありませんでした
もともとの、ルールを徹底的に遵守する融通のきかなさそうな性格。
それに加えて、殺人に関する不合理な義務感、「しなければならない」といった感覚は、「何度も何度も手を洗うがやめられない」といったような強迫性障害や強迫性パーソナリティなどの強迫観念とも言えそうですが、基本的に不合理さを自覚しているのが通常なので、あまり該当しません。
そもそも、自分から嗅がせたわけではなく、たまたま体臭を嗅いでしまって馬鹿にしてきた友人を殺してしまったのに、わざわざ嗅がせて臭いと言わせて殺すというのは、論理的にも一番破綻してしまっていた気がします。

「人形解体屋」霧島朔也

あらゆる面で万能・完璧なラスボス!
欠点なしのチートキャラ!

サイコパスとルビを振る殺人鬼のラスボスたるべき存在は、やっぱり整った顔立ちで、過酷な過去によって歪んだわけでもない、気怠げに人を解体し続ける、高い知能を持ち合わせた純粋悪。
ダークを極めたスーパーマン、それこそが霧島朔也。

それがすべてです、以上

山本克己は、筋肉馬鹿の象徴化。
霧島朔也は、闇堕ち完璧イケメンの象徴化。

「真紅の妖精」園田ユカ

居場所のために、頑張ります!
純粋無垢な殺し屋さん!

さて、最後は狼ではなく牧羊犬となった殺人鬼・園田ユカ。
見た目通りの華奢な少女らしい弱々しさも兼ね備えた、視点ポジションでたぶん主人公である新米警察官・高宮晴樹ではなく、悪のラスボス・霧島朔也との対をなすカウンターヒロイン

あえてサイコパスという用語を使えば、その大きな課題点のひとつは、治療等の困難さにあります。
本質的な共感性の低さや冷淡さは変えられるものではなく、どう共存していくかというのはいまだに解決しない問題です。
サイコパスに関する誤った理解、「サイコパス神話」には「心を開いて接すれば、心を通わせることができる」というものがあります。
つまり、本当に殺人鬼全員サイコパスだったと仮定すると、ベテラン警察官・藤井の魂の叫びに対して「ごめん途中から聞いてなかった」という川口美晴の発言が一番サイコパス的であり、晴樹の姿に心打たれ気持ちに変化が生じた園田ユカは、それだけでとてもサイコパスらしくないと言えます

園田ユカの問題の根底は、共感性に乏しいというのもありますが、ルールが明示されていないとわからないなど、極端なまでの純粋さにあります。
それは、暗黙の了解を読み取るのが苦手といったような発達障害などの特性とも異なり、ただ純粋に世界を見つめているものである印象を受けました
なぜ人を殺してはいけないのか。
なぜ虫は殺して良いという人は多いが、犬だと駄目だという人が多いのか。

価値観の多くは、人間が社会を維持するために形成してきたものであり、それは文化の中では当然であり、わざわざ言うまでもない共通理解とみなされています。
多くの人が「当たり前」で思考停止していることに対して、子どものような曇りのない視点で世界を見つめ続けている
それが園田ユカであり、他のどの側面を切り取っても、まったくサイコパスとは相容れない特性です。

純粋な悪として描かれている霧島朔也に対して、人間の無限の可能性を感じさせる純粋さを兼ね備えた園田ユカ。
その意味で霧島朔也と対をなすカウンターポジションであり、殺人鬼を狩って人間の側に居続けたのでした。

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