作品の概要と感想
タイトル:死刑にいたる病
著者:櫛木理宇
出版社:早川書房
発売日:2017年10月19日
鬱屈した思いを抱える大学生、筧井雅也のもとに届いた、一通の手紙。
それは、連続殺人犯・榛村大和からの依頼だった。
「連続殺人のうち、最後の1件だけは冤罪であり、真犯人を暴いてほしい」という榛村の主張。
調査を通して見えてくる真実とは──。
調べる過程で明かされていく、繋がりや真実。
櫛木理宇らしい、ミスリードや伏線も散りばめられた一作です。
これもいかにも櫛木作品らしいですが、人間の怖さや暗い部分が、これでもかというほど描かれます。
ジャンルは、ミステリィ要素を含んだサスペンスになるでしょうか。
以前、櫛木理宇の別の著書である『侵蝕 壊される家族の記録』でも書きましたが、櫛木作品は、細部にこだわるというより、「エンターテインメント作品として、書きたいテーマを軸に描く」側面が強いように感じており、『死刑にいたる病』も同様です。
そのため、細かい部分のリアリティを求める人には、物足りなさや引っかかる点も多いかもしれません。
個人的にやや気になったのは、登場人物のキャラが弱めな点と、説明口調。
10年以上前のことをすらすら思い出したり、調査に行く先々で成果があるのはややご都合主義な展開で、そのあたりの巧みさや自然さは、同じように色々な人から話を聞きながら情報を集めていく小野不由美『残穢』が秀逸。
特に、主人公の大学生・筧井雅也のキャラがつかみづらく、異様な知識の豊富さを含めた適応力の高さがあり、「マチズモの権化のごとき体育教師、ってやつですか」といった台詞は、さすがにちょっと現代大学生として違和感強めでした。
ただ、文庫版解説でも「日本には珍しいアメリカ流のシリアルキラーが登場する本書は、設定のリアリティという点ではやや弱く感じられるかも知れない」と書かれているぐらいなので、浮かび上がってくるシリアルキラーとしての榛村大和の背景と、榛村と交流する中での筧井雅也の変化がメインの軸になっています。
人間は色々な側面を持っているもので、相手によって見せる顔も違えば、相手によって受け取る印象も異なります。
拘置所にいる榛村との面会シーンは、決して多いわけではありません。
逆に、色々な人を通して、時には真逆の印象が入り乱れながら見えてくる榛村の人物像が、榛村というキャラに厚みを増しています。
一般的な感想はレビューなどにも溢れているので、ここでは犯罪心理学を専門とする端くれとして、犯罪心理学的な視点も用いながら本作を読み解いてみたいと思います。
考察:主人公・筧井雅也の心理と、作品のリアリティ(ネタバレあり)
榛村大和はサイコパスか?
サイコパスについて
『死刑にいたる病』の主人公は、シリアルキラーの榛村大和ではなく、あくまでも筧井雅也であり、終始雅也の視点で話は進んでいきます。
榛村と接したことで、雅也の心理に何が起こったのか。
その点を考察していくには、まずはやはり榛村にも触れておく必要があります。
榛村は、典型的なシリアルキラーとして描かれています。
それは、上述した櫛木理宇の『侵蝕 壊される家族の記録』の記事で書いたのと同じく、とても教科書的なシリアルキラーです。
そのため、日本における稀代のシリアルキラーキャラでありながら、いまいち個性が弱いのが少しもったいないところ。
いずれにせよ、上述した文庫版解説での言葉通り、現実の日本にこのようなシリアルキラーが登場するのはなかなか想像しづらいのが実情で、この設定は「そういうもの」として読み進めるのが賢明です。
その上で、『死刑にいたる病』のレビューを見ていると、榛村を「サイコパス」とする表現も目立ちます。
一時期ブームとなり、もはや一般的に広く知れ渡った、むしろ安易なキャラ設定に利用されることすら増えているサイコパスですが、専門的に見ると、偏ったイメージが先行しているのが現実です。
「サイコパス=凶悪犯罪者」でもなければ、「凶悪犯罪者=サイコパス」でもありません。
どこかでサイコパスについての記事もまとめてみたいと思っているので、とりあえずここでは簡単に触れますが、サイコパス研究の第一人者である犯罪心理学者ロバート・ヘアは、以下の4因子でサイコパスの特性をまとめています。
- 対人因子:表面的な魅力、他者を操作しようとする、虚言癖、誇大化した自尊心
