「怖い」「恐怖」に含まれる多様性
感情を表現する単語はたくさんありますが、それでも人間が持つすべての感情を完全に表現しきることは不可能です。
また、「今感じてるのは恐怖」「今感じているのは嫌悪」といったようにはっきりと分類できるわけではなく、グラデーションだったり多様な感情が入り混じっていることがほとんどです。
これはそもそも感情に限らず、世界のあらゆる現象を「言葉」で表現することの限界でもありますが、それは壮大な話なので置いておくとして、「怖い」「恐怖」と表現されていても「それは本当に恐怖なのか?」と疑問に思うことも少なくありません。
たとえば、精神疾患の一つである恐怖症。
これは「特定の対象に対する強い恐怖が慢性的に持続し、患者の日常生活に支障をきたすものをさしている。患者は自分の感じている恐怖が病的なほど強く、和らげたいと考えているものの、思い通りにならないと訴えるのが特徴である」などと説明されます。
さらに噛み砕けば、本来恐怖を感じる必要のない対象に対して強い恐怖心を抱き、それを避けようとして、日常生活に支障が生じている状態です。
恐怖症の対象となるものは、学術用語になっているだけでも200を超えると言われており、実に多様です。
恐怖症についてはまた別で触れるとして、今回取り上げたいのは、「恐怖症」と言いながら、感じられている主な感覚は恐怖ではないことも多いという点です。
たとえば、高所恐怖症や閉所恐怖症は、まさに恐怖の感情が強く喚起されていると言えるでしょう。
「1、恐怖の定義」では、恐怖を「脅威となる対象に対して生じる、死の危険性を回避するための反応である」と定義しましたが、それとも一致しています。
落ちて死ぬ恐怖、窒息して死ぬ恐怖です。
しかし、たとえば集合体恐怖症や対人恐怖症などは、感じられている主な感情は恐怖か?と問われると微妙でしょう。
少なくとも、直接的な死の危険性が差し迫って感じられて恐れているわけではありません。
集合体恐怖症はぞわぞわするような気持ち悪さや嫌悪感、対人恐怖症は「嫌われたらどうしよう」「変に思われたらどうしよう」といった不安感が強いのではないでしょうか。
ホラー映画やホラー小説でも、活用される感情は恐怖に限りません。
今回は、恐怖に近かったり関連性の強い感情について整理してみたいと思います。
「恐怖」に近い感情:驚き、嫌悪、不安
①驚き
驚きあるいは驚愕反応は、「予期しない刺激に対して起こる不随意的な身体的反応。背後で起こった突然の大きな音によって身体がこわばるなどの反応をさす」(『心理学辞典』(有斐閣))と定義されます。
驚きには2段階あると考えられますが、第1段階が上述した驚愕反応、つまり反射的な身体反応です。
これは反射的、生理的な反応なので、自分でコントロールすることは困難です。
わかっていても、大きな音が轟くとビクッと反応してしまった体験は誰しもあるのではないかと思います。
第2段階は、認知的な驚きです。
これは主に知性によるものなので、上述した反射的な反応は他の動物でも見られますが、認知的な驚きはある程度の知能が要求されます。
たとえば、知人の突然の訃報に驚いたり、推理小説で明かされた犯人に驚くなどが該当します。
しかしこれも根本的には同じで、「予想していなかったこと」が驚きのベースになります。
「意外性」の強さとも言えるでしょう。
恐怖に近いのは前者、第1段階の驚きです。
そもそも、大きな音や突発的な刺激に驚くのは、危機に対処するために身についた機能であり、つまりは危険を回避するためです。
驚きの原因がすべて恐怖の対象であるとは限りませんが、恐怖の対象が驚きの原因であることはあり得ます。
また、身体的にも恐怖と似た状態になります。
いわゆるストレスを感じた状態になるので、心拍数が上がり、手などに汗をかき、身体は強張り呼吸は浅く速くなります。
これはストレス、つまりは危険に対処できるように身体を活性化させた状態です。
「吊り橋効果」というのを聞いたことがある人も多いのではないかと思います。
これは「不安定な吊り橋を渡ったときのドキドキ」を「彼女に対する恋心だ」と間違って認識するために起こる、と説明されています。
