作品の概要と感想(ネタバレあり)
タイトル:母性
著者:湊かなえ
出版社:新潮社
発売日:2015年7月1日
女子高校生が、自宅の県営住宅の中庭で倒れているのが発見された。
これは事故か、それとも──。
2022年11月に映画化も予定されている作品(※映画版もアップしました)。
主に「母(ルミ子)の手記」と「娘(清佳)の回想」を交互に繰り返しながら、徐々に事態が明らかになっていく物語。
その構成は圧巻としか言いようがありません。
それぞれの思考プロセスまで深掘りされたキャラクタ。
さらにはしっかりとミステリィ的なトリックな要素も含まれ、ただの病んだ母娘関係のドラマでは終わらないところが湊かなえ。
最後まで名前が出てこないところも、ほとんど気が付かないほどの自然さでした。
しかしとにかく、「イヤミスの女王」湊かなえらしさといえば、何とも言えない毒性を持った登場人物たちでしょう。
『母性』に登場する人物たちも、決して悪人なわけではありません。
けれど、自然と周囲に毒をまき散らし、蝕んでいくような人々。
『母性』は、結局どこに真実があったのかはわかりません。
文庫版の解説でも言及されている通り、「信用できない語り手」のぶつかり合いからしか、読者は読み解くことができません。
そもそも湊かなえが「信用できない書き手」(褒めてる)であり、真実は何であったのか、どちらが正しかったのか、を考察するのはナンセンス。
心理臨床、いわゆるカウンセリング的な場面においては、本作に登場するような母娘関係は、決して珍しいものではありません。
また、カウンセリングにおいては、真実がどうかだけでなく、「本人がどう感じているか」という主観を大切にします。
ルミ子の手記、および清佳の回想は、いずれも客観的な現実とは異なる部分が多々あるはずです。
どちらが正しいではなく、どちらも正しくないかもしれない。
それでも、彼女たちが内面で感じていることは真実なのです(嘘を書いている可能性はありますが)。
最後はハッピーエンド風に終わりますが、「すっきりしたぁ、幸せになって良かったぁ」と感じる人は少ないのではないかと思います。
ハッピーエンドなのかどうかは意見が割れるかもしれませんが、でも、湊かなえですよ、湊かなえ(褒めてる)。
「愛能う限り」という表現に、「本当に愛していたらわざわざ使わなくない?」という引っ掛かりを覚えた、大人になった清佳。
そんな清佳が、わざわざ「ドアの向こうにわたしを待つ母がいる。こんなに幸せなことはない」と言って終わるのは、個人的にはめちゃくちゃブラックな終わり方に感じました。
小説『母性』を超えて、概念としての「母性」までしっかりと考察しようとすれば、余裕で1冊の本になります。
心理学的な観点のみならず、生物学的な観点、文化人類学的な観点、ジェンダーやフェミニズムを含めた社会学的な観点など、切り込み方も無数にあります。
小説『母性』の考察であっても、たとえばリルケの詩から読み解くような、文学的な考察もあり得るでしょう。
「家族」という問題提起でも、延々と続けられそうです。
後半ではあくまでも心理学的な観点、そしてなるべく「母性」という概念全体や家族・社会的問題に話を広げ過ぎず、小説『母性』に関する枠組みの中で考察していきたいと思います。
考察:母性の二面性と、父性はどこに?
