【映画】母性(ネタバレ感想・心理学的考察)

映画『母性』のポスター
(C)2022映画「母性」製作委員会
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作品の概要と感想(ネタバレあり)

映画『母性』
(C)2022映画「母性」製作委員会

湊かなえの同名小説を映画化し、戸田恵梨香と永野芽郁が母娘役を演じたミステリードラマ。
ある未解決事件の顛末を、「娘を愛せない母」と「母に愛されたい娘」それぞれの視点から振り返り、やがて真実にたどり着くまでを描き出す──。

2022年、日本の作品。

まずざっくりした感想としては、かなり原作に沿った作りでした。
ただ、やはり時間の都合で色々な部分は省略されています。

そのため、映画だと若干繋がりがわかりづらかったり強引な部分もあるので、原作小説未読の方はぜひ読まれてみてください。
小説は映画で描かれた以外にも色々なエピソードがありましたが、無駄なシーンが何一つなかったな、というのを改めて感じました。

原作では、母と娘それぞれの回想の形式を取っているので、心情の描写がとても多めでした。
その絡み合い、そしてそのすれ違いこそが『母性』という作品の本質であるため、映画化はとても難しかったはずです。

というより、そもそも映画化にかなり無理がある作品、というのはどうしても思ってしまいます。
『母性』というタイトルに込められた様々な想いを理解するには、原作のすべてのシーンが欠かせないからです。

ただ、それを言ったらおしまいになってしまうので置いておくとして、その中でこれだけ成り立っていたのは、やはりこのキャスト陣だったからでしょう。

特に、戸田恵梨香の振り幅は尋常ではありません。
疲れた表情も見事でしたが、肌がつやつやなのが逆に仇となってしまっていたぐらいでした。
いや、それも毎晩鏡に向かっていたルミ子の意地だったかもしれません。

しかしとにかく、高畑淳子ですね。
もう圧巻すぎて、正直、記憶の大半が高畑淳子です。

口うるさい女性としては、唐沢寿明と江口洋介版のテレビドラマ『白い巨塔』における高畑淳子の印象が強烈に残っています。
あちらは「口うるさいけれど上品な奥様」といった風でしたが、本作ではまたまったく異なるインパクト。
それなのに「演技が上手い」を超えて、「本当にこういう人をどこから連れて来たんじゃないか?」とすら思わさせるほどでした。

その他キャストも安定で、演技で心情が描かれたからこそ、映像化されてもこれだけ成り立っていたと思います。


ただやはり、原作の映像化として見事でしたが、原作小説ありきという印象はどうしても否めません。
映画単体で見ると、だいぶ表面的な捉え方になってしまうのではないかな、という懸念もあります。

個人的に、映像化に際してイメージと違ったのは、焼け落ちてしまった「夢の家」でした。
思ったより木立に囲まれていましたが、もう少し陽の当たる明るい場所にあったイメージ。

基本はかなり原作に忠実ながら、端折られた部分があるのは上述した通りですが、逆に映画オリジナルの演出もありました。
この記事の後半では、主に原作小説と比較しての映画版、そして映画版オリジナルの演出について考察していきたいと思います。

本質的な部分の考察は原作と共通しているので、以下の記事もご参照ください。

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考察:原作小説との比較を中心に(ネタバレあり)

映画『母性』のシーン
(C)2022映画「母性」製作委員会

以下、原作である湊かなえの小説『母性』についてもネタバレを含みます。
本質的な部分での大きな違いはないので未読でも問題ないと思いますが、細かい設定やラストの描かれ方の違いなどにも触れるので、念のためご注意ください。

設定の変化

時間の都合もあってか、映画の登場人物たちは全体的に単純化されていました
そのため、原作と比べるわかりやすい一方で、やや人間としての厚みは薄くなっています。

たとえば、田所哲史。
原作では、彼は妊娠したルミ子を気遣って料理を作ったり、娘の清佳にルミ子に対する思いを吐露した場面もありました。

他にも、原作では「夢の家」で火事があった際、田所がルミ子と清佳を救出しています。
しかし、彼が燃えている家を見てまず取った行動は、玄関にあった絵を外に出すことでした。
そんなことをしていなければ、ルミ子の母親(原作ではハサミで頸動脈を切ったのではなく舌を噛んで自殺)も救えたかもしれない。
そんな罪悪感が、田所家に引っ越してからのルミ子への距離感や、仁美との不倫に走った一因にもなっていました。

