【映画】ジョーカー(ネタバレ感想・心理学的考察)

映画『ジョーカー』のポスター
(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics
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作品の概要と感想(ネタバレあり)

映画『ジョーカー』のシーン
(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics

コメディアンを夢見る、孤独だが純粋で心優しいアーサー。
一人の“人間”が、なぜ狂気溢れる“悪のカリスマ=ジョーカー”に変貌したのか──?

2019年製作、アメリカの作品。
言わずと知れた、もはや説明不要なほどに大ヒットした有名作です。

『バットマン』シリーズを含め、基本的にアメコミ系はほとんど観ていないのですが、それでもさすがの名作、単体作品として観ても、最後までまったくだれることもなく楽しめました
ホアキン・フェニックスの演技は言わずもがな。

しかし、それなりにシンプルなように見えて、実際は解釈の余地が多分にあり、それがまた本作の魅力を引き立てているのだと思います。
そのため、本作を考察しているサイトも多数存在し、すでに様々な観点や知識を用いて検討されています。

たとえ自分なりの解釈が同じであっても、それらと重複するような考察をしてもあまり意味がありません。
また、そもそも明確な答えがあるわけでもないですが、自分の中でもあまり確固たる考察には至っていません。

なのでここで考察を書こうかどうかも迷ったのですが、心理学的な視点を用いて検討しているものはさほど多くなく、また、あまり見かけなかった観点を提示するのも意味があるかと思いましたので、自分なりに感じたことを書いてみたいと思います(あまり直接的な心理学的考察ではないですが)。
『ジョーカー』は続編も作られているようなので、そこでまた別解の方向性が提示されるかもしれませんが、この作品を単体で観ての解釈です。


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考察:作話と「JOKER」(ネタバレあり)

映画『ジョーカー』のポスター
(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics

考察の前提

『ジョーカー』の考察の前提として大事になってくるポイントが、「どこまでを妄想と捉えるか?」です。

ソフィー(アパート住民の女性)との関係を中心に、本作はアーサーの妄想が入り混じっているという点については異論はないと思われます。
ではどこまでが妄想で、どこからが現実なのか?

この点は、「ラストシーン以外のすべてが妄想説」と、「すべてではない説」のいずれも散見されました。
ここでは、「すべて妄想説」に立って考察していきます。
厳密には、妄想というより「作話(作り話)」です。

その立場に立つ理由としては、あまりにご都合主義的すぎる展開です。
挙げていけばキリがありませんが、明らかに妄想的なシーンだけでなく、「電車での殺人に目撃者がいない」「タイミング良くトーマス・ウェインや息子ブルースと2人きりになる」「映像がウケて番組に呼ばれる」など、「妄想か現実か?」と意見が割れそうなシーンについても、「たまたま」で済ませるには重なり過ぎているほど、あまりにも都合の良い展開だからです。

この点については、後ほども少し触れますが、全体的な前提として、「全部作話説」に立って進めていきます。

そのため、犯罪心理学的な考察は意味をなしません。
小説『死刑にいたる病』の考察で触れていますが、大量殺人を引き起こす要因をアーサーは満たしており、アーサーは大量殺人こそしていませんが、マレー・フランクリンを射殺したのは、大量殺人犯によく見られる「拡大自殺」のメカニズムとして解釈することも可能です。
ですが、すべて作話であったとすれば、その内容の詳細を検討することに意味がなくなってしまいます。

作話の意味するものと「JOKER」の意味

すべてはラストシーンのアーサーの作話であった。

そうなると、では、作話はなぜあのような内容のストーリィになったのか?という疑問が生じます。

作話の中身のメインは、まとめてしまえば「ジョーカーの誕生秘話」です。
その経緯は、どんな理由であれ殺人が許されるものではありませんが、共感や同情できる部分を感じた人も多かったはずで、それがこれだけのヒットや評価にも繋がっているはずです。
時代背景は一昔前ですが、そこに住む一般市民が抱く感情は現代にも通ずるものがあります。

簡単に表現すれば、「不満」。

しっかりと民衆の視点に立って導く指導者もおらず、混沌とした社会。
その中でも誠実に生きていたアーサーが、徐々に追い詰められてダークヒーロー化していく。

その過程は、あまりにも見事です
介護が必要な母親の世話。
同僚たちから馬鹿にされていた職場も失職。
神経性の病気。
理不尽な暴行。
嘲笑される夢。
富裕層と貧困層の格差社会。
これらは、誰しもがどれかしらには同情を感じる余地のある不幸でしょう。
まるで作り物のように、見事なまでに古典的な不幸条件が揃っています。

笑いが止まらなくなる病気は、そもそも実在する疾患をモデルとしていかははっきりわかりませんが、実際にあるもので考えれば情動調節障害が一番有力です。
Wikipediaには「トゥレット障害」と書かれていたり、「失笑恐怖症」と書いてある考察も見かけましたが、これらは確実に当てはまりません。
いずれにせよ、脳の損傷によるものだとすると、幼少期の虐待が原因であった可能性も示唆され、そうであるとすればより一層、悲劇度合いが際立ちます。

また、アーサーを取り巻く人々も、見事なまでに社会的弱者たちです(個人的な価値観ではなく、時代背景的に)。
からかわれる障害者。
シングルマザー。
介護の必要な高齢者。
予算の都合で切り捨てられる黒人女性のソーシャルワーカー。

その中でダークヒーロー化し、不満を抱える者たちからの支持を得ていくアーサーは、まさにダークヒーローのテンプレルートを辿っています。
2019年の映画としての目新しさやオリジナリティは、そのプロセスには皆無と言っても過言ではありません。

