物事を考えるには、まずは対象を定義しないといけません。
共通認識がないと、議論の方向性にずれが生じてしまいます。
特に「恐怖」というのは、おそらく全員に通用する用語でありながら、あまりに日常的すぎるので、人それぞれイメージする内容やレベルが異なりそうです。
ここでは一方的に書くので議論しているわけではありませんが、みんなでああだこうだと話し合いながら進めていきたいな、というイメージのため、最初に恐怖とは何だろう?というのを定義しておきたいと思います。
国語辞典における「恐怖」
まずは定番、国語辞典における「恐怖」の説明を見てみましょう。
恐ろしく感ずること。また、その感じ。「―におののく」
広辞苑
恐れること。恐れ。「―感」「―心」「人心を―せしむる事件/日本開化小史(卯吉)」
大辞林
うーん、実に、実に端的。
「その通りだ」としか言いようがありませんが、まるで深掘りされていない印象が否めません。
詐欺師に言いくるめられているかのよう。
では「恐れ」とは何か。
おそれ【恐れ・畏れ・虞】
広辞苑
①おそれること。恐怖。「―を抱く」
②よくないことが起こるのではないかという心配。気づかい。不安。「失敗する―がある」「大雨の―」
③かしこまること。敬意。平治物語(金刀比羅本)「君を後になしまゐらせむが―なれば」
ちょっと具体性が増しました。
①はほぼ循環しており、③はまた別の「畏れ」という概念なので置いておくと、重要なのは②でしょう。
ここでは不安とほぼ同義のようです。
しかし、「おそれ」の説明に「おそれること」なんてよく書けるな、と思ってしまいますね。
ちなみに、「恐れる」については以下の通り。
おそ・れる【恐れる・畏れる・怖れる・懼れる】
広辞苑
①相手の力におされて、心がよわくなる。かなわないと思いこわがる。
②悪いことがおこるのではないかと気づかう。憂慮する。あやぶみつつしむ。
③うやまって近づかない。おそれ多く思う。恐懼する。
④(主に近世の用法)閉口する。まいってしまう。
絶妙にわかりづらくなってしまいました。
漢字の多さからもわかる通り多義的ですが、ここでも「恐怖」に該当してくるのは①と②であると考えられます。
では、「こわい」はいかがでしょうか。
こわ・い【怖い・恐い】
広辞苑
①おそろしい。悪い結果が予想され、近寄りたくない。狂言、花子「すれば山の神は―・し、身共は―・うないか」。「雷が―・い」「株は―・い」
②人知でははかりがたい、すぐれた力がある。驚くべきである。「追い詰められた者の力は―・い」
やはりどれもここまで見てきた内容とほぼ同じで、循環している感が否めません。
永遠に抜け出せない広辞苑ループ。
まとめると、
- 良くないことが起こるのではないかという不安や心配
- 悪い結果が予想されるので近づきたくない
- 相手の力に敵わないと思い、心が弱くなる
といったあたりが、国語辞典でのポイントでしょうか。
心理学における「恐怖」
続いて、私の専門が心理学なので、心理学における定義を見てみます(今後も心理学的な視点からは抜け出せないと思います)。
とはいえ心理学というのも幅広すぎて、恐怖や感情についても脳のメカニズムから精神分析的な解釈まで理論や扱う分野が無数にありますが、ベーシックなところで見ていきます。
まず、心理学の用語辞典的な存在である『心理学辞典』(有斐閣)では、何と「恐怖」という項目がありません。
心理学部時代、最初に教科書として使用した『心理学』(有斐閣)においても同じく。
心理学の専門用語ではなく、もはや前提となっている概念だ、ということでしょうか。
また、心理臨床の領域(臨床心理学、精神医学、養護教育等)に関する用語をまとめた『心理臨床大辞典』(培風館)にも、「恐怖症」はあれども「恐怖」の項目はありません。
ここでも、もはやその存在は当たり前かつ前提すぎる、ということでしょうか。
ただ、「不安」の項目において、恐怖についても言及されています。
心理学的には不安 anxiety は、恐怖 fear と対照させて論じられることが多い。すなわち、恐怖はその対象があるが、不安はその対象をもっていない。例えば、恐怖は対人恐怖、刃物恐怖、閉所恐怖、広場恐怖、動物恐怖など、恐怖の対象となるものがはっきりしている。しかし、不安にはそのような対象をもたないか、あっても明確ではない。不安の場合は“何となく”不安という言い方しかできない。
『心理臨床大辞典』(培風館)p.166