- 感情因子:良心の欠如、共感性や罪悪感の欠如、冷淡、不安や恐怖を感じにくい
- 生活様式因子:計画性に乏しく目先の利益に飛びつきやすい、衝動性が高く刺激を求める、無責任
- 反社会性因子:幼少期から反社会的行動が多い、多種多様な犯罪行為
これらが見られれば必ずサイコパスというわけでもなく、正しい判断は専門家でも困難を伴います。
また、脳における異常所見も明らかになってきており、それらを含めた総合的な判断が必要となります。
サイコパスの原因は明らかになっていませんが、脳を含めた遺伝的な要因と環境要因、それぞれの相互的な影響によるものと考えられています。
世の中には、作中でも触れられている通り「成功したサイコパス」と呼ばれる人たちもいます。
上述したサイコパスの特性は、リスクを恐れずに突き進み、情に流されず冷静な判断が下せるといったことにも繋がります。
政治家や起業家、外科医などには成功したサイコパスも多いとされており、たとえば、スティーブ・ジョブズがサイコパスだったのではないかと見る研究もあります。
共感性に乏しいため、近くにいる周囲の人が困ることが多いのも事実ですが、周囲に流されず自身の信念を貫き通し、イノベーションを起こしたり人を惹きつけるカリスマ的な存在であることもあり、「サイコパス=悪」ではありません。
榛村大和がサイコパスとは断定できない
このあたりで『死刑にいたる病』の話に戻ると、果たして榛村大和はサイコパスなのか。
結論としては、描かれている範囲だけでは判断できません。
少なくとも、「こんな血も涙もない残虐な凶悪犯罪をしているんだからサイコパスに間違いない」という短絡的な判断は、正しくありません。
シリアルキラー榛村のモデルの1人になったと思われる、作中にも出てくるテッド・バンディも、サイコパスであったかどうかは評価が分かれています。
作中に、“精神科医たちは榛村を「典型的なサイコパス」と評していた”という文章はあるのですが、「精神科医たち」が誰を指しているのかわかりません。
というのは、直接診察をせずに診断を下すのは医師法に違反してしまうため、診察をせずに見聞きした情報から推察しているのであれば、確定的なものではありません(そもそも、サイコパスは「診断名」でもありません)。
これだけの事件であればまず精神鑑定も行われるはずですが、雅也が受け取った事件に関する資料では精神鑑定について言及されておらず、精神鑑定においてどのような結論になっていたのかどうかは不明です。
つまり、(筆者も)限りなくサイコパスをイメージして書いたのだろうと思われますが、断定するには情報が足りません。
「残忍で冷酷な人間だからサイコパス」のような安直な描写はステレオタイプを含むものであり、読み取る側の姿勢ももちろんですが、フィクション作品におけるデフォルメされたサイコパス像は減ると良いな、と思っています。
ちなみに、榛村に対して「演技性人格障害の疑いあり」という評が作中には出てきますが、こちらはかなり謎です(正確には「演技性パーソナリティ障害」と言います)。
物語にあまり関係ないので深くは触れませんが、演技性パーソナリティ障害は、なりふり構わず、短絡的な嘘をついてまで自分に注目を集めようとする傾向が強いパーソナリティです。
色々な人から好印象だった榛村は、演技していたところが大きいと思いますが、それと演技性パーソナリティ障害は関係のないものです。
作中で描かれる榛村にはほとんど一致せず、パーソナリティ障害で言えば、「反社会性パーソナリティ障害」か「自己愛性パーソナリティ障害」の傾向の方が可能性としては考えられます。
筧井雅也の心理状態
誇大化した自己愛
さて、いずれにせよ榛村大和は「典型的なシリアルキラー」のアイコンとして描かれています。
一方の、主人公である大学生・筧井雅也はどのような人物でしょうか。
個人的には、雅也もだいぶ危ない存在なのでは、と思っています。
作中、雅也は榛村に取り込まれかけて、少女への性的衝動や、殺人衝動を感じます。
しかし、たとえ榛村がサイコパスであったとしても、操作的な関わりをしたのだとしても、「自分と同じような殺人犯にさせる」ことはさすがに不可能です。
この点は、もともと雅也の中に潜在的に燻っていた攻撃性や危険性であると考えられます。
