【映画】ヴィレッジ(ネタバレ感想・心理学的考察)

映画『ヴィレッジ』のポスター
(C)2004 Touchstone Pictures All rights reserved.
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作品の概要と感想(ネタバレあり)

映画『ヴィレッジ』のシーン
(C)2004 Touchstone Pictures All rights reserved.

米ペンシルバニアの小さな村。
村の周囲を取り囲む森には恐ろしい存在がいるため、村人が森に入ることはタブーとされていた。
だが、村で皮を剥いだ動物の死骸が発見され、誰かがタブーを破ったのではないかという疑惑が持ち上がる──。

2004年製作、アメリカの作品。
『シックス・センス』のM・ナイト・シャマラン監督の、まだ初期の作品です。
現代も『The Village』。

これは確か公開当時、映画館で観た記憶です。
それ以来観ておらず、作品の振り幅が激しいシャマラン監督(好きなんですけどね)について、友人たちと「良いシャマラン」「悪いシャマラン」と勝手に区分けしていた中で、『ヴィレッジ』は「悪いシャマラン」に区分けしてしまってしていました。
ところが、今回久々に再鑑賞したところ、とても面白くて評価が反転。

考えられる要因としては、一つは、それほど深いわけではないですが、大人向けの映画であろうこと。
当時がきんちょだった自分には、きっとわからなかったのでしょう。
色々な要素が詰め込まれていますが、能天気に生きていたので、この作品の本質部分が全然わかっていませんでした。

もう一つは、『シックス・センス』の次に観た作品であり、ホラーとしての期待値が高かったこと。
当時、宣伝もけっこうホラー要素推しでなされていたように記憶しています。
『ヴィレッジ』は、ホラーかといえば、序盤こそ不穏さが漂いますが、トータルで考えるとホラーとは言い難い。
後半に向かうほどホラーからは遠ざかっていくので、『シックス・センス』の延長かつホラーを期待して観ていた当時の自分にとっては、「あれ?あれ?」となってしまった印象が強かったのでしょう。

改めて観ると、とにかく映像と音楽が綺麗です。
そしてやはり演出やカメラワークがとても巧く、前半の不穏さの漂わせ方が特に素晴らしい。
全体的に淡い色合いの雰囲気の中、鮮明な赤が「不吉の色」とされている対比も印象的。

しかし、改めて考えてもジャンルはとても難しいです。
型に嵌まらないシャマラン監督なので、ジョーダン・ピール監督と同じく「ジャンルはシャマラン」としか言いようがないオリジナリティが溢れています。
それこそ、『NOPE/ノープ』『LAMB/ラム』といった作品に、ジャンルが難しいところや鑑賞後に何とも言えない感覚になるところが似ており、だいぶ先駆的な作品だったのかなと感じました。

この点は、シャマラン監督自身が以下のようにインタビューで述べているので、意識的なものであるのは間違いありません。

『ヴィレッジ』を完全なホラー映画にしてしまったら、10代の男性層しか映画館にこなくなる。
逆に、女性を主人公にしたサスペンス映画にすると、大人の女性にターゲットが絞られてしまう。
『ヴィレッジ』のなによりもの魅力は、どのジャンルにも属さないその独創性なんだ。

また、インタビューでは、「時代物のラブストーリーをやろうというところから出発した」ということにも言及されており、ベースはラブストーリーのようで、最後まで観た感想としてもホラーよりラブストーリーの方が納得です。
ホラー色を強く打ち出した宣伝の仕方がいけなかったような気もしますが、そこもまた意外性を狙っていたのかもしれません。

細かい部分は粗も目立ちますが、それはほとんどのシャマラン作品に当てはまることなので、細部まで整合性を求めるのはナンセンス。
オリジナリティ溢れる世界と、半ば強引でも先の読めない展開を楽しむのが、シャマラン作品。
『ヴィレッジ』は、確かにどんでん返しのインパクトは弱めで地味め、強引さも目立つ作品ではありますが、かなり挑戦的で面白い1作であると改めて思いました。
色々な要素を詰め込みすぎて、雰囲気が抜群なのにあと一歩何かが足りないような感覚も否めませんが、それもまたシャマランらしさ(甘い)。

