【映画】ザ・ウォッチャーズ(ネタバレ感想・心理学的考察)

映画『ザ・ウォッチャーズ』のポスター
(C)2024 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED.
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作品の概要と感想(ネタバレあり)

映画『ザ・ウォッチャーズ』のポスター
(C)2024 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED.

28歳の孤独なアーティストのミナは、鳥籠に入った鳥を指定の場所へ届けに行く途中で、地図にない不気味な森に迷い込む。
スマホやラジオが突然壊れ、車も動かなくなったため助けを求めようと車外に出るが、乗ってきた車が消えてしまう。
森の中にこつ然と現れたガラス張りの部屋に避難したミナは、そこにいた60代のマデリンと20代のキアラ、19歳のダニエルと出会う。
彼らは毎晩訪れる“何か”に監視されているという──。

2024年製作、アメリカの作品。
原題も『The Watchers』。

M・ナイト・シャマランの娘、イシャナ・ナイト・シャマランの長編初監督作品。
弱冠24歳。
M・ナイト・シャマラン監督の近年の作品である『オールド』や『ノック 終末の来訪者』でも、セカンドユニットの監督を務めていたようでした。

最初に出てくる感想としてはやはり、「シャマランDNA、強すぎる……!」でしょうか。
それは作品に対しての印象ですが、オフィシャルサイトのインタビュー映像などを見ると、顔立ちもとても似ています。

もう、観る前の「予告を見ても、内容や方向性がまっっったくわからない」感覚も含めて、まごうことなきシャマランみ。
とはいえ本作はM・ナイト・シャマランも製作に名を連ねているので、それは必然かもしれません。

感想を見る限りは賛否両論のようですが、前半のホラーから後半はファンタジー度が増していくので、好き嫌いが分かれ得るのも納得です。
個人的には、あまりファンタジーは求めていないのですが、ホラーとファンタジーを程よく統合した本作のバランスは好きでした

前半の緊迫感は素晴らしく、前半の方が好きでしたが、全体としても個人的にはかなり好きな1作。
脱出したところで簡単に終わらせず、二転三転しさせながらだいぶ丁寧にまとめ上げられていた印象です
本作はそもそも原作小説もあるようなので、今後はさらに個性を発揮した作品も期待したいと思えました。
緊迫感の点では音楽がかなり良い仕事をしており、何回か流れていたメインっぽいバイオリン(たぶん)を中心とした曲が格好良かったです。


イシャナ・ナイト・シャマラン監督のインタビューでは、「この映画でもホラージャンルに対する観客の期待と“お決まりごと”を利用して、皆さんが思っていることを完全に覆したいと思っています」と述べられており、さすがシャマランの娘、といった想いはどうしても出てきてしまいます。
ただ、さすがに大きすぎる父親なので、本人も「シャマランの娘」として見られるのは重々承知の上でしょう。
その重圧を受けながらの本作は、非常に素晴らしかったと思います
父親に乗っかるでもなく、反発しすぎるでもなく、父親から受け継いだものへのリスペクトを踏まえた個性が感じられました。

「見る」「見られる」というメインのテーマが、作品の中で入り乱れるところも面白かったです。
監視者に見られる。
隠しカメラを設置して監視者を見る。
過去の映像を見る。

インタビューでは以下のようにも述べられており、「見る」ことへのこだわりが感じられます。

「常に人に監視されている、評価されていると感じるのは、現代では一般的な感覚だと思います。同時にそれは、私にとってとても怖いことでもあります」と、イシャナは本作の主題である、“見られる”や“監視”というキーワードがSNS社会に通じていることだと明かす。
「映画を作りながら、私はその恐怖をより強く感じることになりました。なので潜在意識的な感覚として、それを映画のなかに落とし込むことにしました」。

https://moviewalker.jp/news/article/1200559/

作中でのこだわりもそうですが、今はまだ「M・ナイト・シャマランの娘」として見られることは回避できない、イシャナ・ナイト・シャマラン監督自身の苦悩や恐怖も影響しているのではないかと感じられます

作中で見ていた恋愛バラエティ番組も、「人間模様を覗き見る」という点においてメタ的な構成になっていて面白かったです。
しかし、あの恋愛バラエティ番組のDVDはローリー・キルマーティン教授の私物でしたが、わざわざあんな場所まであのDVDを持ってくるというのは、なかなかマニアックですね(失礼?)。

の魅せ方も非常に巧みでした。
そもそものマジックミラーな「鳥籠」のデザインも良いですが、鏡の前に4人が横に並ぶという画が象徴的で、ポスターにも使われている通りその絵面だけで芸術性が感じられます
意識しているのかわかりませんが、並んだ4人が背を向けている『ノック 終末の来訪者』と通ずるものを感じるのも興味深い。

ただ鏡の前に並んでいるだけなのに、得体の知れない存在に見られていると思うだけで恐怖感が伴うのも、とても面白いポイントです。
見えない分、無限に想像が広がっていくことを活かした演出も巧妙でした。