母性の二面性
母性とは何か。
それは『母性』における大テーマの一つでもありますが、辞書的な答えを提示して意味があるものでもなければ、何か一つの答えを導き出すことを目的とした作品でもありません。
とはいえ、ある程度は母性に対する心理学的な観点に触れておかないと考察がわかりづらくなるので、できるだけ最小限にまとめておきます。
作中、大人になり高校教師になったらしい清佳は、「母性」について辞書を引きます。
そこには、「女性が、自分の生んだ子を守り育てようとする、母親としての本能的性質」と書かれていました。
これはもちろん、間違いではありません(何と言っても辞書なので)。
本能レベルで母性が皆無であれば、そもそも未熟な状態で産まれてくる人間の子どもは育つことができません。
存続している動物である限り、子孫繁栄を目的とした遺伝要因は、必ずあります。
しかし、遺伝的要因であっても、全員が等しく発動するとは限りません。
辞書にも上記のように書かれているほどなので、「本能的なもの」「女性が持っているべきもの」と思われがちな母性ですが、基盤となる部分は本能的に有しているのは確かながら、母性的行動は、後天的に学習されるものが大部分とされています。
それはつまり、子どもに愛情を持って関わるすべての大人が母性的行動を取ることを可能にします。
逆に言えば、実母であっても、環境要因等によって母性的行動が妨げられることもあるのです。
例を一つだけ挙げておけば、「バリバリ働きたいのに子どもがいることでそれがうまく叶わず、子どもが邪魔に感じてしまい、イライラしたり冷たい態度で接してしまう」などです。
それは、母性の問題ではなく、家族全体や社会的な仕組みなどの問題です。
『クレイマー・クレイマー』という映画では、両親の離婚に伴い、どちらが親権を得るかが問題となります。
しかし、最初は母親が一人で家を飛び出していったので、これまで仕事ばかりで家庭を顧みなかった父親が、息子の世話をしないといけなくなります。
最初はお互いぎこちなく、息子側も反発していますが、徐々に深まっていく絆。
そこには多分に母性的な関わりも含まれていました。
櫛木理宇『死刑にいたる病』や我孫子武丸『殺戮にいたる病』といった小説の考察などでもたびたび触れていますが、男性にも母性的な側面はあります。
もちろん、女性にも父性的な側面はあり、バランスに違いはあれど、どちらかだけということはあり得ません。
なので、一人親家庭だからといって必ずしも問題があるわけでもなく、両親が揃っていても機能していなければ大きな問題が生じることもあります。
農作物などが生まれ育つことから、母性は大地などに同一視されることも多いのですが、これは「包み込んで、産み出し、育てる」という肯定的な側面です。
古来、農耕を中心としてきた民族である日本は母性社会と指摘されており、神話などに登場する神も女性が多く見られます。
一方、大地には「すべてを呑み込み死に至らしめる」側面もあり、これは母性の否定的な側面です。
「母性」というと、無条件で子どもを愛するといったようなポジティブな文脈で語られることが多いですが、こういった負の側面もあることから目を背けると、歪みが生じることを忘れてはいけません。
過保護がゆえに、子どもの自立を妨げるといったこともあり得るのです。
『母性』における母娘像
さて、このまま理論的な話を続けると飽きてくることは確実なので、『母性』の話に戻ります。
本作には、「母と娘」という構図が、複数登場します。
ルミ子とその母親。
ルミ子と清佳。
ルミ子の夫である田所哲史の母親と、その娘の律子と憲子。
そして、哲史の母親とルミ子も、義理とはいえ母子関係にあります。
本作を読んで一番問題を感じるのは、中心人物の一人であるルミ子である方がほとんどではないかと思います。
初っ端から怪しい雰囲気を感じさせますが、その予感は徐々に確信的なものになってます。
母親がすべてであり、「母に喜んでもらうため」ということだけが価値観や行動の基準と言っても過言ではありません。
さらには娘である清佳に対しても、自分を飛び越えて、清佳にとっては祖母にあたる母にいかに喜んでもらえるかを求めます。
ルミ子はまさしく母性に呑み込まれている娘であり、幼少期の母子一体感からまったく抜け出せていません。
乳幼児期は、泣けば母親が授乳してくれたり世話をしてくれる。
適切な母子関係であれば、自分が望むことが何でも叶う万能的な感覚が得られます。
