作品の概要と感想(ネタバレあり)
クリスマスイブの真夜中、出産を目前にした妊婦サラの家に黒い服を着た不審な女が訪れる。
女が家に押し入ろうとしたためサラが警察を呼ぶと、女は姿を消す。
ひと安心して床に就くサラだったが、なんと女はすでに家の中に侵入しており、大きなハサミを手に恐ろしい形相でサラに襲い掛かる。
女の目的もわからず、衝撃と恐怖に包まれるサラだったが、そこで陣痛が起きてしまい──。
2007年製作、フランスの作品。
原題は『A l’interieur』で、英語の「inside」、日本語の「内側、内部」の意。
ジュリアン・モーリー&アレクサンドル・バスティロ監督の作品は『レザーフェイス 悪魔のいけにえ』と『ザ・ディープ・ハウス』を先に観ていましたが、満を持してついに『屋敷女』も鑑賞。
ノーカット完全版で観ました。
悪名高い(?)「4大フレンチホラー(あるいはフレンチホラー四天王)」の一角を占める本作。
『ハイテンション』『マーターズ』はすでに観たことがあるので、残すは『フロンティア』のみとなりました。
現時点での個人的な印象としては、
- 胸糞映画の話題になると必ず名前が挙がる通り、容赦のない残忍さを見せる『マーターズ』
- 意外性ある展開でストーリーの完成度も絶望感も高い『ハイテンション』
- タブーに踏み込み人間の狂気とグロゴア表現に特化した『屋敷女』
といった印象です。
どれも好きですが、個人的にはパスカル・ロジェ監督が好きなのと、救いのなさがたまらない『マーターズ』が一歩リード。
とはいえ、グロゴア大好きなので本作ももちろんかなり好きでした。
こういう悪趣味な作品は好きだと大声で叫びづらいですが、
大好きです!!!!!
本作の内容に話を移すと、クリスマス・イブの夜に繰り広げられる惨劇。
とはいえ、ほとんどイルミネーションも映らなければクリスマスソングも流れないので、クリスマスっぽさはほぼ皆無。
主人公のサラが窓から外を見たシーンで隣の家にイルミネーションがあったり、警察官が「メリークリスマス」と言った程度で、そんな日に、出産を間近に控えながらも一人で家で過ごすサラの孤独と悲しみが際立っていました。
その後は、突然押しかけてきた謎の女に訳もわからないまま襲われ続ける展開に。
理由がわからないというのが、やはり一番怖いものですね。
主な登場人物は女性2人のみ、舞台は家のみ、というシンプルな舞台設定も良い。
洗面所?に閉じこもっているシーンが思ったより長かったですが、穴を開けて覗き込んでくるところなど、ちょっと『シャイニング』を感じました。
ちなみに、家の中での展開はもちろん、冒頭のシーンも良いですが、個人的に「すごいな」と思ったのが病院のシーンでした。
病院のシーンというか、突然話しかけてきた年配の看護師。
看護師のくせに禁煙の場所かつ妊婦の前でタバコを吸い、自分語りをしながら「死産だったの」と不吉なことを言う。
キャラが強烈すぎてさすがフレンチホラーな感もありますが、あまりに強烈だったので、謎の女性がサラの家を訪れてきた際、タバコを吸って初めて顔がうっすら映ったシーンでは、タバコを吸っていたこともあって「あのナースなのか!?」と思ってしまいました。
全然違って、ただのキャラが強烈な看護師なだけでした。
グロゴア描写は、もはや改まって触れるまでもないでしょうか。
溢れ出る血は若干オレンジがかっていたように思いますが、血痕はリアルで、「痛たたたた」な殺され方のオンパレード。
次々訪れてくる役立たずの死に要員たちは、まったく期待を裏切ることなく順番に殺されていきました。
その先陣を切ったのがサラママでしたが、まさかのサラが殺してしまうという悪趣味展開。
警察官の役立たず具合は言うまでもないですが、連行されていた少年は巻き込まれ感100%でかわいそうでした。
若い警察官は、少年をわざわざ拘束して連れて行く冷静さがあったなら、応援を呼んでから突入するべきでしたね。
謎の女性を演じたベアトリス・ダルの怪演も、もはや言うまでもありません。
閉められてしまった洗面所のドアをぺちぺち叩いたり、反動で頭を打ったりサラの反撃に遭って痛がる姿などは、人間味が溢れていました。