もう少し細かくは『元カレとツイラクだけは絶対に避けたい件』の感想に書いているので気になる方はご参照ください。
いずれにせよ、生理的な反応を手掛かりに自分の感情を解釈する際に、誤って帰属させてしまうことがあるということです。
なので、たとえ驚きの原因が恐怖の対象以外であっても、瞬間的に恐怖と似た感情を抱いてしまう可能性を示唆します。
これを活用しているのが、ホラー映画のおなじみジャンプスケアです。
大きな音や恐ろしい映像(だいたいは両方がセット)を突然出して、びっくりさせます。
上述した通り、突然大きな音を出されてビクッと反応しない人はほぼいません(まったく動じない場合、むしろ脳機能が心配)。
つまりは、必ず恐怖に近い状態を作り出せる、お手軽な手法とも言えます。
ただ、お手軽であるがゆえに、多用しすぎたり恐怖演出がジャンプスケア頼みになってしまうと、批判されがちな傾向にあります。
認知的な驚きは、意外性が肝となります。
驚いている状態というのは長続きはせず、その原因によって別の感情へと変化していきます。
誰かが急死した知らせを聞けば驚いてから徐々に悲しみに繋がるでしょうし、意外な犯人が明かされれば、驚きと同時に感心や悔しさ、あるいは時には怒りなどが湧いてきます。
意外性が大きいほど驚きの度合いも大きくなり、「今夜が山場です」と言われていた人が亡くなっても驚きはほとんどないでしょうが、「余命1年」と言われた翌日に亡くなれば驚きもあるでしょうし、若く元気な人が突然死すればより大きな驚きを感じるはずです。
ホラー作品で考えると、ジャンプスケアはホラー映画やホラーゲームといった音や視覚情報を使える媒体ならではの手法です。
認知的な驚きは、恐怖に繋がることは少なく、主にホラーよりもミステリィなどと相性が良いものであると言えるでしょう。
ただ、意外な犯人のおぞましさにゾッとする、といった恐怖感はあり得ます。
ヒトコワ系ホラーの場合、この点が活用されていることも少なくありません。
恐怖も驚きも、日常や予測からのズレという点で共通しています。
②嫌悪
嫌悪は「感情の最も基本的な次元の一つとして“快ー不快”が考えられるが、そのうちの不快感を引き起こす対象を避けようとする行動に伴うと考えられる心理状態」(『心理学辞典』(有斐閣))と定義されます。
つまり、不快だ、気持ち悪い、見たくない、といった気持ちを喚起させるものです。
嫌悪も、遺伝的要因によって生得的に備わっているものも少なくありません。
たとえば味覚的な嫌悪に関しては、病気の原因や伝染病の感染源となる対象への嫌悪感が生じるとされており、これも恐怖とほぼ同じで、死の危険性を回避あるいは軽減するために遺伝的に備わっていると言えます。
また、『感情心理学・入門』(有斐閣)によれば、「人間の場合、嫌悪対象は味覚に留まらず、一般的に人は、性や死体、他者の崩れた容貌などに対し、それ自体が直接有害でなくとも、目にすると嫌悪を感じる」とされます。
これは「人間にも動物的な側面や死があるという不快な事実を想起させてしまうため」と説明されています。
他にも「嫌悪対象はさらに、文化によって社会的に拡張され対人的な嫌悪感となる」とも述べられています。
これは「よそ者や社会的に望ましくない人物に対して直接間接に接触することへの嫌悪である」とされ、例としては、知らない人が着た服を着るのに抵抗が生じることなどが挙げられています。
これについても、上述した感染症などの予防の他に、「親しくない他者との接触を回避させ、その結果、社会階層を維持する機能をもつ」と推定されています。
これがある程度生得的に備わっていると考えると、やはり差別や対立をなくすのは難しいことなのだろうと感じます。
まとめると、命や安全が脅かされる対象に感じるのが嫌悪感であり、これはやはり恐怖に似ています。
恐怖の対象ほど明確に対処しないといけないわけではありませんが、避けておいた方が無難、というものに対して抱きやすいのだろうと考えられます。
嫌悪感を抱いているときは、心拍数が上がったり震えたりはしませんが、「見たくない、気持ち悪い、不快だ」という落ち着かない気持ちにさせます。