感情をメインに取り扱った『感情心理学・入門』(有斐閣)も同じように、「恐怖と不安」という項で一緒に扱っています。
一般に恐怖と不安は、ある状況下での危険の信号として機能していると考えられる。たとえばマークス(Marks, 1987)は、恐怖を「現実の危険に対する正常な反応として生じる不快反応」と定義した。恐怖と不安は、凍結・不動(動かずに状況をよく判断する、捕食者から発見されにくくする)、逃避・回避(脅威から遠ざかる)、攻撃(捕食者を排除する)、服従・譲歩(同種のメンバーが脅威となっている場合、服従を示すことで相手からの攻撃を防ぐ)の4種の反応を引き起こすことによって、個体を防衛しているとされる。
『感情心理学・入門』(有斐閣)p.78
「恐怖は対象が明確」「不安は対象が曖昧」というのはよく言われるところですが、ここではどちらも同じように「危険に対する反応」として取り扱わています。
不安との関連で言えば、別の定番テキスト『心理学 第2版』(東京大学出版会)にも言及があります。
このテキストでは、「基本的情動」の項目に「恐怖・恐れ」という項がありますが、ここでは、「驚愕反応(驚いて叫んだり身を縮めたりする)」や「後退的反応(後ずさりや逆戻り)」といった反応について、「これらの諸反応は、その個体に恐怖・恐れの情動が生じていることの現れであり、そのあいだにあるいはその後に、「恐怖」や「恐れ」が体験される」と述べられており、これはつまり「こういう反応が起こっているときに、恐怖の情動が生じているんだよ。そういった反応をしている瞬間やあとから、恐怖の感情を感じるんだよ」といった内容がメインで、これも恐怖という感情は前提として論が進められている印象を受けます。
一方、不安との対比の部分で、以下のように書かれています。
対象が個体によって明確に識別されて一過性に生じる情動が恐怖・恐れであるが、対象が不明確な場合あるいは状況的な変化がない場合など、そこからの逃走行動がとれないとき、そこで体験される持続的で不快な情動は、不安と呼ばれる。しかしながら、「恐怖」「恐れ」「不安」のあいだには、強度や時間経過の違いはあるが、なんらかの同質性ないし連続性が認められる。
『心理学 第2版』(東京大学出版会)p.201
ここでも「対象が明確なものが恐怖」「不明確なものが不安」としていますが、はっきりとその区別ができるものではない、と述べられています。
その他書籍における「恐怖」
最後に、一般向けに書かれた恐怖に関連する書籍から見てみましょう。
まず、心理学と領域が近い精神医学関連の一般書においては、精神科医の春日武彦による『恐怖の正体 トラウマ・恐怖症からホラーまで』(中央公論社)という新書があり、その中では、以下の三つの要素から恐怖は構成されると仮定して論を進めています。
①危機感
春日武彦『恐怖の正体 トラウマ・恐怖症からホラーまで』(中央公論社)
②不条理感
③精神的視野狭窄
──これら三つが組み合わされることによって立ち上がる圧倒的な感情が、恐怖という体験を形づくる。
なるほど、これはいかにも精神科医らしい定義という印象を受けます。
精神医学的な診断は、操作的診断基準が用いられます。
これは、精神医学的な疾患は、がんなどのように検査をしてはっきりした病気の証拠が特定できるわけではないため、患者や周囲の人からの報告をもとに、診断基準として挙げられている症状にどれだけ当てはまるかどうかで判断するというものです。
たとえばうつ病も、現在の医学では、「脳画像のここがこうなっているからうつ病ですね」「血液検査の結果、あなたはうつです」と客観的な所見だけから簡単に診断できるわけではありません。
なので、気分の落ち込みとか、眠れないとか、家族から見ていて明らかに無気力だとか、そういった報告をメインに、必要に応じて心理検査や脳画像検査、血液検査などを補助的に用いながら診断します。
もちろん、その他専門的な視点も用いながら総合的に診断するので、ただただ機械的に当てはめているわけではありませんが、医者によって診断が異なる、ということもあり得てしまうのが課題点です。
精神医学がテーマではないので話を戻すと、「このような条件を満たしたとき、それを恐怖と定義する」という視点は精神科医らしく、「そして、恐怖を感じ得る状況でこの定義が当てはまるかを検討していきながら、その定義が正しいかどうかを検証していく」という姿勢は、まさに仮説を立てて検証していく科学的な姿勢そのものです。
