作品の概要と感想(ネタバレあり)
殺人鬼ブギーマンことマイケル・マイヤーズが再びハドンフィールドを恐怖に陥れた事件から4年が経ち、街は少しずつ平穏な日常を取り戻しつつあった。
マイケルの凶刃から生き延びたローリー・ストロードは孫娘のアリソンと暮らしながら回顧録を執筆し、40年以上にわたりマイケルに囚われ続けた人生を解放しようとしていた。
しかし、暗い過去をもつ青年コーリーが、4年間、忽然と姿を消していたマイケルと遭遇したことをきっかけに、新たな恐怖が連鎖し始める。
ついにローリーは、長年の因縁に決着をつけるべく、マイケルと最後の対峙を決意する──。
2022年、アメリカの作品。
原題は『Halloween Ends』。
邦題も「ENDS」の方が前作「KILLS」との統一感もあって良い気がしますが、なぜ微妙に変わったのでしょう。
本記事には、過去作『ハロウィン(1978)』『ハロウィン(2018)』『ハロウィン KILLS』のネタバレも含まれるのでご注意ください。
それぞれについては、以下の記事をご参照ください。
44年の時を経て、『ハロウィン』サーガもついに完結。
などと感慨深く言ってみましたが、リブート版から入門した上、まだ初代とリブート3部作しか観ていないので、まだまだ楽しめます。
とはいえ、『ハロウィン』を冠する作品は本作が13作目らしいですが、初代からの正統な続編はリブート版の3部作なので、一応メインコースは追えたことになります。
オフィシャルに完結編と銘打った本作。
えっ、これでいいの……?と思ってしまったのが、正直な気持ちです。
前作で無敵かつ不死身の無双っぷりを見せつけたマイケル・マイヤーズの勇姿は、本作ではまったくと言っていいほど見られません。
4年という月日は長かったようで、一気にヨボヨボのおじいちゃんと化したマイケルは、下水道でこそこそと暮らしていました。
切ない。
数は少ないながら、殺し方の多様性は良かったです。
『ハロウィン(2018)』でも見られましたが、『ハロウィン(1978)』リスペクトでナイフで壁に磔状態にするのが見られたのもしみじみ。
そんなマイケル、さらにはローリーまで差し置いて、上映時間の大部分を占めていたのが新登場の青年コーリー。
誰の中にも邪悪は芽生え得る、といったようなコンセプト的にはわからなくもないのですが、マイケルファンが多いであろう『ハロウィン』シリーズの最終作としてこれで良かったのか、心配。
ただ、もともと3部作構成だったので、序破急ならぬ、それぞれ違うものを描こうとしていたのは伝わってきました。
一番初代に近く、スラッシャーとしてのマイケルとローリーの対決を楽しめる1作目。
ハドンフィールドとマイケルの因縁を描き、悪とは何か?を問いかける2作目。
そして、長きにわたるマイケルとローリーの物語の終焉を描いたヒューマンドラマな3作目。
「こんなヨボヨボマイケル見たくなかった」「マイケル無双見たかった」のも確かですが、あえてスラッシャー路線を外し、ストーリー性を重視して『ハロウィン』サーガを終わらせたのは、英断でもあったのではないかと感じます。
似たようなスラッシャー路線だったとしたら、それはそれで「3部作でなくても良かったのでは?」となっていたと思うので、難しい決断。
最後に泥臭くボコボコに殴り合いながら戦ったローリーとマイケル。
『ハロウィン KILLS』の時点で死んでいなかったのに、ローリー何でそんなにのんびり過ごしてたの?
『ハロウィン(2018)』の警戒心と気迫はどこに行っちゃったの?