人は誰しも、自分が特別でありたいと思っています。
少なくとも、自分の人生の主人公は自分でしかありません。
しかし、主に幼少期〜思春期にかけて(人によってはもっと遅い)、現実の厳しさを知り、自分の限界や、世界の理不尽さと直面します。
理想の自分と現実における自分の折り合いをつけて、現実に適した自己像を形成していくのが、自立のプロセスです。
しかし、「自分は特別な存在であるべきはずだ」という自己愛や万能感が非常に強く、現実を受け入れられない人がいます。
そのような人たちは、自分の欠点や未熟さを受け入れられませんが、現実で壁にぶつからないということはまず不可能です。
そのため、「自分ではなく、環境や周囲の人たちが悪いんだ」という他責的な考えで自分を保とうとします。
雅也は、幼少期、文武両道で優等生の人気者でした。
しかし、井の中の蛙であったに過ぎず、高校進学を機に壁にぶつかります。
すでにプライドの高かった雅也は、同じく「息子の現実」を認めようとしない親の影響(ここはかわいそう)もあり、周囲に相談できないまま状態悪化。
どんどんと落ちぶれながら、他責的な傾向が強まっていきます。
その思想は極端なものになり、榛村と面会する前の時点ですでに、同じ大学の学生に対して「あいつらみんな死ねばいいのに」「今こそ優生保護法が必要だ」といったようなとても極端な考えを抱いています。
優生保護法て。
「自分とあいつらは違う」「自分は本来こんなところにいるべき人間ではない」「それなのにあいつらが足を引っ張るせいで自分が正当に評価されない」といった考えで他者を見下し、自分のプライド(誇大化した自己愛)を保っているのです。
プライドが邪魔をして家族を頼れなかったり、周囲の空気に呑まれて編入試験を諦めたり、自分で努力できた部分が足りなかったとしても、常に周りのせいにします。
そんな中で出会ったのが、「当時の雅也」のままで時間が止まっており、「今の雅也」を必要としてくれる榛村でした。
榛村は、その雅也の誇大化した自己愛にうまくつけ込みます。
雅也が潜在的に抱いていた「認められたい」「必要とされたい」といった承認欲求を、うまく満たしながらコントロールしていきます。
しかし、榛村に自分を同一視したのは、あくまでも雅也の側です。
一度そうなってしまうと、唯一自分を認めて必要としてくれる榛村を否定することは、自分を否定することにも繋がります。
そのため雅也には、榛村を認めるしか道はありませんでした。
雅也が殺人の衝動に至ったのは、榛村にコントロールされたからではなく、榛村に自分を同一視したことで、あくまでも雅也の根底に眠っていた攻撃性が発露したに過ぎません。
大量殺人を引き起こす要因
少し無理矢理、極端な例をひとつ持ってくると、雅也の生育歴や考え方の傾向は、2008年に起きた秋葉原無差別殺傷事件の犯人、加藤智大に通ずるものがあります。
加藤は幼少期、母親から体罰まで伴う極端なスパルタ教育を受け、交友関係など生活全般を管理されていました。
しかし、雅也同様、地元のエリート高校に進学したところで周囲についていけなくなり挫折、母親からも見捨てられたと本人は感じます。
その後は不本意な仕事を続けますが、誇大的な自己愛と他責的な傾向が強く、少し嫌なことがあるとすぐ退職するということを繰り返していました。
最終的に、派遣先でトラブルを起こし、ネット上でも居場所がなくなったこと等をきっかけに、日曜日で歩行者天国になっていた秋葉原の道路にトラックで突っ込み、さらには刃物で周囲の人に襲いかかり、17人を殺傷する通り魔事件を起こしました。
レヴィンとフォックスというアメリカの犯罪学者は、大量殺人を引き起こす要因として、以下の6要因を挙げています。
- 素因:①長期間にわたる欲求不満
②他責的傾向 - 促進要因:③破滅的な喪失
④外部のきっかけ - 容易にする要因:⑤社会的、心理的な孤立
⑥大量破壊のための武器の入手
これらは加藤にも当てはまるのですが、それはここでは置いておき、雅也に当てはめて見てみると、だいぶ危ない傾向にあることがわかります。
もちろん、多かれ少なかれ上記の要因に当てはまるタイミングは誰しもあり得るもので、安易に当てはめて「この人は危険だ」と判断するものではありません。
しかし、雅也は実際に、大量殺人ではないにせよ、殺人一歩手前まで踏み込んでいました。