それらの設定がなくなっている、あるいは背景にはあるにしても端折られているため、映画での田所は「ただの超ダメ男」と化していました。
他のキャラも同じように、たとえば義母もただただ騒がしい癇癪おばさんになってしまっていたり。

削られたエピソードとしては、何回か出てきたハンドクリームのやり取りや、ルミ子の第2子流産のくだりは、かなり重要だったのではないかな、と思います。
ただ、後者は特に、入れるとなると相当時間使いそうなので、やはり仕方ないでしょうか。

この単純化は、「母娘」の図式にも見られます

設定でもっとも大きな変化があったのは、田所家でしょう。
小説では健在だった義父がいなくなっていたり、何より大きいのは田所家の長女・憲子とその息子・英紀の存在が消えていた点です。
嫁いだまま帰ってこない設定というよりも、そもそも存在が消されていたと考えられます。
つまり、田所家の娘は律子1人だけになっていました。

「母娘」と「母性」

この田所家の単純化は、もちろん時間の都合もあるでしょうが、プラスの側面としては「母娘」という1対1の関係性がわかりやすくなっていました
つまり、姉妹という複雑性は排除され、「ルミ子の母ールミ子」「ルミ子ー清佳」「義母ー律子」という3つの母娘関係だけが残されました。

これにより、それぞれの関係性が比較して見やすくなります。
こうして単純化された比較で見ると、実は母性という意味では義母が一番母性的だったのでは、と思えて来ます。

言動が乱暴で癖があり過ぎる義母ですが、心から律子を可愛がっていた様子が窺えます。
まぁ、過保護であり、律子は変な男に引っかかって駆け落ちしていったぐらいなので、こちらも決して上手く噛み合っていたとは言えないはずではありますが。

「女性には2種類ある。母と娘」というのは、やや清佳特有の極端な2択であるようには思いますが、永遠の娘であり母親になれていなかったルミ子に対して、義母はしっかりと「母」ではありました
それを象徴するのが、首を吊った清佳を目撃した際、呆然と立ち尽くすルミ子と、真っ先に駆け寄った義母という構図でしょう。

認知症になった際、ルミ子を自慢げに「娘」と言っていたのが印象的であり、やはり「母親」であることを痛感します。
勝手な想像ですが、ルミ子は認知症になったら、清佳(なり他の女性なり)を「お母さん」と呼びそうな気がしてなりません

映画独自のシーン

原作から削られた部分が多々ある一方、それを補う形で映画版オリジナルの表現がいくつか見られます。
映画版において、当然ながらそこには重要な意図が込められているはずです。

まず序盤から圧倒的なインパクトを放ってきたのが、ルミ子が清佳を妊娠した際のセリフです。
それは「お腹の中の命を育てることは、絵を描くことや花を育てることに似ている。心を込めて上質な作品を作り上げる。母のために」といったようなセリフだったと記憶していますが、このような主旨の考えは原作では出てきません。

これ、相当エグいですよね。
時間が削られて丁寧に描けない中で、「自分の子どもですら、自分が母親から愛してもらうためのツールに過ぎない」というルミ子像をしっかりと提示してくるセリフでした。


また、原作では、

「母性について(第三者視点)」
「母の手記(ルミ子視点)」
「娘の回想(清佳視点)」

が何度も入れ替わりながら物語が進んでいきますが、映画では、

「母の真実」
「娘の真実」
「母と娘の真実」

という順番で進んでいきました。

このネーミングの付け方も秀逸でした。
詳しくは原作の感想で書きましたが、彼女らが捉えている世界は、彼女たちの内的世界においてはそれぞれの真実なのです。

人間はそれぞれ、物事に対する自分なりの捉え方の枠組みを持っており、それを心理学では「認知」と呼びます。
同じものを見たり聞いたり体験しても、人それぞれ感じることや思い浮かぶことが違うのは、各々の認知が異なるためです。

