作品の概要と感想(ネタバレあり)
森の中の小屋に遊びに来た5人の若者たち。
キャンプファイヤーを楽しんでいた彼らのもとに血だらけの男が乱入してから、楽しさが一変。
若者の1人、カレンも体調不良を訴え始め──。
2002年製作、アメリカの作品。
奇才イーライ・ロス監督のデビュー作。
監督自身が19歳のときに罹患した皮膚病の体験がベースになっているようです。
原題もそのまま『Cabin Fever』。
「cabin」は「山小屋」、「fever」は「熱」で、山小屋を舞台に、発熱を伴う謎の感染症の恐怖が描かれるので、これらそれぞれの意味も作品に反映されています。
一方、「cabin fever」で一つの表現であり、ポスターにもある通り「僻地や狭い空間で生じる異常過敏症」「いらだち・疎外感・人恋しさ・密室恐怖症」という意味で、「長時間室内に閉じこもっていることで、不満やストレスが溜まった状態」を指すようです。
感想としては、とにかく、デビュー作とは思えないほど個性と癖が強すぎますね。
『死霊のはらわた』や『13日の金曜日』といったような、若者たちが山小屋を訪れるという典型的なホラー映画リスペクトの設定から始まりますが、その後の展開はもうはちゃめちゃです。
いや、ストーリーはしっかり理解でき、意味不明というわけでは全然ないのですが、「そこで終わる?」というシーンの切り取り方だったり、「これ何の意味があるの?」といったような演出が入り乱れます。
切り貼りされたようなシーンの転換や演出は、それこそfever、高熱を出したときに見る悪夢のような感覚に陥ります。
内容は、どう考えても悪趣味ですし、グロいシーンにも定評があるイーライ・ロスなので、個人的には大好きなのですが、評価が分かれるのも当たり前と感じます。
「万人受けなんて狙ってないぜ」という姿勢が、ひしひしと伝わってきました。
人間の醜い部分もこれでもかというほど描かれているので、色々な意味での生理的な嫌悪感は満載です。
『キャビン・フィーバー』は、ホラーというよりパニックもので、恐怖よりも、終始漂うじわじわとした嫌悪感が抜群な作品。
明らかに細かく説明する気はないので、「説明不足」と批判するのは野暮な気がします。
また、時おり挟まれるシュールなギャグが良いアクセントになっています。
ホラーは一歩間違えるとギャグになってしまいますが、そういう真面目な演出が自然とギャグっぽくなってしまうのではなくて、明らかにギャグとして狙っていると思われるシーンが多々あります。
しかもそれは決して笑わせようとしているわけではなく、ホラーでギャグっぽくなってしまいがちな演出を逆手に取ることでシニカルな表現となり、不気味さというか、作品全体の不安定さを底上げする要素になっている印象です。
しかし、パンケーキ少年なんて、あんなのどんな気持ちで観ればいいんでしょう。
どうやって生きてきたら、あのシーンをこの映画に挟もうと思い浮かぶのでしょう。
まだ観たことない方は、「パンケーキ少年」という言葉だけは覚えておいてください。
あと、音楽もすごく良い仕事をしていました。
とある3人組が山小屋に迫るシーンの音楽なんて、無駄にかっこよくてお気に入りです。
考察:自己中心性と嫌悪感(ネタバレあり)
嫌悪感が強い要因としては、上述した通り、登場人物のリアリティある醜い部分が、隠すことなく描かれている点が大きいです。
同じイーライ・ロス監督の『グリーン・インフェルノ』などもそうですが、一見、グロさや感染症、食人族など、わかりやすい恐ろしさ、気持ち悪さに目が行きがちです。
でも、イーライ・ロス作品特有の後味の悪さは、人間が目を背けがちな部分を直視して、さらにそれを膨らませて見せつけてくる点が大きいと感じます。
登場人物たちはそもそも、基本的にみんなあまり友達になりたくないタイプです。
若者たちも、店の人たちも、保安官たちも。
若者たちは、何でこの5人で旅行に来たんだろうと思わなくもないほど、それほど仲良さそうでもありません。
特に、1人だけカップルに紛れているバートなんて、度を越した悪ふざけが多く、よくこれまで友達やってきたな、と思ってしまいます。
感染が広がるに伴い、みんなをバイキン扱いして保身に走るジェフ。
ひたすら酔って悪ふざけ、間違えて人を撃っても隠そうとするバート。
保安官代理に嘘をついたり、家の中の女性を覗き見て救助を求める機会を逃すポール。
その場の勢いでポールとベッドインするマーシー。
唯一まともそうだったカレンは早々に感染し、結局みんなカレンを隔離。