①長期にわたる欲求不満と、②他責的傾向は上述したように明らかです。
③破滅的な喪失と④外部のきっかけは、母親の過去や真実と、榛村が父親であると勘違いしたことが当てはまります。
本当の父親は別だったというのは、これまでの自分の人生が根本から覆る事実(実際は違いましたが)であり、榛村への同一化もさらに強まります。
また、雅也はしっかり自覚していませんでしたが、何だかんだ好意を抱いていたであろう加納灯里に彼氏らしい男性の影を目撃したことも、影響していたのではないかと考えられます。
一方で、母親と少し打ち解けたことや、社会との関わりが少なからず残っていたこと、そしてさらに榛村に騙されていたと自覚したことで、さらにエスカレートはせず、⑤と⑥に繋がらずに済みました。
ただ、①長期にわたる欲求不満と②他責的傾向がかなり強かった雅也は、爆発して他者に攻撃性をぶつける可能性を潜在的に持ち合わせていたと思われます。
雅也は明らかにサイコパスではなく、秋葉原無差別殺傷事件の加藤もサイコパスではありません。
その意味では、榛村の異常性が際立つ作品ですが、実は誇大的な自己愛や他責的傾向がかなり強い雅也も危ない攻撃性を燻らせており、あのまま悪い方向にエスカレートしていたらと思うと、怖いものがあります。
雅也は雅也で大きな問題を抱えていたからこそ、ここまで噛み合ったのだと考えられます。
ちなみに、雅也の母が昔「土を食べていた」というのは、土食症という異食症の一種であると考えられますが、異食症については『Swallow/スワロウ』という映画で取り扱われています。
主人公の内面が丁寧に描かれている映画であり、お勧めです。
細かい部分のリアリティ
最後に、『死刑にいたる病』における犯罪や司法に関する細かい描写において、やや重箱の隅を突く感じになりますが、どれだけリアリティがあるか?を小ネタ的に見ていきたいと思います。
①榛村の連続殺人
解説でも「設定のリアリティという点では弱い」と言われていた榛村の犯行ですが、幸いというべきか、実際に現実の日本でここまで起こるとは考えにくいのが実情です。
まず、そもそも日本は土地が狭く、核家族化しているとはいえ、自然と相互監視的な文化が強いのがひとつ。
特に現代は、防犯カメラが増え、科学捜査技術も進歩しており、榛村のように長期にわたって何人も拉致して殺害するという方法は、大きな困難を伴います。
警察は行方不明者の捜索をあまり真面目にしてくれない、といったような描写も色々なところで見かけますが、その真偽はさておき、未成年の場合は特に、事件に巻き込まれている可能性も大きいので、きちんと捜査されやすいのは確かです。
榛村が好んでいたような、常習的に家出や非行を繰り返していたわけではないであろう被害者ならなおさら。
ましてや、作中の描写からは、榛村はあまり遠方まで出向いて被害者たちを拉致してきたとは考えづらく、近い地域で何人も行方不明者が続けば、問題視されることは確実です。
「近所の人たちの完全な信用を得ていた」という感情論だけでは、警察の捜査にはほとんど影響を与えません。
たとえ遠方に出向いていたとしても、それだけ防犯カメラなどに痕跡が残る可能性は高まります。
②拘置所からの手紙と面会
榛村はたくさんの人物に大量に手紙を送っていたようですが、拘置所から送ることのできる手紙は、月に何通という制限があります。
また、送る手紙も受け取る手紙も内容を拘置所側にチェックされる(証拠隠滅を防いだり、拘置所内の秩序を保つため)ので、果たして今回のような内容についてどこまで踏み込まれるかは微妙ですが、現実には実行しづらい側面があるはずです。
面会できるのも、基本的に1日1組まで。
誰かが先に面会していると、知らずにその後で面会を希望した人は、拘置所側に断られます。
加納灯里含め、他にも何人かが同時に動いていたとすると、拘置所で鉢合わせなかったり、面会がぶつからなかったのはやや奇跡的です。
その点、雅也が情報収集しに行った先に他の誰も調査に来ていなかったのも不思議になりますが、相手の支配を目的とした榛村の依頼内容は、相手によって異なっていた(冤罪を晴らしてほしいと訴えていたのは雅也だけ?)のかもしれません。
③弁護士
『死刑にいたる病』における最後のシーンは、佐村弁護士すら榛村のコントロール下にあった、というぞっとする事実です。