命や安全を脅かす対象に対して「目を逸らす」というのは逆に危険なようにも思えますが、何かしら対処をしないといけない恐怖に対して、嫌悪の対象に対しては接触や接近することで危険が生じ得るため、「近づかない、離れる」が基本的な対処になるのでしょう。
恐怖と似ているということで、これもホラーと相性が良い感情です。
嫌悪絡みでホラーに用いられることが多いのは、クリーチャーやゾンビでしょう。
いわゆる「グロテスク」な存在はホラーに多く見られますが、それは恐怖というより嫌悪を喚起させる対象です。
クリーチャーはぬめぬめしていたり、異様な形態をしていたりと、生理的な嫌悪感を抱かせやすいデザインが多く見られます。
特にゾンビは、直接的に人間の死を喚起させてくる存在であり、かつ理性を失い食欲だけにコントロールされているような点が人間性を蹂躙しているかのようで、強い嫌悪感を抱きやすい対象です。
人間が人間を食べるという行為は、嫌悪の中でも最上級のタブーの一つと言えるでしょう。
無差別に襲ってきて命を脅かしてくる存在、しかも食物連鎖の頂点たる人間が捕食されて死ぬという恐怖。
そして、自分も人間性を失ったゾンビになる可能性が「2、恐怖と死の関係:死の何が怖いのか?」で述べた「自分という存在が失われることに対する恐怖・不安」に繋がります。
腐敗した死体である見た目もまた、まさに上述した「死」を連想させ、嫌悪感を抱かせます。
実に多様な側面から人間に恐怖や不安、嫌悪感を喚起させる存在と言え、つまりはホラーと相性が良く、だからこそこれだけゾンビ映画が人気を博し、量産されているのでしょう。
③不安
「1、「恐怖」の定義」でも少し触れましたが、恐怖と不安はほとんど同じようなニュアンスで使われることもあり、明確な境界線は引きづらいものです。
人前や人混みを極度に恐れる精神疾患を社会不安障害と言いますが、それを社会恐怖と言うこともあることからも、その重なりや混同が窺えます。
「恐怖心理学研究室」においても基本的には細かく区別して使い分けるのではなく、まとめて扱っていきますが、ここで一度は整理しておきたいと思います。
『心理学辞典』(有斐閣)においても、「不安(anxiety)」の項目で以下のように書かれています。
自己存在を脅かす可能性のある破局や危険を漠然と予想することに伴う不快な気分のこと。
『心理学辞典』(有斐閣)
漠然とした不安が何かに焦点化され対象が明確になったものを恐怖(fear)というが、行動理論では、両者を明確に区別することはしない。
行動理論というのは、雑に言えば「目に見えない心ではなく、行動を研究対象にする」という行動主義に基づく理論です。
つまりは、人間の反応としては、恐怖も不安もだいたい同じものであると見ているのでしょう。
『心理学辞典』では、続けて以下のように書かれています。
一般的には、恐怖が特定の脅威事態に直面した時に生じる刺激誘発型の情動であるのに対し、不安は予感・予期・懸念といった個人の認知機能に大きく依存した認知媒介型の情動であるといえる。
『心理学辞典』(有斐閣)
また、不安は信号や手がかりを通じて未来の危険を現在に手繰り寄せることによって発生することから、時間的展望のなかにおいて生じる現象であり、本質的に未来志向的な情動であるといえる。
つまり、恐怖は何かしらの対象に直面したときに生じますが、不安は将来について考える中で浮かんでくるものであると言えます。
これは、一般的に言われる「恐怖は対象が明確」「不安は対象が曖昧」というのと一致しています。
少し言い換えると、恐怖の対象は明らかに今直面している、あるいは確実に将来直面する(と思い込んでいる)ときに生じます。
一方の不安は、将来あり得ることを考えたときに生じてきます。
ただ、特に将来のことに関して言えば、切り分けは難しいものがあります。
「将来がんになって苦しみながら死ぬのが怖い」という具体的なイメージが頭から離れなければ恐怖と言えますし、「将来、自分の人生はどうなるんだろう」と漠然としたイメージであれば不安と言えます。
では、「自分もいずれ死ぬんだと思うと恐ろしい」というのはどうでしょう?