それだけに、いざ監視者の正体がわかってからが勝負の作品でもありました。
大抵、対象が姿が明確になるにつれて恐怖感は薄れてしまうものですが、本作ではそこから路線変更することで、右肩下がりになってしまうことを回避していました
ひょろ長いウォッチャーズの姿は、たくさん出てくると『進撃の巨人』で、脱出前に川沿いにずらっと並ぶシーンはちょっと滑稽になってしまっていましたが、許容範囲。


ベースは、アイルランドの民話のようです
妖精譚として「チェンジリング」というものがあり、「妖精たちは日本における神隠しのように、時おり人間の子ども(時には妊婦も)を自分たちの国へ連れ去り、代わりに妖精の子や木切れを置いていく」という伝承。
そもそも「フェアリー(妖精)」も、アイルランド民話なりの定義があるようでした。
そのため、本作を本質的に理解するには、そのあたりの知識も必要なのでしょう。

原作は、日本語訳版は出ていないようで読めていません。
また、民話や神話系、しかもアイルランドとあってはかなり疎く、その観点からの考察は他の詳しい方にお任せするとして、ここでは少し心理学的な視点から考察してみたいと思います。

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考察:ミナが自分と向き合う物語(ネタバレあり)

映画『ザ・ウォッチャーズ』のシーン
(C)2024 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED.

さて、本作は進むにつれてファンタジー色が強くなるので、「よくわからない」と感じる点も多々ありました。
解釈はかなり多様でしょうが、ここでは心理学的に見てみると、本作はミナがこれまで避け続けていた自分自身と向き合う物語とも解釈できます

ミナは「自分のせいで母親を殺してしまった」という罪悪感に苛まれていましたが、(おそらく)双子の姉ルーシーとは距離を取り、目を背け続けるという選択を取っていました。
それは、本当の自分からは目を逸らし続けるということです
母親の命日の夜、別人になりすまして夜の街に出かけたのがそれを象徴しています。
この夜ほど極端ではなくとも、普段からペルソナ=仮面を被って生きているのがミナでした。

しかし、どこかで「向き合わないといけない」という気持ちも持ち続けていたのでしょう。
それが実行されたのが本作の内容でもあり、一種のミナのトラウマ克服のプロセスでもありました。


本作の主な舞台は地図にない森の中というシチュエーションでしたが、ただの現実の延長にある非現実的な舞台として捉えるよりも、ミナの無意識的な領域として捉えた方が理解しやすくなります
構図としては、『変態村』に似ているでしょう。
『変態村』を知らない方にはタイトルでドン引かれているかもしれませんが、たぶん邦題から想像するのとは全然違う、しかし完全に間違っているわけでもない、個性強すぎるベルギーの映画です。

『ヘンゼルとグレーテル』や『不思議の国のアリス』のように、深い森や地下というのは、無意識世界の象徴として描かれます
特に本作において、森が無意識世界を象徴していることが顕著なのは、ミナが森を通るきっかけとなった鳥の存在です。
鳥はしばしば昔話や御伽噺において、魂や精神の象徴であったり、無意識へと導く案内人として描かれます。

森自体が惑わしてくるというのは、ウォッチャーズだけが特異な存在なのではなく、森そのものが異質であることを示しています。
ミナを惑わすものは、常に母親の幻影でした。
ミナにとって、やはり母親のことが非常に大きなトラウマであることを示唆しています。

森に迷い込んだミナが出会ったのは、3人の人物と、ウォッチャーズ。
3人の人物は、ミナの心的要素の具現化と捉えることもできます
融通が利かないほどに、規律やルールを重視するマデリン。
素直な気持ちのままに、時には衝動的に行動してしまうダニエル。
優しさを持ち合わせ、両者のバランスを取るキアラ。
精神分析的には、超自我、エス(イド)、自我と呼ばれるものに該当します。

ミナ自身を含めた彼らは、一方的に観察されます。
無意識は、自分で気がつけないから無意識なのです。
一方で、無意識の側はいつも自分を見てきて、影響を与えてきます。

あまりに自分の気持ちを抑え込みすぎると、無意識が暴走することがあります。
それはまさに、自分が自分でなくなるような、無意識に自分が乗っ取られるような体験です。
自分の姿をしているのに、自分ではなくなってしまうのです。

上述した通り、地下というのもまた無意識を象徴する空間です。
森の中の地下深くというウォッチャーズが封印されていた場所は、さらなる深層意識を連想させるものでした。
心の奥深くに閉じ込めていたものと向き合うということは、自分を乗っ取られるリスクを伴っているのです


本作では、父親的な存在が不在であるのも特徴的でした。
「父性」的な存在が不在だったわけではなく、あくまでも「父親」的なポジションの男性が出てこなかっただけで、規律に厳しいマデリンはむしろ父性的な要素が強い存在でした
これは、ミナの母親を彷彿とさせます。

ミナの家族も、詳しい状況はわかりませんが、父親はいないように見えました。
母親が亡くなった車の事故が起きる直前、車の窓を開けていたミナに、母親は「何でルールを守れないの」といった台詞で叱っており、母親が父性的な役割も担っていたことが窺えます。
それに対してミナは反発し、事故が起こりました。