「いま、あなたの手を握れたらいいのにな」という榛村の台詞は、爪に執着していた榛村の嗜好を匂わせるものでした。
しかし、このような社会的な影響も大きい事件の場合、実際は弁護士が1人ということはまずありません。
弁護団として、複数の弁護士がチームを組んで弁護にあたるものです。
「私を主任弁護人に選んでくれた」という佐村弁護士の台詞もあったので、主任弁護人ということは他にも弁護人がいる、つまりチームは形成されていると考えられます。
それを踏まえると、佐村弁護士が特に榛村に入れ込み、やや独断で暴走的に動いていた、というのはあるかもしれません。
④冤罪の可能性
榛村の、根津かおるの事件は冤罪であるといった訴え。
結局は「殺害の対象として選び意思を示したのは金山一輝であるため、自分が殺したわけではない」という屁理屈でしたが、実際に物的証拠はほとんど見つかっていなかったようです。
現実では、この事件が起訴されるかというと、微妙ではないかと思っています。
榛村のハイティーンの男女に対する事件も、証拠が見つからなかった事件は起訴されておらず、確実な証拠がある事件だけが起訴されていました。
同じく証拠がない根津かおるの事件。
「他に同じような残忍な殺人犯がいるわけがない(いたら困る)」という理由だけで起訴するのは、検察側の危険が伴うものになります。
万が一、根津かおるの事件が冤罪であり、それが明らかになった場合、他の物的証拠がある事件がひっくり返りはしないまでも、「便乗して関係ない事件まで榛村のせいにした」といったような形で、検察の信用やイメージに関わる大きな問題となるのは確実です。
日本において検察が起訴した事件の有罪率は99.9%と言われていますが、それは逆に、それだけ有罪が確実でないと起訴に踏み切らないということです。
根津かおるの事件がなくても榛村の有罪や死刑判決はほぼほぼ確実であり、わざわざ証拠のない根津かおるの事件まで起訴した理由は、やや乏しいと言えます。
⑤事件の資料
雅也が借りた公判の記録などの事件資料。
弁護士事務所助手の名刺の時点でめちゃくちゃ微妙ですが、たとえ榛村本人の希望とはいえ、一介の大学生に被害者の名前やらが黒塗りもされていない事件資料が送られることは、まずあり得ません。
いくら釘を刺していても、大学生に資料を渡して流出したなんてことになったら、弁護士事務所はもう一貫の終わりでしょう。
しかも、大学の食堂でその資料を読んでいた雅也。
弁護士がその事実を知ったら、確実にブチ切れです。
追記
映画『死刑にいたる病』(2022/05/22)
映画版『死刑にいたる病』の感想や、小説と異なる部分の比較・考察の記事をアップしました。
いくつか心理的考察の追加(2022/06/08)
①筧井雅也が求めていたもの
筧井雅也が元来抱えていた心理状態についてはすでに触れましたが、さらに少し深めて視点を変えて、考察してみたいと思います。
雅也の家庭を一言で表現すれば、「機能不全家族」です。
溺愛しいてるようで、本来の雅也はではなく「自分たちの望む良い子」を期待する祖母と父親。
落ちこぼれとなった雅也は、あっさりと見放されます。
そして、主体性がなく、父親と祖母に従うだけの母親。
無条件で包み込む優しさである母性と、規範を示し社会へと引き出す父性。
そのバランスが、子どもの自立には重要な要素となります。
ちなみに、母性は女性だけ、父性は男性だけにあるわけではなく、いずれもすべての人間の中に多かれ少なかれある要素です。
ですので当然ながら、一人親家庭であっても、一人でその両面を担わないといけない難しさと苦労はありますが、両親がそろっていないと不十分というわけではまったくありません。
母性も父性も十分に与えられなかった雅也。
特に父性が不十分であったり母性が強すぎると、引きこもりや不登校に繋がる要因にもなります。
雅也も、高校に入って唯一の拠りどころであった成績も低迷し、引きこもり状態になりました。
そのときに手を差し伸べてくれたのも、両親ではなく伯母でした。
何とか持ち直して大学に進学しましたが、既述したような歪んだ自己愛や万能感を抱き、一方では自己肯定感が低いため、他責的な考えでそれをカバーします。
そんな中で現れたのが、榛村です。