それは、なぜか。
その鍵を握るのが、おそらく最後に診察を受けていたアーサーです。

すべては彼の作話だったとしても、彼が作話の中のアーサーと同一人格であるとは限りません
むしろ、ラストシーンの短い言動だけでも、作話の中のアーサーらしさは皆無です。
笑いが止まらないのも、発作のような感じではなく、本当にただおかしくて笑っているように見えます。
また、血の足跡は、精神科医を殺害したからだと解釈していますが、その冷酷さ

作話の中のアーサーは、誰も意味もなく殺してはいません。
結局殺してしまうのはどんな理由であれ問題ですが、彼なりに意味のある相手、あるいは相手から襲われてやむを得ない場合に限れられていました。

『バットマン』シリーズのジョーカーは、サイコパス的な存在として描かれており、また、『ジョーカー』における精神科医殺害のアーサーの動きが、ジャック・ニコルソン演じるジョーカーの動きと類似しているという指摘もありました。

これらからは、ラストシーンのアーサーは、作話中のアーサーよりもジョーカー像に一致します
最後にウェイン夫妻を殺害したピエロマスクが真のジョーカーなのでは?という説もありましたが、そうだとすると、あの状況で息子のブルースだけ殺さない意味がありません。
その「心優しさ」は、ソフィーやゲイリーを殺害していない妄想アーサーと通ずるものがあり、ジョーカー像と一致しません。

つまり、本作の9割以上を占める「ジョーカーの誕生秘話」自体が、ジョークなのです。
『バットマン』シリーズにおけるジョーカーも、毎回異なる過去を語っているようですが、「ジョーカー誕生秘話」と匂わせて煽っていた(アメリカでもそういう売り出し方だったのかわかりませんが)本作すらも、その一環であったということになります。
だからこそ、あれだけの「いかにも悲劇的」なものを詰め込んだストーリィだったのです。

「joke」には、「冗談」以外にも「悪ふざけ」といった意味もあります。
ジョーカーの、秘められた悲しき誕生秘話。
それを「全部冗談、悪ふざけでした」と覆す「JOKER(jokeを言う者)」は、果たしてラストシーンの男性なのか、あるいは本作の監督トッド・フィリップスなのか

そう捉えると、けっこう、ファンなら「夢オチ」に近いようなブチ切れ案件に近い気がしなくもありません。

結局、ジョーカーは?

さて、では誰がジョーカーだったのか。
それすらもわからないのが本作です。

作話パートの最後では、アーサーではなく、ピエロマスクの男がウェイン夫妻を殺害しました。
わざわざ挿入されている、必要性がいまいちわからないこのシーン。
これが意味するものは、「誰しもがジョーカーになり得る」ということであると解釈しています。

アーサーが、日々不満を抱えていたことは確実です。
繰り返し描かれていたシーンとして、尋常じゃない量のタバコと、貧乏ゆすりがありました。
貧乏ゆすりは、単調な動きによってセロトニンを分泌させてイライラを和らげるためと言われていますが、あれだけ執拗なまでに繰り返されていた喫煙と貧乏ゆすりのシーンは、それだけアーサーの苛立ちを表現していました。

結局、それが爆発し、たまたま社会情勢と一致して祭り上げられてしまっただけなのが、アーサーでした。
決してカリスマ性を持った先導者ではありません。
その「抑圧されたものの爆発」の象徴がピエロメイクであり、街中に溢れていたピエロメイクやピエロマスクは、全員がアーサーであり、全員がジョーカーになり得る可能性を秘めた存在とも言えます。

あえてピエロマスクにウェイン夫妻を殺させた意味。
「ジョークを思いついた」と言ってウェイン夫妻殺害のシーンを思い浮かべたラスト。
アーサーがジョーカーになる物語だったのであれば、あそこは確実にアーサーがウェインを殺害しないといけません
アーサーが悲劇のダークヒーローであるジョーカーになると思わせた最後に、「実は違いました」といったオチのような位置付けです。
その最中、支持者に担ぎ上げられてボンネットの上で調子に乗っているアーサーの姿は、喜劇的であり、まさにピエロ

そもそも、情動調節障害であるにせよ違うにせよ、アーサーが持っていたカードに書かれていた通り「脳および神経の損傷」であれば、完治という概念はあり得ません。
その点も、少なくともラストシーン以外に出てきたアーサーがジョーカーであることを否定します。

ラストシーンのアーサーすら、ジョーカーとなる存在だったのかどうかはわかりません。
他には、あのピエロ群衆の中から真のジョーカーが生まれる、あるいは実はブルース少年がジョーカーになる、といった可能性もあります。

しかし、もしかすると、ラストシーンまで含めたすべてがジョークだったのではないか。
極論、ラストシーンの彼も、現代に生きる『バットマン』シリーズやジョーカーファンの精神病患者の一人かもしれません。
そうなるともはや、ジョークに対して「ああでもない、こうでもない」と騒いでいる(自分も含めた)観客たちこそがピエロです。

そこまでいくと意地の悪い解釈かもしれませんが、「誰しもが心の中にジョーカーを抱えている」というのは、この作品の一つの解ではないかと思います。
そうすると、マルチバース的に、様々な過去を語り細部の異なるジョーカーが存在することも納得がいきます。

悲劇と喜劇は紙一重。
それは、「笑う」と「泣く」が似ていることにも象徴されます。
「泣き笑い」もあれば「笑い泣き」もある。
本作の冒頭、カウンセリングでアーサーが笑っている場面は、笑っているのか泣いているのか最初はよくわからなかった人も多いのではないでしょうか。
もちろんこれも、その狭間を表現したようなホアキン・フェニックスの演技が輝いていたシーンの一つです

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