ちなみに、インタビューでは「『ヴィレッジ』はスーパースターもいないから、思いっきり安く作ることができた」とも述べられています。
しかし、全盲の女性アイヴィー・ウォーカーを演じたブライス・ダラス・ハワードは、近年『ジュラシック・ワールド』3部作でヒロインのクレアを演じ、有名に。
主人公ルシアス・ハントを演じたのも、『ジョーカー』において圧倒的な存在感で新たなジョーカー像を描いた、ホアキン・フェニックス。
今だったら、相当豪華な共演です。

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考察:村の存在と、全盲であるということ(ネタバレあり)

村は結局何だったのか

①村の秘密

『ヴィレッジ』の70%ほどは、村が舞台でした(残り25%ぐらいが森で、5%ぐらいが森の外)。
そう考えると、色々な映し方をしたり、次々とイベントを起こしたりと、飽きさせない演出も秀逸です。

さて、その村は結局何だったのでしょうか。

終盤明らかになりますが、中心人物はアイヴィーの父エドワード・ウォーカーであり、彼と数名の「年長者」たちだけが秘密を知っていました。
その秘密とは、村を閉鎖的な場所として創設し、誰も入ってこられないように、そして誰も出ていけないようにしていたということです。

年長者たちはみな、過去は森の外の町に住んでおり、そこで大切な人を犯罪行為で亡くした人たちでした。
絶望した彼らは、カウンセリングセンターで出会い、悲しみのない真に平和な世界を求めて村を創設します。

エドワードの父(アイヴィーの祖父)が「金儲けの天才」だったそうですが、人を見る目はなく、おそらく金銭目当てで殺されてしまったようです。
おそらく村の資金源は、その遺産だったのだと考えられます。

②村人を出ていけないようにする

村から誰も出ていかないようにするために、彼らは物語を作りました。
村を取り囲む森には獰猛な「語ってはならぬもの」がおり、お互い不可侵の協定を結ぶことで平和が維持されているというものです。
序盤、学校のような場所でエドワードが話していましたが、幼少期から教育されれば、信じて育つのは当然でしょう。

そのために年長者たちは、わざわざ具体的な演出まで行いました。
森の外から不穏な鳴き声が聞こえてくるかのように、録音した音を流したり。
赤を「不吉な色」として、それを見たら埋めたり隠させたり。
そして、赤いフードをまとった「語ってはならぬもの」に(おそらく長老の誰かが)なりすまし、村にやってくるということまで行っていました。

こうして年長者以降の村人たちは、村の外に出てはいけない、危険であるということを、半ば刷り込まれるようにして育ちました。
これは、ある意味では洗脳であり、村人たちを恐怖で縛りつけていたとも言えるでしょう。

③外部から人が入ってこられないようにする

外部から人が来ることを防ぐために、年長者たちは村と森を含む地域一帯を野生生物保護区として指定させました

アイヴィーが森の外に出た際、警備の車が通りがかりますが、その車体には「ウォーカー野生生物保護区」と記載されています。
また、監視小屋にいた上司らしき新聞を読んでいた男性(ちなみにこれがシャマラン監督)は、「俺たちの給料が遺産で払われていたり〜」と述べていました。
一帯を保護区に指定させたのも、警備員に給料を支払っているのも、やはりエドワードが父親の遺産を使って行ってたものと考えられます。

それは同時に、村人が外に出るのを防ぐ機能も果たしていたのかもしれません。

上司の男性は事情を知っていたようですが、アイヴィーと出会った男性は詳しくは知らなかった、あるいは信じていなかったのでしょう。
本当に森から女性が出てきたこと、そして彼女が「アイヴィー・E・ウォーカー」と名乗ったことから、事情を察したのだと思われます。

警備員がちょうど通りかかったのは偶然であり、エドワードは、警備に見つからないと思って送り出したのかもしれません。
ただ、見つからずに出入りできるとなればそれはそれでザル警備ですし、村人とわかれば出入りさせてもらえると思ったのかもしれませんが、連絡の一つぐらいしてあげても良かったのではないかな、と思います(連絡手段がなかったのかもですが)。

村は楽園だったのか?