彼は数少ない、これまでの雅也の人生で自分を認めてくれた人間でした。
そして今、その彼が自分を必要としている。
最初は自分の現状を隠していた雅也も徐々に打ち明けていき、榛村はそんな雅也も受け入れ、素晴らしいと認めます。
雅也の存在を認め、褒めてくれる。
そんな見せかけの母性に、雅也は呑み込まれていきました。
一方で、雅也には、榛村が圧倒的な「自分」を持っているように見えます。
指示されたわけでもなく、誰かに認められるためでもない。
連続殺人という、自らの欲求を貫き通した榛村。
学歴や人間関係、そして就活といったような「一般的とされる規範」からの疎外感、そしてそれらに対する攻撃性を抱いていた雅也にとっては、その裏側である「一般的とされる規範にとらわれない存在」に強い憧れを抱きます。
進むべき方向を示すという意味で、雅也は榛村に父性も感じていました。
それは、榛村が実の父親であると勘違いした(させられた)ことで、さらに加速します。
父親に憧れ、父親を超える。
それは息子にとって自立の大きなテーマです。
実の父親を回避している雅也は、榛村に父性を感じ始めました。
「あの人のようになりたい」と同じ職種を目指したり行動を真似するのは、尊敬や憧れの現れです。
雅也が、他者に対して「あんなやつ殺せる」「自分にもできる」と考え始めたのも、榛村に父性を感じ始めた時期です。
追いつき、追い越したい。
その思いと、自らが抱えていた攻撃性を刺激されたことで、雅也は他者への殺意を抱くようになったのです。
そこに榛村への同一視が重なったので、子どもに対する性欲も覚えていましたが、それは榛村が父親ではないとわかるとすぐに消え去りました。
就活の模擬面接ですっかり態度が変わったのも、榛村とのやり取りで自己肯定感が回復し自信を抱くようになったからだけではなく、父性に導かれることで、自立のプロセスがようやく始まったと見ることもできます。
欲求不満は抑圧された心の奥で攻撃性を孕み、その攻撃性は他者に向くこともあれば、自分に向く(自傷行為やセルフネグレクトなど)こともあります。
榛村は、他者の抑圧された想いを見抜き、刺激することがとても得意だったのでしょう。
「ナイフを持ったつもりで姑の前に立ってなさい」と言われた女性も同じです。
そしてきっと、加納灯里も。
②「爪」の意味
榛村は、被害者の指への執着を示し、爪をコレクションしていました。
その理由は、作中では明確にされていません。
推察するとすれば、ヒントとなるのは、終盤の榛村と雅也の会話。
榛村の実母である新井実葉子の爪は綺麗だったかと問う雅也に対して、榛村は「昔はね」「指には育ちが、爪には生き方が現れる」と答えます。
安直に考えれば、爪が綺麗だった頃の母親を求める気持ちがあった=榛村も母性を求めていたと考えることも可能かもしれませんが、犯行形態からはあまりしっくりときません。
むしろ、母親に対しては、嫌悪・軽蔑していた気持ちの方が強いのではないかと思います。
榛村の被害者たちは、みな育ちの良い少年少女たちでした。
榛村にとって、その育ちの良さが象徴されるのが、指であり爪でした。
それは、「育ちや生き方が悪かった」母親の爪とは真逆です。
榛村は、被害者たちに執拗なまでの拷問を行っています。
拷問に快楽を感じる主な根源は、支配欲です。
相手を思うがままに支配すること。
その支配の象徴が、「綺麗な爪を剥ぎ取り保管すること」であったのだと考えられます。
被害者の遺体を埋めた場所に木を植えて満足感に浸っていたのも、同じ心理です。
そう考えれば、「あなたの手を握れたらいいのにな」という言葉は、「あなたを支配しました」という勝利宣告と同義です。
自分の思い通りになった瞬間に、榛村はその台詞を放っています。
ちなみに、爪といえば、爪噛みや指しゃぶりは、精神分析的には乳幼児期に母親からの愛情が満たされず、口元への刺激が不足して「口唇期に固着している」行動(あまり本題と関係ないので詳しい説明は省きます)と解釈されることもあります。
『死刑にいたる病』の作中では、雅也が数回、爪を噛んでいるシーンが描写されていました。
この点も、雅也が母性に飢えていたことを示す一つの表現と捉えることもできそうです。
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