しかし、実際に未知の感染症による死の危険性が身近に迫ったとき、果たしてどこまで合理的で他者を思い遣った行動ができるかというと、正直わからないものがあります。
あんなに仲間割れせんでも、とも思いますが、自分が死ぬ可能性があり、状況が理解しきれていないときに、どこまで冷静に落ち着いて対応できるでしょう。
それは『グリーン・インフェルノ』でも同じように描かれており、極限状態において自己中心的な言動をする登場人物ほど、見ていて苛々しがちなものです。
ホラー映画では、そういう人物は基本的に最後には痛い目に遭ってきました。
しかし現実においては、彼らのように、他人を蹴落としてでも生き残ろうとする執念は、実際に生き残る可能性を高めます。
フィクション作品において、自己中心的で周囲に迷惑をかける登場人物がいると、当然ながらだいたい嫌われます。
そして結局は彼らは報われず、迷惑を被った主人公たちが最後には幸せになったり助かり、カタルシスが得られる物語も多い。
しかし、現実はそうとは限らず、いい人が損をして、自己中な人が得をしていることは多々あります。
そんな現実も直視させるのがイーライ・ロス作品の嫌悪感であり、でもまぁ、わざわざフィクションでまでそんな現実を見たくない人が多いのもわかります。
『キャビン・フィーバー』において一番自己中心的に立ちまわったジェフは、結局オチのような使われ方で撃たれまくって退場しますが、感染せずに生き残っていたのは確かです(発症前だっただけかもしれませんが)。
一方、一番平和的で思い遣りのあったカレンは、一番に感染して何もできないまま死んでいきました。
種の保存の観点からいえば、多様性が必要です。
ゲーム理論を進化生物学に応用したジョン・メイナード=スミスという生物学者は、進化的安定性のためには、多様性や多様な行動が必須であると述べており、まったく攻撃をしない集団も、攻撃的なだけの集団も、生物の集団としては、不安的で適応能力が低いと述べています。
バリエーションに富んでいた方が、対応できる状況が増え、存続する可能性が高まります。
人類社会の平和に脅威を与え得る存在であるサイコパスなども、人類や遺伝子の存続可能性を高めるという意味では価値があり、淘汰されていないとも考えられています。
そこまでではなくとも、困っている人を助けようとする愛他的な存在も、他者を見捨ててでも生き残ろうとする自己中心的な存在も、どちらも存在することが、倫理や道徳レベルではなく種の存続というマクロな観点から見たときには、生き残る可能性を高める戦略なのです。
自己中なキャラは様々な作品につきものですが、『キャビン・フィーバー』においては、登場人物のほとんどが自己中心的に描かれています。
しかし結局、若者たちを見殺しにしてまで感染の拡大を防ごうとした保安官や地域住民たちも感染した水(レモネード)を飲み、さらには汚染水が出荷までされていくという、全滅エンドを予期させるラストシーン。
ホラー映画らしいバッドエンドですが、皮肉と悪意がすごい(褒め言葉)。
イーライ・ロス監督が19歳で皮膚病に罹患したとき、よほど周りのリアクションがひどかったのかな、とすら思わされます。
全体を通して、古典的なホラー映画のプロットをベースとしながらオリジナリティ(ストーリーというより、魅せ方が)も強く、メリハリのきいた作品です。
メリハリというのはひとつポイントで、過剰なまでの演出が強く印象に残ります。
そこまで吐きます?というほど吐血して撒き散らしまくるヘンリー。
あれだけで、あぁ……もうダメだろ全員感染するだろ……という絶望感が感じられます。
そこまで食べます?というほど犬に食べ散らかされるマーシー。
何でそうなった?というほど車に刺さって暴れる鹿(?)。
湖に落ちると思わせておいて、しっかりとシンプルに落ちるポール。
ヘンリーかどうか確認しようと思ったのでしょうが、何であそこまでして遺体をひっくり返そうとしたのかは、突っ込まざるを得ません。
極めつきは、この状況で何でまだ吹き続けようとしました?なハーモニカ吹きさんで、事故って仲間のギターで殴られてハーモニカを飲み込んでしまい、断末魔の声がハーモニカ音(死んでないかもだけど)として奏でられるという、これも何でまたこんなシーンを思いついてわざわざ入れたのか、と感嘆せずにいられません。
とにかく癖が強すぎる、イーライ・ロス監督のカルト性がいきなり垣間見えるデビュー作でした。
追記
『キャビン・フィーバー2』(2023/10/14)
続編『キャビン・フィーバー2』の感想をアップしました。
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