年長者たちは、強い悲しみや絶望の果てに「自分の子どもたちにはこのような思いをさせたくない」と思い、村を創設しました。
家族の命を犯罪によって奪われた彼らの痛みは、想像を絶するものでしょう。

しかし、そこで独自のコミュニティを作り上げ、外部との接触を一切断つというのが彼らの子孫にとって本当に望ましいことだったのかといえば、微妙なところです。
この村における救いは、年長者たちが善人であり、特にその中心人物であるエドワードは本当に次世代のことを考え、柔軟性を持っていたことでした。

村の秘密を守るべきか、村のシステムが崩壊する危険性を冒してまでアイヴィーを送り出すか。
保守的になっていた年長者たちに対して「若者のためにこの暮らしがある」と反論するエドワードの姿は、胸を打つものがありました。
もしエドワードが悪人であったり、あるいは彼らの悲嘆に付け入ろうとする者がいたら、もしかすると村はカルト的なコミュニティになっていた可能性も十分にあったでしょう。

ただそれでも、村の暮らしを選択したのが正解であったのかは、誰にもわかりません。
親の判断で子どもをあらかじめ危険から切り離すというのは過保護の構図であり、情報のコントロールは、子どもたちの真の自己実現や幸福を阻む可能性を孕みます。

冒頭では、ダニエル・ニコルソンという少年がわずか7歳にして亡くなったらしいシーンから始まります。
また、ノアに刺されたルシアスも、アイヴィーが町に行くと言い出さなければ、おそらく助からなかったでしょう。

ダニエル少年の命も、もしかすると町の医療技術をもってすれば助かっていた可能性もあります。
そう考えると、悲しみを避け平和を守るための村の存在によって、逆に助かる命が助からなかったとも言えます。
ダニエル少年の死ががそういったものではなかったとしても、いずれはそのようにして失われる命が必ずあったはずです。

ノア・パーシーの心理

『ヴィレッジ』におけるキーパーソンの1人であるノア・パーシー。
彼の精神状態についてはほとんど触れられていませんが、おそらく知的な障害があったのだと考えられます。

それゆえ、彼の行動はすべて、子どものような純粋な動機に基づくものです。
ルシアスを刺したのも、彼とアイヴィーが結婚することになったから。
アイヴィーに対する恋愛的な感情まであったのかはわかりませんが、少なくとも「彼女を奪われてしまう」といったようには感じたのでしょう。

森でアイヴィーを襲った(ように見えた)のも同様です。
閉じ込められていた場所で「語ってはならぬ者」の衣装を床下から見つけ(何でそんなとこに隠してたん)、そのまま脱走し、その衣装を着てアイヴィーの前に現れました(なぜアイヴィーが森に行ったのを知っていたのかは不明)。
彼にとっては、彼女の手に蛙を乗せたのと同様、ただ驚かせたかっただけであったと考えられます。

ちなみに、動物を殺して毛皮を剥いだのもノアの仕業とのことでしたが、これは動機がいまいちわかりません。
アイヴィーの結婚が決まる前からなので、それと関係しているわけでもない。
村人を驚かせたかったにせよかなり突飛な行動であり、ここは演出上の矛盾点と考えるのが自然です。

ノアは無邪気なままに他者に迷惑をかけては、閉じ込められていました。
彼に必要であったのは、彼のレベルに合わせた適切な教育や関わりです。
村人たちは優しく接していましたが、その知識や理解が決定的に欠けていました。

薬を手に入れるために町に行く決意をしたルシアスは、アイヴィーに対して「彼(ノア)の心を治し 学べるようにできる薬があったら?」と問います。
しかし、彼の障害は薬でどうこうできるものではありません

その意味では、村の一番の被害者はノアであったとも言えます。
ルシアスに知識がなかったのは仕方ありませんが、結局ただ罰として閉じ込めることしかしなかった年長者たちには、重い責任があったと言えるでしょう。

アイヴィーが全盲であった意味

『ヴィレッジ』は、秘密が明かされるまでは、まるで童話か御伽噺のような雰囲気を持っています。
フードを被ったアイヴィーが1人で森を進んでいく姿は、赤ずきんそのもの。
そう考えると、本作では「赤」は「不吉な色」であるところがまた面白いと感じます。