しかし、実際の世界はいつまでも母親が願いを叶えてくるものではありません。
それを学んでいきながら、徐々に母親から離れ、成長していくのです。
しかしその過程で、子どもを手離そうとしない母親も多く、それは過保護や過干渉といった形で現れ、子どもの自立を妨げます。
その場合は、子どもは呑み込まれて社会に出ていけなくなるか、極端に反発して問題行動として現れることも少なくありません。
子離れできない親、過保護な親の問題は、すでに広く知られているところです。
しかし一方で、子どもが親から離れられないことも近年では多々あります。
特に母娘関係に多く、親子というよりまるで親友のような関係性で、秘密もなくすべてを共有する関係。
そうなると、子どもは子どものまま心理的に成長できなくなります。
親に対する「秘密」を持つことは、自立のプロセスの一つです。
過保護・過干渉な母親の対極にあるのが、このような「精神的に娘のままの母親」です。
彼女らにとって、自分の子どもはペットのような感覚で、自分と母親の関係性を深めるための道具でしかありません。
この形態が極端に現れているのが、ルミ子です。
それは裏を返せば、自分の中に明確な軸がなく、自主性や自分で判断する力がないということです。
母親がいないと自分が成り立たない、いわば依存的な存在。
それらと社会性のなさも合わさったためにマインド・コントロールされやすい条件が整い、中峰敏子・彰子姉妹にあっさりと引っかかってしまったのでした。
本作の時代背景は、学生運動が1970年頃のようなので、
・哲史がその時代に大学生だった
・哲史の年齢がわかりませんがだいたいルミ子のちょっと上ぐらい
とすれば、1970年代〜1990年代頃がメインであると推察されます。
しかし、このような「精神的に娘のままの母親」は、ここまで極端ではなかったり形は少し変われど、現代でも少なくないというのが臨床上の実感。
ルミ子は永遠に娘であり、少女です。
なので、母親がすべてであり、自分で判断ができず、厳しい現実からは目を背け、都合良く自分だけの世界を描きます。
母親が死してなお、そこから抜け出すことができませんでした。
そのため、ルミ子は娘・清佳が生まれても、母性ある母親としてほとんど機能していませんでした。
むしろ、清佳が母性を感じていたのは祖母であるルミ子の母です。
清佳は祖母に対して「無償の愛を与えてくれた」「この世でたった一人、わたしを愛してくれた」と表現していましたが、まさにそれこそが、母性の肯定的な側面になります。
「無条件の愛」とも言いますが、存在そのものを認め、包み込むような愛です。
一方で、「勉強ができたら褒める」「親が望む行動をしたときだけ優しい」といったようなものは、「条件つきの愛」と言います。
後者の場合、子どもは自分の存在自体が認められているように感じられず、親の顔色を窺い、自分の気持ちよりも親が望む行動を取ろうとする傾向が強くなります。
清佳に対するルミ子の愛情は、まさにこの「条件つきの愛」でした。
しかも、「ルミ子の母親が望んでいるだろうとルミ子が思い込んでいる言動」をしたときのみ認められる、というややこしさ。
結局、ルミ子の視線は空想の中の母親にしか向いていないのです。
ルミ子にとって清佳という存在は、母親に喜んでもらうため、自分が母親から褒めてもらうための道具の一つであったと言っても過言ではありません。
それは、ルミ子の母親が亡くなっても変わることはありませんでした。
ルミ子が田所家に尽くすのも、母亡きあとに清佳に望む行動も、「いつかまた母親に褒めてもらうため」だったのです。
当然ながら、清佳の心は歪んでいきます。
そのメカニズムまではわかっていなかったかもしれませんが、清佳の主観は、明らかにルミ子からの愛情不足を感じていました。
その割にはまっすぐ育ったと言えますが、それは祖母(田所家のではなくルミ子の母親)の存在や、要所要所で辛うじて存在感を示した父親・哲史の影響があったと思われます。
ただ、大きかったのは、いずれ結婚まで至る彼氏・中谷亨の存在でしょうか。
家庭に問題があれば、必ず子どもに問題が生じるわけではありません。
取り巻く人々や環境によって、人はいくらでも変化します。
それでも、中谷亨と接近するようになったのも「おばあちゃんのように足を挟んで温めてくれたから」であり、亨に対しても求めていたのは「自分の存在を優しく包み込んでくれる」母性的な愛情であったのではないかと考えられます。