この「普通っぽさ」もしっかりと兼ね備えていたのが、謎の女性の恐ろしさに拍車をかけていたと感じます。
決してモンスターではなく、普通の人間であるからこそ、狂気性が輝いていました。
一方で、普通っぽいリアクションや会話の直後にタバコを吸って奇声を発したりと、観る者も不安定にさせる狂気が抜群。
焼かれたあとのビジュアルも、「生きとるんかい」ではありましたがインパクトがありました。
冒頭の事故シーンでは自損事故ではなく車同士が衝突していたのが気になっていたのと、「赤ん坊は私が面倒をみる」という台詞で、謎の女性の正体はわかりました。
遅くともこのタイミングあたりでは気づいた人も多いのではないかと思いますが、女性の正体は本作の展開に説得力を持たせる程度の意味しかなく、明かされたところで本作の絶望感はまったく揺らぎません。
そもそも妊婦をターゲットとする時点でなかなかにタブーですが、サラのお腹を裂くという衝撃のラストや、途中でほとんど意味もなく猫を殺したりと、タブーを恐れぬ残忍さがフレンチホラーの特徴でしょうか。
それも「タブーを犯してやったぜ!」というドヤ顔感がなく、ひたすら鬱々と描かれる点も、個人的に好きな要因かもしれません。
原題は「内部(の)」という意味であることは冒頭で書きましたが、本作における意味合いとしては「母親の中にいる赤ちゃん」「人間の中にある狂気」「家の中で展開される惨劇」と様々に重ねられているのではないかと思います。
邦題の『屋敷女』は、1993年に連載されていた望月峯太郎の漫画『座敷女』に由来しているようです。
「主人公の部屋に、突然夜中に見知らぬ女性が押しかけてきて、電話を貸してくれと頼まれて家にあげたら、その女性につきまとわれるようになった」というあらすじで、確かに『屋敷女』と似た設定です。
さらには、2008年に修正版で日本公開(ノーカット版は2021年に公開)された当時のポスターに書かれている「この女、凶暴につき。」は、1989年の北野武初監督映画『その男、凶暴につき』が元ネタ。
日本でのプロモーションは色々と他作品に頼っていますね。
ノーカット完全版のポスターは「あの女が帰ってくる」となっていることからは、無事に反響を呼んだことが窺えます。
考察:サラと謎の女性の関係と、ラストシーンの解釈(ネタバレあり)
サラと謎の女性の関係
2人は、冒頭の事故で衝突した車にそれぞれ乗っていました。
そして2人とも妊娠しており、女性は(おそらく)事故で流産。
サラは子どもと自分の命は助かりましたが、夫を亡くしてしまいました。
事故については、女性いわくサラに責任があるような言い方でしたが、恨みに支配されている状況での発言なので、その真偽は事故のシーンからも定かではありません。
このあたり、無駄に説明しないのも巧みです。
女性はそもそも事故前のシーンから「やっと授かった、誰にも渡さない、誰にも触れさせない」と独白しており、そこにはやや執着的なものが感じられます。
女性の年齢はわかりませんが、あえて演じたベアトリス・ダルの年齢を当てはめれば当時42歳ぐらい。
サラを演じたアリソン・パラディは当時25歳ぐらいだったので、親子に間違えられたのは若干かわいそうな気もします。
いずれにしても、すでに子どもがいる上での何人目かの妊娠ではなく、ようやく授かった待望の子どもであったことが示唆されます。
もしかすると、それこそ死産したことすらあったのかもしれません。
年齢や背景に差はありますが、どちらも妊娠していた女性であった点は同じです。
それが事故により、一方では子どもは助かり、一方では流産してしまいました。
事故を分岐点として、真逆の結果となってしまった2人。
それは表と裏でもあり、どちらも2人ともがあり得た人生です。
これまでにも何度か触れていますが、精神科医で心理学者のユングは「その人の生きられなかった人生」を「影(シャドウ)」と表現しました。
たとえば、音楽活動を選んで大学進学を諦めれば、「もし大学に進学していたら」という人生は影となります。
逆に、音楽を諦めて大学進学していれば、「もし音楽を諦めていなかったら」という人生が影となります。
どちらが良い悪いではなく、影はネガティブなニュアンスを持つとは限りません。
