作品の概要と感想とちょっとだけ考察(ネタバレあり)
タイトル:ファイナルガール・サポート・グループ(原題:The Final Girl Support Group)
著者:グレイディ・ヘンドリクス
翻訳者:入間眞
出版社:竹書房
発売日:2022年11月17日
リネット・ターキントンは22年前の大殺戮を生き延びた現実のファイナルガール。
その経験は以後の彼女の生きる日々を決定づけた。
彼女はひとりではない。
想像を絶する殺人事件で生き残った女性のためのサポート・グループに10年以上にわたって参加。
他の5人のファイナルガールたちとセラピストとともに、壊されてしまった人生をひとつひとつ組み立て直そうとしている。
ところが、ひとりのメンバーがグループを欠席したとき、リネットの最大の危惧が現実のものとなる。
グループの存在を知った何者かが彼女たちの人生を破壊しようと決意したのだ。
そして最初の犠牲者が──。
殺人鬼から唯一生き残った女性「ファイナル・ガール」。
本作においてもオマージュされている1970〜1980年代を中心としたスラッシャー映画において、男性の殺人鬼に対して女性が1人生き残るパターンが多く、生き残った女性がそのように呼ばれるようになりました。
映画研究者のキャロル・クローバーという人によって名付けられたそうで、今ではある程度昔のスラッシャーが好きであれば大抵通じる用語になっているかと思います。
さて、ファイナル・ガールの歴史はここでは置いておくとして、本作はそんなファイナル・ガールたちのその後を描いた作品。
殺人鬼の魔の手から逃れ、戦って生き残ったファイナル・ガールたち。
彼女たちのその後の人生は、どのようなものなのでしょうか。
『ゴーストランドの惨劇』の感想でも触れましたが、生き残った彼女たちは「いやぁ死ななくて良かった」で終わるわけはありません。
ただでさえ犯罪被害者はトラウマ的な心の傷を負いますし、たとえ自分が直接被害に遭っていなくても、犯罪や災害の映像を見るだけでトラウマになることも多々あります。
ファイナル・ガールとなった彼女たちは、もともとは大抵普通のティーンエイジャーであり、突如惨劇に巻き込まれたことで、強烈なトラウマを負うのは間違いありません。
そんな彼女たちが通うセラピーグループ。
その設定だけでもう面白いです。
しかし彼女たちは、10年以上もセラピーグループに通っていながらも、多かれ少なかれ今でも過去に囚われている様子。
海外の作品ということもあってか、サポートし合うという感じではなく、やり取りはどうもトゲトゲしていました。
しかし本作は、そんな彼女たちのその後の様子を描きつつも、メインはミステリィというかサスペンスな仕上がりでした。
ファイナル・ガールたちのグループが再び新たな殺人鬼に襲われるという、何とも泣きっ面に蜂というか、踏んだり蹴ったりというか、な展開。
このメタ的な構造は、映画『スクリーム』に似ていたように思います。
本作では『悪魔のいけにえ』、『ハロウィン』、『13日の金曜日』、『エルム街の悪夢』、『悪魔のサンタクロース 惨殺の斧』、そして『スクリーム』がオマージュされていましたが、『スクリーム』だけは殺人鬼がモンスター的な存在ではなく完全に人間であり、その点も本作と共通していました。
誰が犯人なのか?というのも楽しめる作り。
ただ、翻訳で読んだこともあってか、個人的にはいまいち展開がわかりづらく、没入しづらかったのが難点でした。
これはもちろん、翻訳が悪いという意味ではありません。
むしろ読みやすい訳文ですが、元の英語ならではの表現が読み取りづらかったり、訳すとどうしても文章や会話が不自然になってしまうので、その点がどうにも翻訳本の苦手なところです。
とはいえ、本をすらすら読めるほど英語は読めないので、翻訳本はありがたい限りですが。
そんな訳文のややこしさもあるのですが、本作の構造はさらに複雑でした。
まず、上述したオマージュされた映画たちは、本作では別の名前の映画として登場します。
彼女たちは本物の事件のファイナル・ガールたちであり、彼女たちそれぞれの事件が映画化されている、という設定。
実にややこしい。
とはいえ、読んでいるとどれがどの映画のオマージュなのかは簡単にわかるので、スラッシャー映画ファンにはたまりません。
チャプターのタイトルもそれぞれ、オマージュされた各作品の続編も含めて文字ったものでした。
訳者あとがきに書かれているように、ファイナル・ガールたちの名前なども、元映画に元ネタがあったりします。
肝心の主人公リネットの元映画『悪魔のサンタクロース 惨殺の斧』だけは観たことがなかったのですが、オマージュされている元の映画群を観ていなくても特に本作の内容の理解に影響がないところもうまい作りでした。
主人公リネットは特に過去に囚われていて、強迫的と言っていいほどに周囲を警戒し続けていました。
結果的にそれが功を奏したわけですが、何十年にもわたってあのような生活を続けてきたのかと思うと、気が遠くなります。
そんなリネット視点でずっと展開されていくので、疲れもしますが、どんなに非難されようと冷たくあしらわれようと諦めないリネットの姿は、徐々に応援したくもなりました。