父性の不在
さて、こうやって見てみると、ルミ子も清佳も、ルミ子の母親にとらわれていた構図が見えてきます。
では、問題の根源はルミ子の母親にあったのでしょうか。
ルミ子の母親の「呑み込む力」に問題があったのか。
そういった側面も否定できないかもしれませんが、ルミ子の母親は、基本的にバランスの良い、真に他者のことを思いやれる人格に見えました(過保護傾向ですが)。
おそらく、ルミ子の母親が問題であったということではなく、大きな要因であったのが、父性の不在です。
母娘関係、そして『母性』というタイトルからは、女性の登場人物や母性的な面ばかりに目が向きがちですが、母性と父性はセットであり、切り離して考えると視野の狭い捉え方になってしまいます。
母性は、受け入れ、包み込み、癒す側面が強い概念です。
一方の父性は、断ち切る機能を持ち、厳しさや規範を示し、正しい方向に導くといったことに象徴されます。
人工的にミルクを与えられるようになったのは、人類の長い歴史で見ればほんの短いものです。
基本的にずっと、乳幼児の生命線となるのは母親(あるいはその代わりとなる女性)の存在でした。
さらに言えば、ただただ機械的に人工的なミルクで栄養をあげているだけでは、乳幼児の死亡率は上がるのです。
そこには(実母に限らず)愛情やスキンシップが必要であり、その事実は孤児院などの活動にも活かされるようになりました。
さておき、乳幼児にとって基本的に世界のすべては母親であり、適切な母親であれば、子どもにとってはずっと留まっていたい安心できる世界です。
そこに「初めての第三者」として現れるのが父親であり、母子密着の万能感から社会に引き出す役目を担います。
この父性が弱いと、子どもは規律を見失い、社会に出てくことが困難になります。
日本はそもそも母性社会であるとすでに述べましたが、母性的な側面が強いだけでなく、父性が弱いことも特徴です。
また、真の父性はもちろんただ厳しいだけではなく、愛情のある厳しさであり、子どもに「こうなりたい」「こういう男性に憧れる」といったような理想像やロールモデルを示します。
ただただ威圧するだけの、『新世紀エヴァンゲリオン』に出てくる碇ゲンドウのような父親は、子どもを萎縮させて自立を妨げるだけであり、父性の負の側面です。
文庫版の解説でも触れられていましたが、『母性』においてはとにかく男性陣の影が薄い。
ルミ子の父親は、ルミ子が短大時代に早逝しています。
どのような人物であったかはほぼまったく描かれていませんが、ルミ子を見るに、父性が強い人物であったようには思えません。
母親同様に優しかったか、存在感がなく影の薄い父親であったかのいずれかであったのだろうと想像します。
ルミ子の夫であり清佳の父である田所哲史も、どんどんと影が薄くなっていきます。
たまに存在感を発揮したり、虐待を受けていた背景なども語られますが、いずれにせよ、妻や娘を守るような強い父性は窺えません。
また、清佳に対してルミ子の代わりに包み込むような母性的役割を示すこともできていませんでした。
むしろ、自分のせいでルミ子の母親が死んだのではないかという罪悪感などがあったとはいえ、それらから逃避して不倫に走っていた上に、不倫相手の家に娘が乗り込んできてなおしっかりと向き合うことができない始末です。
それは、「こうなりたい」と思うような理想像とはかけ離れた存在です。
ルミ子の父親と、田所哲史。
これらの存在が、言い換えれば彼らによる父性の不在が、ルミ子が母性に呑み込まれ、娘であることから抜け出せないままであった要因であることは間違いありません。
ルミ子の手記と清佳の手記は、大事なところで見事なまでに認識が食い違っています。
そしてその大部分は、お互いの思い込みによるものです。
「だから家族での対話って大事だよね」で済ませてしまうのは、安直な結論です。
その背景には父性の不在があり、最後の最後で「清佳!」と名前を呼んだルミ子の姿からは今後に希望も見えますが、中谷亨の存在も含めて、父性に乏しい構図は最後まで見える範囲では変わっていません。
それもあって、個人的にはとてもハッピーエンドとは思えない不穏さを感じる作品なのでした。
追記
映画『母性』(2022/12/03)
映画版『母性』の感想や、小説と異なる部分の比較・考察の記事をアップしました。
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