この認知は、あらゆるものに適用されます。
つまり、心理学より哲学寄りな表現になるかもしれませんが、人間は事実を完全に客観的に捉えることは不可能であり、「それぞれの主観による真実」を見ている(というより、そうとしか見られない)、ということになります。
たとえ幻覚・妄想などであろうと、自分が体験したことは自分にとっては「真実」なのです。

小鳥の刺繍とキティちゃんのくだりや、終盤の抱き締める vs. 首を絞めるのシーンは、どちらが正しいとかどちらかが嘘をついているといったものではなく、どちらもそれぞれの内的世界が捉えた「真実」なのでした。

ラストシーンの違いと解釈

これも原作の感想に書きましたが、原作のラストは「ハッピーエンドに見せかけた超不穏エンドだ」と解釈しています。

この終わり方が、映画ではだいぶ変更が加えられていました。
「ドアの向こうにわたしを待つ母がいる。こんなに幸せなことはない」という清佳のセリフはカットされ、自分は母か娘か、という清佳の不安とも希望とも取れるようなセリフで終わっていきます。

これは、個人的には原作よりはハッピーエンド寄り、というより希望を感じるラストでした。
清佳は清佳で「遊びがない」課題を抱えていますが、原作よりは希望や健全さを感じました。

とはいえ、彼女の病理は根深いはずです。

上述した以外で映画版において印象的だったのは、清佳がクラス内でからかわれていたクラスメイトを正義感から助けたシーンです。
原作でも、似たようなエピソードはもっと幼少期の清佳で描かれますが、映画版で特徴的なのが、これが助けたつもりのクラスメイトにとって逆効果であった点です。

しかし彼女は、「助けてあげた」というところだけを嬉しそうにルミ子に報告していました。
彼女にとっては、決して嘘をついたり隠したつもりはないはずです。

この「自己中心的な正義感」は、大人になった清佳でも描かれていました。
串をコップに入れていた客に注意するエピソードです。
この行為の良し悪しは別として、「清佳は変わっていない」ことを如実に現していました。

この「正義感」の背景にあるのは「母親(ルミ子)に認められたい」という心理です。
母が喜ぶような、正しいことをすれば褒められる。
それが、清佳が幼少期から学んできた処世術でした。

その意味では、愛情を受けてきたと感じるルミ子には「母親」という支えがあるのに対して、清佳には支えがなく、清佳の方が病理としては深いことが推察されます。
「条件つきの愛情」が、一番子どもを不安定にさせるのです。


ただ、そういった清佳に対する心配以上に映画のラストで直接的に描かれていたのは、ルミ子の闇の深さです。
これは原作以上に不穏でした。

彼女が「愛している」と言って清佳を抱き締めたのも、認知症の義母に「娘」と呼ばれるまでに献身的に介護をし続けたのも、どちらも相手のことを思ってではなく、「母に喜んでもらうため」でしかありません。
それは原作でもほぼ同じですが、映画ではよりその図式が強調されていました。

しかし、一番大きく異なるのは、清佳がルミ子に妊娠を伝えた際のリアクションです。

原作では「おばあちゃんが喜んでくれるわ」と涙を流し、家に寄るという清佳に「楽しみだわ。気をつけてね」とメールを返します。
相変わらずだね、という感じではありますが、目線が清佳に合わせられているところは見逃せません。
喜ぶのは「母」ではなく「おばあちゃん」であり、「気をつけてね」と清佳を気遣っているのです。

一方で、映画版では「私たちの命を未来に繋いでくれてありがとう」と、自分が母親から受けた言葉をほとんどそのまま伝えています
これは、もはや母親と一体化しかけている、ホラーのようなシーンと言っても過言ではなく、原作よりも遥かに闇が深く感じました。

母親の愛情の中で生き続けるルミ子。
そんなルミ子に認められるために努力する清佳。
受け入れてくれる女性に逃げた田所。
本作は原作以上に、母性の負の側面に呑み込まれた者たちの物語であったと思いました。

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