具体性が強く他のことが手につかないほどであれば恐怖に近いかもしれませんし、ふとしたときに何となく考える程度であれば不安かもしれません。
「どれだけ具体性があれば恐怖」など線引きできるものではなく、延長線上にあることがわかります。
「2、恐怖と死の関係:死の何が怖いのか?」では、死に対する恐怖の要因として、人間の想像力を挙げました。
不安こそまさに、その想像力の副作用と言える概念です。
『心理学辞典』の記述における「個人の認知機能に大きく依存した」というのは、個人差が大きいということですが、これも主に想像力に起因するでしょう。
心配性で将来の様々な可能性を考える人は不安も強いですし、楽観的であまりあれこれ先のことを考えない人は不安をそれほど感じません。
恐怖の方が差し迫った危険性がありますが、対象が曖昧であるという点において、不安はある意味恐怖よりもタチの悪い存在です。
つまり、ある程度平和が保たれている現代の日本社会において、健康に日常生活を送っている状態であれば、日々命が脅かされる脅威に直面することはまずありません。
今日食べるものを探したり生きるのに必死であれば、将来のありもしないことを不安がる余裕もありませんが、今日生き延びることを心配する必要のない現代の日常においては、恐怖よりも不安に割かれる時間の方が圧倒的に多いでしょう。
また、対象が明確になれば、対処法もある程度絞られます。
戦うか、逃げるか、あるいは諦めるか。
しかし、対象が曖昧な不安は、どうすればいいのかわからないことも、そもそもどうしようもないことも少なくありません。
ホラー作品でも、実は恐怖より不安の方が効果的とすら思えます。
よくわからないけれど不可解な現象が起こっている序盤の方が、はっきりと霊や殺人鬼が出てきてくる後半よりも怖く感じる作品も少なくありません。
不安な状態は、対象が定まっていないので、観ている側の想像力も膨らみます。
対象がはっきりすると、その恐ろしい見た目や殺されることに対する恐怖感はあるかもしれませんが、無限の想像力に比べると上限ができてしまいます。
ホラー小説は、この想像力による無限の可能性を秘めており、ビジュアル的なイメージが固定化される映画よりも怖い作品になり得ます。
以前、X(当時はまだTwitterだったかも)で、「小説は映画に比べてホラーとの相性が悪い」といったような投稿があり物議を醸していましたが、それは自分の想像力の乏しさを露呈しているだけと言えます。
映画は五感に直接訴えかけてくるので多くの人に伝わりやすいですが、本は映画よりも受け手(読者)の想像力が問われるため、怖いと感じる度合いのばらつきは大きくなります。
ただ文字を追うだけであれば、当然ながら怖さはそこまで感じないでしょう。
という話は不安よりも想像力がメインの話になってしまうのでまた別の機会に触れるとして、実は日常やホラー作品で厄介なのは、恐怖よりも不安ではないかと感じます。
また、安直な手法と言われながらもジャンプスケアが活用され続けているのは、その瞬間に驚かせること以上に、不安を活用する目的があると考えられます。
「穏やかなシーンで突然物音がして飛び跳ねたら猫だった」といったような演出も非常に多いですが、ジャンプスケアを使うと、観ている側に「また驚かされるのではないか」という緊張感が生まれます。
特に、平和なシーンで突然ジャンプスケアを使うことで、気の休まる時間がなくなる効果が。
これも、不安や緊張した状態が、恐怖を感じているときと似ていることを活用していると言えるでしょう。
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