ある意味では空気が読めないほどのこの諦めの悪さは、きっとファイナル・ガールとして生き残るために必要な要素だったのでしょう(リネットは戦って生き残った純粋なファイナル・ガールではありませんでしたが)。
大枠としては、キャロル先生の息子スカイが主犯格で、相棒としてステファニーを取り込んだ、ということのようでした。
ステファニーはクリストフ・ヴォルカーをそそのかしてレッドレイク・キャンプ(『13日の金曜日』ではクリスタルレイクですね)で再び事件を起こさせ、自らをファイナル・ガールとして演出しました。
彼女は、過去に巻き込まれたテニスコーチ殺人事件(詳細不明)によるPTSDとしてハイブリストフィリア(犯罪者に惹かれる性的倒錯傾向)になった、というのが弁護士の主張のようです。
一方の主犯格だったスカイは、作中で明かされている範囲内での解釈ですが、簡単に言えば「母親(キャロル先生)に全世界の前で屈辱を与えるため」だったようです。
このあたりもあまり直接的に深くは描かれていませんでしたが、キャロル家はとんでもなく闇が深そうですね。
これが真実だとすると、スカイの犯行は快楽殺人的なものとはまったく異なります。
セラピストが役立たずだったり悪く描かれがちなホラー映画において、キャロル先生が決して悪者ではなかったのは安心しましたが、その母子関係がこれほどの闇を抱えているというのは何とも言えません。
医師や弁護士、教育者など、世間的には聖職者と見られがちな人の家族において、一見問題がなさそうなのに子どもが問題行動に走るという現象を、「黒い羊の仮説」と呼んだりします。
「常に善くあらねばならない」という家庭環境で抑圧されている暗い部分がすべて子どもに投影されてしまうのだろうというメカニズムですが、キャロル先生の家もまさにそれを地で行っていたのだと思われます。
また、弟や妹が生まれると、親は下の子につきっきりになることも少なくありません。
親が悪いというわけではなく、小さい子ほどこまめに面倒を見て世話をしないといけないので、半ば必然です。
しかし上の子は、親を取られてしまった、あるいは愛情が自分に向けられなくなってしまったと感じ、問題行動に走って気を引こうとしたり、下の子に嫌がらせをすることもあります。
ある意味、スカイの行動はその究極系だったと言えるでしょう。
母親であるキャロル先生が身を削って愛情を注いでいたのは、子どもたちではなく、リネットらファイナル・ガールたちでした。
たとえリネットが穿って見ていたようにこの活動は野心のためであり、キャロル先生は子どもたちのことを第一に想っていたのだとしても、少なくともスカイの認識はそのようなものであったのでしょう。
愛情は転じて恨みとなり、それは「自分を見てほしい」という領域を超え、「母親を破滅させたい」という領域にまで膨れ上がったのではないかと考えられます。
そうだとしても、一概にキャロル先生の育て方が悪かったという話ではありません。
ただ、家に患者の情報を保管し、しかも家族に見られる状態にあった、というのは完全なるキャロル先生の失態でしょう。
『スクリーム』らしいメタさという意味では、最終チャプター前に挟まれていたステファニーからスカイ宛のメールに書かれていた「学校の銃乱射+スラッシャーのシナリオ=相乗効果」という表現が面白かったです。
『ハロウィン(2018)』の感想に書きましたが、もはや現代において、殺人鬼が1人ずつゆっくりと殺していくというのは、非常に難しいものがあります(殺人鬼側にとって)。
スカイたちの計画は、色々な人を利用するというなかなかギャンブル要素の高い計画ではありましたが、最終的に一ヶ所にまとめて一気に銃で殺そうというのは、過去のスラッシャー映画のファイナル・ガールに対する、現代版スラッシャー(キラー)の回答であるようにも感じました。
上述した『ハロウィン(2018)』もまた、ある意味では『ハロウィン(1978)』のファイナル・ガールであるローリーのその後を描いた作品であるとも言えます。
ネタバレは避けますが、彼女はそれこそ40年も、家族から呆れられるのにもめげないで、再びマイケルが自分のもとにやってくる日に備え続けており、その点はととても本作のリネットに似ています。
海外版の『The Final Girl Support Group』は2021年発売なので、この作品がそもそも『ハロウィン(2018)』の影響を受けている可能性もありますが、ファイナル・ガールは「助かってめでたしめでたし」ではなく、その後もずっと囚われ続け、狙われ続けていく運命にあるようです。
ファイナル・ガールが続編であっさり殺される、というのも少なくないですしね。
いずれにせよ、「ファイナル・ガールのその後を描く」というよりは「ファイナル・ガールたちが再び殺人鬼に狙われる」という要素の方が強めでしたが、ミステリィ小説もスラッシャー映画も好きな自分には楽しい作品でした。
追記
『悪魔のサンタクロース 惨殺の斧』(2023/10/18)
『悪魔のサンタクロース 惨殺の斧』も鑑賞しました。
「『スクリーム』だけは殺人鬼がモンスター的な存在ではなく完全に人間であり」と上述しましたが、すみません、『悪魔のサンタクロース 惨殺の斧』のキラーも完全に普通の人間でした……。
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