他には、科学哲学が専門の戸田山和久による『恐怖の哲学 ホラーで人間を読む』(NHK出版)は、人間の感情や認知について非常に深掘りされた作品です。
ただこの本、情動システムの説明から、認知、身体的感覚、恐怖に伴う感じなど、「人間は世界をどのように捉えているのか?」といった根本的な部分から、いかにも哲学者らしく非常に慎重に石橋を叩きながら論を進めているので、内容は素晴らしいのですが、1冊まるごと「恐怖とは何か?」というのを哲学的に突き詰めている感があり、新書ながら時に難解さも伴います。
そのため一概にまとめづらいのですが、著者による最後のまとめにおいては、恐怖そのものについては以下のようにまとめられています。
恐怖は表象である。アラコワイキャーの場合、恐怖は次のような構造をしている。怖いものの知覚によって身体的反応が引き起こされる。その反応は、これは脅威でっせという評価でもある。その身体的反応をモニターし、自分に脅威が迫っているという中核的主題関係を表象するのが恐怖だ。
戸田山和久『恐怖の哲学 ホラーで人間を読む』(NHK出版)
……これだけだとさっぱりですね。
ここで詳述できないので、詳しくは読んでいただくしかないのですが、戸田山は、恐怖の原型的なあり方を「アラコワイキャー体験」と表現しています。
これは、自分に害をなす可能性を持つ対象を認知すること(あら、と気づく)、怖さを感じているときの独特の身体的あるいは心理的感覚(怖い)、危害低減行動(きゃー、と逃げたりする)、という一連の流れです。
表象というのは「対象を表すためにある」もの(たとえば「猫」という言葉は、あの可愛い動物を表象している)。
恐怖を含めた情動というのは、自分にとって何が価値があるものかという観点から捉えられた、外的な対象と自分の関係。
そして恐怖は、「自分にとっての脅威・危険を表象している」と述べています。
暴論してまとめれば、「脅威・危険を表象する存在が恐怖」という意味で、上述した辞書的な意味とほぼ同じでしょう。
それを丁寧にモデル化しているという点において、これもまた哲学者らしいと感じます。
作家の平山夢明の『恐怖の構造』(幻冬社)では、モデル化ではなく体験ベースに進んでいき、実体験やよくある恐怖の対象(人形や怪物など)を中心に、色々なものがなぜ怖いのかを考察しています。
この中で平山は、恐怖を「生態的恐怖」と「文化的恐怖」に分類しており、前者を「災害や拷問など本能的な生命の危険を感じる恐怖」、後者を「自分以外の存在とのあいだで生じる恐怖」としています。
文化的恐怖の例としては悪魔を挙げており、悪魔に対する恐怖の度合いは、キリスト教圏で感じる感覚と、たとえば日本人が感じる感覚ではまったく異なる(つまり文化によって異なる)、としています。
これは、後天的な恐怖症などを考える上で重要な観点でしょう。
平山はさらに、日常的に「恐怖」と言ってるものが実は「不安」なのではないか、我々が恐れている感情の多くは恐怖ではなく不安なのではないか、と述べています。
この点は個人的に非常に同意する点ですが、それについてはまた追い追い触れていきます。
まとめ:恐怖の定義
さて、色々と見てきたところで、本サイトにおける恐怖の定義を固めておきましょう。
上述した以外にも、恐怖に関する研究は進んでいます。
たとえば、脳神経科学的には、扁桃体という部位が大きく関連していることが明らかになっています。
しかし、ここでは恐怖とは何かを定義したいのであり、情動のモデルにせよ脳科学的な説明にせよ、メカニズムの解明やモデルの構築が目的ではありません。
恐怖の定義という第一歩に立ち返ると、結局は辞書的な定義にほぼ落ち着きます。
これまで見てきたポイントも踏まえて、ここではシンプルに、以下のように定義しておきましょう。
恐怖とは、脅威となる対象に対して生じる、死の危険性を回避するための反応である。
ここで言う脅威とは、生命を脅かす可能性のある対象です。
つまり、死の危険性を回避するために備わっているのが、恐怖という感情なのです。
細かくは今後触れていく予定ですが、個人的には、すべてこの点に収斂していくと考えています。
色々なものがなぜ怖いのか?
恐怖が不快な感情であるならば、なぜ人はホラーを楽しめるのか?
ひとまずはこの定義を前提として、今後の検討を進めていきたいと思います。
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