とも感じましたが、老いた2人がお互いの存在を直接感じ合うバトルは、ラストには相応しい熱さと虚しさを湛えていました。
マイケルの身体が粉砕され、復活の余韻を残すことなく終わっていったのも印象的でした。
最後にローリーとホーキンス保安官が並んで座るシーンなんか、もはや別映画。
おそらく、製作総指揮としても携わっていたジェイミー・リー・カーティスを『ハロウィン』の呪縛から解き放つといった意味合いも、本作には含まれていたのかな、と感じました。
緒方恵美にとっての『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のように。
とはいえ、期待していたものとのギャップを感じてしまったのも事実。
少なくとも、もっとマイケルを見たかったな、とは思ってしまいました。
コーリーはさほど魅力的に感じられませんでしたし、アリソンとの関係性もけっこうツッコミどころが多かったですし……。
3部作どれも毛色が違い、しっかりと物語を終わらせたのは良かったですが、どうも右肩下がりだった印象は否めず。
デヴィッド・ゴードン・グリーン監督は『エクソシスト』の続編3部作も担当(少なくとも1作目『エクソシスト 信じる者』は確実)するようですが、果たしてどうなるのでしょう。
考察:古典的スラッシャーの終焉(ネタバレあり)
感想ではちょっといまいちみたいな感じに書きましたが、それはマイケルによるヒャッハースラッシャー映画を期待しており、それとは違う路線での3部作だったためでした。
メタ的な視点も含めて見ると、けっこう深みもある3作目だったように思うので、考えたことをつらつらと。
コーリーは何だったのか
ポッと出で最終作の大部分をかっさらっていったコーリー。
果たして彼は何のために最終作に登場したのでしょうか。
わかりやすい点でいえば、「悪は誰にでも宿り得る」ということでしょう。
前作では、マイケルとはまた違った恐ろしさを、暴徒と化したハドンフィールドの住民たちが見せてくれました。
マイケル・マイヤーズという1人の殺人鬼の恐ろしさを改めて描いた『ハロウィン(2018)』、群衆の恐ろしさを描いた『ハロウィン KILLS』、そしてまた個人の恐ろしさに戻ってきたのが本作『ハロウィン THE END』でした。
ただ、コーリーの恐ろしさは、やはりマイケルのものとは本質的に異なります。
幼少期に姉を殺害し、目的も不明確なままローリーを追いかけ、ハロウィンの夜に殺戮を繰り返すマイケル。
「純粋な邪悪」と称された彼に、殺人の動機などは必要ありません。
しかしコーリーは、元は善人なようでした。
少なくとも、それなりに普通に社会に適応していたのは間違いありません。
子ども相手にブチ切れていた点は気になりますが、事故、そしてそれによる町の人々からの迫害によって、彼は孤立し、暴走していきます。
その意味では、また前作とは違った群衆の恐ろしさも描かれていました。
コーリーとマイケルの関係性もいまいちわかりませんが、コーリーはマイケルに見つめられ、闇の部分を増幅されたのは間違いないでしょう。
ただそれはおそらく、もともとコーリー自身が持っていた闇です。
彼は自ら、マイケルのマスクを奪い、ブギーマンを引き継ごうとすらします。
しかし、本質的に邪悪さの質が異なる彼は、ブギーマンにはなれませんでした。
銃を2発撃たれて2階から落下してなお動けたのは超人的すぎますが、結局は追い詰められて暴走して凶行に走っただけの人間として死んでいってしまいました。
マイケルの後継者が生まれ、作品は終焉しても邪悪さと物語は引き継がれていくのか……?と観客に思わせておきながら、あっさりと。
それもそのはずで、「誰もがマイケルになり得る」というメッセージと見せかけて、「そんなのは無理」というのが、本作で描かれていたのではないかと思います。
感想のところでは「誰の中にも邪悪は芽生え得る」と書きましたが、邪悪さが芽生えたとしても、「純粋な邪悪」であるマイケルにはならないしなれないのです。
コーリーは不幸でかわいそうな面も多々ありましたが、そんな不幸は世の中にありふれています。
彼らがみんなマイケルになっていたら、世界はマイケルだらけになってしまうでしょう。
なので、コーリーはあくまでもマイケルに憧れた、というのは言い過ぎかもしれませんが、孤立や絶望から誰もが心に抱える闇の部分が目覚めてしまっただけで、マイケルには到底及ばない存在でした。
最終作で改めて、純粋な邪悪としてのマイケルの唯一無二な異質さを際立たせたのがコーリーだったのではないかと思います。
ブギーマンとしてのマイケル・マイヤーズ:古典的スラッシャーの終焉
一方で、同じく人間でありながら超越的な存在であるマイケルは、本作では「人間らしさ」が目立っていました。
「いやもう人間じゃないやん」という不死身っぷりを見せつけた前作とは打って変わって老化した姿は、哀愁すら漂います。
なぜ、最終作で彼はこんなに老いて弱ってしまったのでしょうか。
それは、古典的スラッシャー映画そのものの風化や一つの時代の終焉を描いているようにも感じました。
マイケルは、ブギーマンとも呼ばれます。
日本だといまいち馴染みがありませんが、ブギーマンは明確な姿形を持って描かれる存在ではありません。