この構図は、森の中で起きた出来事と同じです
ルールを守らせようとするマデリンと、それに「自分のルール」で反発するダニエル。
現実と同じように、ルールへの反発が全滅の危機をもたらしつつも、力を合わせることで乗り切り、むしろ状況の打開へと繋がります。
マデリンがミナに対して「あなたのことはよくわかっている、自己中心的だし怒りっぽい」的な台詞(うろ覚え)を述べていたのも、マデリンの観察力が優れているだけかもしれませんが、母親との同一性を示唆しているとも考えられます。

母性的な存在はキアラでしたが、彼女は踊りが得意なようで、鏡の前での踊りはバレエのように見えました。
これは、母親の命日の夜に「キャロライン」というバレエダンサーを名乗ったミナを思い出させます。
包み込むような優しさと強さを持ち合わせていたキアラ。
ミナの憧れが投影された存在だったとも捉えられます


このように、森の出来事はミナの潜在意識と重ね合わせると、理解しやすくなる部分も多々あります
鳥籠の維持問題とか、トイレやお風呂問題とか、長期間囚われていた割にあまりやつれていないとか、現実的なツッコミどころは散見されますが、大きなプロセスとしては、それらのリアリティはあまり重視されていないはずです。
もちろん、シンプルにサバイバルものとしても楽しめるように、最低限のリアリティは保持されていましたが、あまり細かく突っ込むのは的外れになってしまうでしょう。

ミナが自分と向き合い、目を逸らしてきた自分のネガティブな側面を統合し、トラウマを乗り越えるプロセス。
そう考えると、森における三つのルールの一つ、「鏡に背を向けてはいけない」というのもわかりやすくなります。
現実的に考えるといまいち理由がよくわからないルールですが、自分と向き合うことに背を向けてはいけない、ということです。

脱出の際にダーウィン、つまり鳥を追ったのも象徴的で、これは迷い込んだ時とは異なり、明確な道筋を示すものです
そもそも序盤は、ダーウィンが直接導いたわけではなく、ダーウィンを運ぶという仕事の途上での出来事でした。
『ヘンゼルとグレーテル』に照らし合わせれば、序盤の鳥はパンを啄んだ小鳥で、終盤の鳥は2人を家へと導いたカモに合致します。
これもまた無意識の流れを示す「川」を渡って現実へと戻ったところも、まったく一緒です。
「囚われいてた鳥籠から解放されたダーウィンが導き、ミナが鳥籠から脱出する」という構図は、あまりにもストレートと言えるでしょう

ダニエルの死については、過去の「ルールを破ったミナ」の救済であるとも考えられます。
ミナは、自分のせいで事故が起こり母親が死んだという過去からも、傷ついているはずの姉のルーシーからも目を背け続けていました。
結果として脱出に繋がったとはいえ、ミナと同じく自分のルールで他者を危険に晒したダニエル。
しかし彼は、最後にジョンを、傷ついた他者を、自分の危険を顧みずに助けようとしたのです。
その死は、自分のことしか考えなず目を背けるミナの死であり、傷ついた者に向き合い寄り添うミナの誕生とも言えます


しかし、過去や自分の闇と向き合うことができてめでたしめでたし、と綺麗事では終わらないのが本作です。
ハーフリングことマデリンことアインリクタンとの対決。
人間とウォッチャー(というか妖精)のハーフであるハーフリングの彼女は、おそらくウォッチャーズ側にも馴染めていなかったのでしょう。
人間側からも、過去の戦争において「人間側」とは見做されていなかったのは明らかです。
どちらにも所属できず、本当の自分を押し殺し、擬態することで生きていた彼女。

擬態する必要はない。
人間の血も、妖精の血も、否定する必要はない。
同じような仲間がいるはずだ。
それを教えたのはミナでしたが、それはそのまま、自分に向けた言葉なのでしょう。
白か黒かどちらかではなく、どちらもあって自分なのです。
過去と向き合った上で、目を背けたい自分の一部も自分として受け入れ、統合するプロセス
さらにそれは、マデリン=母親と向き合い、(自分を)赦すプロセスでもありました。

そのプロセスを経たことによって、最後はルーシーに会いにいくことができました。
同じダコタ・ファニングが演じていることからは、おそらく双子なのでしょう。
同じ顔が向かい合っているところは鳥籠を想像させますが、ルーシーの顔には傷(事故でできたもの?)がありました。
その顔を直視できるようになった、というのが、今のミナを表すすべてでしょう

ダーウィンも、もはや鳥籠に閉じ込められることなく、部屋の中を飛び回っていました。
しかし、アインリクタンはミナを監視し続けていました。
再びミナが自分から目を逸らすようになったら襲われるのかもしれませんが、白と黒が共存している自分と向き合い、それを踏まえて他者と向き合うことを自らアインリクタンに見せるミナの姿は、アインリクタンにとって希望でもあるのではないかと考えられます。

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