ただ、まさに影のように、その人の人生にずっとつきまといます。
うまくいっていれば問題ないでしょうが、後悔するときには「あのときああしていれば」といった思いが押し寄せてきて、影に飲み込まれそうになるかもしれません。
サラと女性は、お互いが影のような存在でもありました。
それ以前は、2人はもともと同じ存在だったのです。
もちろん同一人物だったという話ではなくて、子どもの出産を待ち侘びる2人でした。
女性に名前がなかったのも、単純にストーリー上必要なかったからというだけではなく、そのような意味合いがあったのではないかと考えられます。
名前のある「別のキャラクター」ではなく、あり得たかもしれないサラの姿。
名前は個人を定義するものであり、名前がないというのは抽象的な存在となります。
エンドロールでも「The Woman」としか書かれていませんでした。
それを象徴していたのが、ゾンビ警察官に2人で共闘した謎の胸熱シーンでした。
女性の母性の暴走が本作の惨劇を招きましたが、2人の母性に共通の敵が現れたとき、2人は共に母として戦います。
ゾンビ警察官に、あえて妊婦のお腹を殴るという最大のタブーな行動をさせたのも、その点を際立たせるためでしょう。
また、追い詰められたサラがお手製火炎放射器で女性を撃退したあと、お手製槍を作って女性を探すシーンは、まさに構図が反転していました。
子どもを守るため、狂気を孕んだ鬼の形相で女性を追い詰めるサラ。
隅っこに隠れて座り込み、焼け爛れた顔で「また殺すの?」と弱々しく問う女性。
サラと女性が表裏一体であることを象徴するシーンでした。
母性という意味では、サラの母親がまったく機能していなかったのも印象的です。
あの状況で母親の付き添いを断るというのは余程でしょう。
さらには、一切活躍することもなくサラに殺されてしまいました。
ちなみに、唐突すぎて誰もが戸惑うであろうゾンビ警察官ですが、あれは妊婦のお腹を殴っていたことからも、負の父性の象徴……とかではなくて、どうやらざっと調べた限りでは「監督がゾンビを出したかったから」だそうです。
何ということでしょう。
リアルさによって観客の精神を苛んでくるこの作品において、こんなリアリティや世界観を完全無視した存在を趣味でぶち込んでくるとは、とても狂っておられて最高ですね。
ラストシーンの解釈:赤ちゃんは無事生まれたのか?
女性が産気づいたサラのお腹を裂き、赤ちゃんを取り出すという衝撃シーンで迎えたラスト。
サラはそのまま息絶え、女性は赤ちゃんを満足げに抱き締めながら終わりました。
赤ちゃんが無事に生まれたこのエンディングを、ハッピーエンドと取るかバッドエンドと取るか。
それは観る人次第でしょう。
ですが、こんな悪意に満ち満ちた作品が、そのような余韻を残すでしょうか。
改めて観てみると、赤ちゃんの泣き声が聞こえるのは、サラの死体が映し出され、カメラが裂かれたお腹からサラの顔に移動したあたりです。
このとき、すでにサラが息絶えているのか、まだ辛うじて生きているのかは定かではありません。
しかし、明確に赤ちゃんの泣き声が聞こえたのはこのシーンのみでした。
その後、女性が赤ちゃんを抱きかかえるシーンでも若干むずかる声が聞こえなくもないような気もするのですが、BGMの一部のようでもあり、いずれにせよ不穏な音楽にかき消されて終わります。
また、女性が抱えた赤ちゃんは、まったく動いていません。
もちろん、さすがに本作のあのシーンに本物の赤ちゃんを使うわけにはいかなかったから、など考えられなくもありませんが、わざわざCGで体内の赤ちゃんを描くほどですし、もう少しどうにでもできたはずです。
これらを総合すると、赤ちゃんもまた死んでしまっていたのではないか、と考えています。
赤ちゃんの泣き声は、死にゆくサラの願望による幻聴。
死んだ赤ちゃんを抱きかかえ、口付けをする女性。
そう考えると、赤ちゃんを巡るこの惨劇は結局何の意味もなかったことになり、陰鬱さが際立ちます。
個人的にはそんなラストの方が、この作品には合っているのではないかと感じました。
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