「恐怖が実体化したもの」がブギーマンであり、「お化け」とかの概念が近いでしょうか。
子どもが言うことをきかないときに親が「ブギーマンが攫いに来るよ」と脅したりするそうですが、「寝ないとお化けが来るよ」みたいなのと似ています。
人間の殺人鬼としてのマイケルが現実的な存在であるのに対して、ブギーマンとしてのマイケルはファンタジー寄りの存在と言えるでしょう。
いわば、現実とファンタジーの狭間に位置しているのがマイケル・マイヤーズという存在です。
ブギーマンの性質も考え合わせれば、人々が怖がるほどマイケルは恐ろしい存在になっていくとも考えられます。
そう考えれば、前作でマイケルが無双したのも納得がいきます。
マイケルのトラウマに怯えるハドンフィールドという町。
町全体が病んでいた感じですが、前作では特に、町全体がマイケルへの恐怖に湧き上がりました。
暴走した攻撃性は、恐怖心の裏返しと言えるでしょう。
ローリーの恐怖心だけでなく、群衆の恐怖心が投影されて強化されたのが、前作のマイケルだったのです。
しかし、前作から4年後を描いた本作では、何とも長閑なハドンフィールドの日常が描かれていました。
いまだにハロウィンの夜の惨劇は尾を引いていましたが、そのヘイトはマイケルではなく彼を挑発したローリーに向けられ、ある程度平和な日常を取り戻していました。
ハロウィンを間近に控えても、町全体からは大して怯えている様子も見受けられません。
40年の時を経てもマイケルの影に怯えて暮らしていたローリーも、娘カレンを失ったにもかかわらず、なぜか平和的に新居まで買って、アリソンとの生活を満喫。
自宅を要塞化していた4年前の姿は面影もなく、身体を鍛えるのも怠っているのかちょっぴりぽっちゃりして、もはや過去の振り返りモードで自伝を執筆。
ちなみに、『ハロウィン(1978)』では超奥手だったローリーが、アリソンに対して「新しい彼氏を見つけなきゃ。シャツを引き裂いておっぱい見せて“悲しみよ 失せろ!”」と力強くアドバイスしながら床にかぼちゃを叩きつけるシーンは、時の流れの残酷さ(?)を感じさせます。
もはや誰もが、あのローリーですら、マイケルに怯えているようには見えません。
ブギーマンへの恐怖がマイケルの力を強化させるのだとすれば、あれだけマイケルが弱体化していたのも当然です。
さらには、激しく老いを感じさせたマイケル。
これは個人的には、上述した通り、古典的スラッシャー映画の一つの終焉を描いているのではないかと感じました。
『ハロウィン(2018)』の考察部分で、「現代における殺人鬼の難しさ」について書きました。
ネットを中心としてすぐに情報が広まり、警察の捜査能力や制圧能力が高まっている現代社会においては、のんびりと連続殺人を行うというのは非常に難しいのです。
レザーフェイスやジェイソンなど、誰をスラッシャー代表とするかは難しいところですが、1978年に誕生したマイケルがその筆頭候補であることは間違いありません。
そんなマイケルが、普通の人間である、年老いたローリーとも、いじめられて反撃もできなかったコーリーとも、泥臭い互角の肉弾戦を繰り広げていました。
これは、ハドンフィールドの人々がマイケルを恐れなくなったのと同様に、メタ的には、観客が古典的スラッシャー映画に恐怖心を抱かなくなったことを表しているように思えてなりません。
もちろん、『X/エックス』などを中心に、スラッシャーは今でも人気があり、工夫次第でいくらでも新しいキラーは生まれるでしょう。
しかし、ナイフ片手にゆっくりと町中を歩き回って人を殺していくキラーにリアリティを持たせることは難しく、もはや古臭いものとなりつつあります。
念のために言っておけば、個人的には好きですし、古い=悪いわけではありません。
リアリティがすべてでもありませんが、それでも、コアなホラーファン以外にも受け入れられるには、ある程度の没入感が必要となります。
ですが、ニュースを見るたびに凄惨な事件を目にする現代においては、ただナイフ片手に人を刺し殺していくだけでは、エンタメとしての恐怖心を喚起できないのでしょう。
アリシアもコーリーも、ローリーやマイケルの後継者にはなれませんでした。
ローリーやマイケルによる『ハロウィン』サーガ、そして古典的スラッシャーという一つの歴史の終わりを、個人的には本作から感じ取りました。
倒しても倒しても立ち上がったマイケルが粉砕され、復活の予兆を一切残すことなく終わったのが、それを象徴しているように感じます。
しかし、デヴィッド・ゴードン・グリーン監督のインタビューでは、「『ハロウィン THE END』ではローハン・キャンベル演じるコーリーというキャラクターが、マイケルに影響を受けて変わっていきますが、他にもマイケルの邪悪さに触れた人たちが大勢いるので、いつかまたこのシリーズが復活したら面白いんじゃないかなと思います」とも述べられていました。
マイケルとローリーの物語は一旦終わりましたが、人間がいる限り、邪悪さはまた新たな形で蘇ってくるのかもしれません(それはそれで、『ハロウィン』というタイトルの威光を借りただけの蛇足な駄作になっちゃう気もしますが……)。
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