さて、彼女は視覚障害があり、一切視力がない全盲でした。
ストーリー上、彼女が全盲である必要性はありません。
これにはどのような意味があったのでしょうか。

他の作品の考察でも何回か触れたことがありますが、人間の五感のうち、知覚に占める割合は視覚が80%以上と言われています。
それだけ、人間は「見る」動物なのです。
それは、言い換えれば、「見る」ことが「知る」ことの大部分を占めているということです。

「盲目の愛」など、現実的な視点を失い、現実を知ろうとしないような表現は、ネガティブな印象として捉えられがちです。
しかし、「見ること」「知ること」は一概に素晴らしいことなのかどうか
現実を知ることで絶望に打ちのめされるという例は、枚挙にいとまがありません。

『ヴィレッジ』においては、村の存在自体が、現実からの逃避によって生まれました。
ある意味では、年長者たちは現実のトラウマから目を背け、村という自分たちだけの世界に逃げ込んだのです。

そこで育った子どもたちは、それこそ「盲目的に」村の教えを信じていました。
「語ってはならぬもの」を「目撃」するからこそ、よりその恐怖が増していくのです。
表面的な事象を「見る」ことで、誤って認識したり、ミスリードされることも少なくありません

村の子どもたちが行っていた肝試し(?)も、「森に背を向けて立つ」というのが非常に示唆的でした。
「見る」ことで状況を把握するのが当たり前になっているからこそ、あえて目を向けないことで、より想像力がかき立てられ、恐怖心が増していくのです。

そのような中で、アイヴィーは「目で見ることができない存在」です。
視力がない者は、決して見える者より劣っているわけではありません。
全盲であるがゆえに他の感覚は研ぎ澄まされ、また、内界に向かって開かれた目は、物事の本質を捉え、真実を「見る」ことのできる力を秘めています。
その一つの象徴が、アイヴィーの見える「色(オーラのようなもの?)」だったのでしょう。

そんな彼女だからこそ、表面的な怖さに捉われず、愛する者のために森を抜ける勇気を持つことができました。
それが、村の真実を「知る」ことにも繋がったのです。
そしてさらには、愛する人を助けることにも繋がりました。

姉のキティが特に対比的(彼女はまさに「盲目的」でした)に描かれてもいましたが、見えるのに現実から目を背けた年長者たち、そして見えるのに虚像を信じている村人たちとの対比として、アイヴィーが存在していたのだと考えられます。
そう考えると、真実を知り、道を切り拓くことになるアイヴィーの目が見えないというのは、必然的であったのでしょう。

時代設定の謎

最後に1点、『ヴィレッジ』の時代背景について。

上述した冒頭のダニエル少年の墓石には、「1890−1897」と書かれていました。
しかし、実際は、最後の森を抜けたあとのシーンにおける警備の車や無線などの様子から、時代は公開当時の2004年から大きくずれてはいないものと思われます。

年長者たちが村の創設者ですし、終盤で出てきた町にいた頃の写真からは、村の創設からそれほど時間が経過しているとは考えられません。
「23歳になる前に姉は殺された」という話をしていた年長者の1人も、歳上に見ても50〜60代。
たとえそれからすぐに村が創設されたとしても、せいぜい40〜50年ほどです。

そもそも冒頭のシーンは、ラストシーンと数日〜多く見積もっても数ヶ月程度しか変わらないはずなので、1890年代というのは明らかに矛盾します。

村人たちを偽るため、というのが一つ可能性として挙がりますが、その必要性が浮かびません。
外部の情報を制限しているので、今が2004年だろうが何年だろうが村人には関係がないはずです。
他に無理矢理挙げれば、「実は墓石は関係なく葬式はダニエル少年のものではなかった」「1890年代頃の暮らしを理想と考えて村独自の西暦を設定していた」「実は1990−1997の間違い(!)」あたりでしょうか……。

逆に言えば1890年代と言っていても問題があるわけではないので、「一応ずらしていおいた」程度に考えることも可能ですが、一番現実的なのは「観客を騙すため」かと思います。
つまり、「言い伝えや風習がある古い時代の村を描いた」と見せかけて「実際は現代のお話でした」というオチのため、です。
そう考えると、ホラー推しの宣伝だったのも(アメリカでどうだったのかわかりませんが)やはり、わざとミスリードさせて、意外な方向性に展開させて驚かせるのが目的だったのかな、とも邪推しました。

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