【小説】伊岡瞬『白い闇の獣』(ネタバレ感想・心理学的考察)

小説『白い闇の獣』の表紙
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作品の概要と感想とちょっとだけ考察(ネタバレあり)

タイトル:白い闇の獣
著者:伊岡瞬
出版社:文藝春秋
発売日:2022年12月6日

小6の少女・朋美が誘拐され、殺された。
捕まったのは少年3人。
だが少年法に守られ、「獣」は再び野に放たれた。
4年後、犯人の1人が転落死する。
失踪した朋美の父・俊彦が復讐に動いたのか?
朋美の元担任・香織はある秘密を抱えながら転落現場に向かうのだが──。


名前はもちろん知っているので何かしら読んだつもりになっていましたが、初の伊岡作品でした(たぶん)。

最近読んだ犬塚理人『人間狩り』、櫛木理宇『世界が赫に染まる日に』に続き、少年犯罪が柱の一つに据えられた作品。
意図したわけではなく、続いたのは完全にたまたまなのですが、よりによって最後(まだ続くかもしれませんが)がこれか、と思ってしまうほどに重厚な作品でした。
筆者が世に出すことを悩み続けたのもわかります。

本作の帯には「家族 × 愛情 × 憎悪 × 暴力 × 裏切り × 誠実 × 応報 × 赦し」と書かれているのですが、これは筆者自身があとがきで挙げている要素であり、まさにその通り。
何を描いている作品であるというのが一概に言えず、現実の人間社会におけるあらゆる要素が混じり合った、「慈悲なき世界」が描かれていました

文章力やキャラクタの奥深さも圧倒的で、リアリティも真に迫るものがあります。
『人間狩り』や『世界が赫に染まる日に』が少年法の不備や復讐、私的制裁といったテーマが前面に強く感じられたのに対して、本作ではそれらの要素が散りばめられていながらも、強いメッセージ性のようなものは感じられませんでした。

あとがきでは、「あくまで“現実感”にこだわり、できごとを積み重ねることで物語を進める手法を取った」と書かれていましたが、その言葉通り「現実感」が非常に強く漂う作品でした
淡々と現実が進行していき、それを取り巻く人々の心の機微。
現実はただ存在しているだけであり、それにはメッセージも意図もありません。
現実には神もいなければ、救いも罰もない。
しかし、そこに意味や価値を見出そうとするのが人間です。

本作では、筆者からのメッセージ性も感じられなければ、物語に救いもありません。
かといって、ただ暗いだけの話でもない。
これを読んで、誰に感情移入して何を感じるのか、どこに重きを置くのか、何を見出すのかは、人それぞれ大きく分かれるでしょう。

個人的な読後感は、虚しさと希望が入り混じったような不思議な感覚です。
最後のプロポーズのくだりは、本作においてはやや蛇足で浮いて感じられました。
しかし、あえてこのようなラストであることや、本筋とはあまり関係のない秋山満の正体などのミステリィ要素が含まれる点などが、本作はあくまでもエンタテインメントでありフィクションであるという余韻を残してくれます。
ただただ「現実感」のみを追求するのであれば凄惨な事件のノンフィクションで良いわけで、その絶妙なバランス感覚が、さすがの一言でした。


そんなわけで、説得力は非常に強い物語であり、あまりあれこれ考察するというよりは、「この世界にいる、この人たち」の追体験、あるいは擬似体験をするような作品でしょう。

とはいえ少しだけ心理面を見ておくと、北原香織の覚悟はものすごいものがありました。
過去に強姦被害に遭い、それがトラウマとして残っていながら、自分の肉体を囮にして目的を果たす。
現実でそれができる人は、非常に限られるでしょう。

ただ、香織の場合も、覚悟というよりは自責の側面は強かっただろうと思います。
その点、滝沢俊彦と似ているわけですが、攻撃性のベクトルが強く向かっているのは自身の内側です。
犯人たちと同じぐらい、もしかするとそれ以上に、自分のことも責めている。
そう考えると、香織の山岡に対する最後の行動は、自傷行為に近いような印象も抱きます。

前にも何かの作品で書いた気がしますが、自分を責めるというのは、正直、楽な方法でもあります
曖昧さが溢れる現実においては、あらゆる出来事は無数の要素が絡み合った結果であり、明確な一つだけの原因というのは存在しないことがほとんどです。
何を責めれば良いのか、はっきりとわからない。
犯人が悪いのは間違いありませんが、誰かを憎み続けるというのも、非常にエネルギーを消費します。
そのような中で、「自分を責める」というのは、自分を守る方法にも、現実逃避の手段にもなり得ます

個人的には、俊彦は逃避傾向が強かったように感じました
空き家事件で野上少年を救ったような正義感に溢れ、優しく見える一方で、何だかんだ自己中心的な側面も否めません。
不倫に関しては、それが事件に繋がる要因になってしまうというのはもちろん予見できなかったにせよ、そもそも「娘の誕生日の当日に不倫する」という点がなかなかに強烈です。
「自分で言うのもおかしなものですが、本当に優しい男なら、こうして家族を裏切ったりしないと思います」というセリフも、最高にリアルで最高に卑怯ですね。

また、笠井の家で山岡たちと取っ組み合いになったときも、「そこは笠井さんのためにもちゃんと殺そうよ!」とついつい思ってしまいました。
あそこで俊彦自ら復讐を果たしていれば、作品にもカタルシスが生じます。
しかし、そうは問屋が卸さないところが、筆者の恐ろしいところでもありました。

俊彦も笠井も、山岡の死を見届けずに死ぬ。
香織による山岡の殺害も、カタルシスがあるとは言えません。
しかし、現実はそんなものでしょう


また、少し観点を移すと、少年の更生の難しさや、社会の秩序を乱すものとどう付き合っていくべきなのかといったような壮大な問題も立ちはだかります。
職業柄、あえてフォローしておくと、当然ながら家庭裁判所や少年院もベストを尽くしており、そこでの出会いや経験が少年を大きく変えることは多々あります。
少年事件では環境要因が大きいことも事実であり、少年の可塑性も実際に大きく、一旦家庭から離れたり信頼できる大人と出会うだけで、激変する事例も少なくありません。
特に保護司などはボランティアであり、その熱意には頭が下がります。

一方で、これは果たして更生が可能なのか、と思ってしまう事例があることもまた目を背けられない事実です。
その最極端に位置している一つが重大な犯罪を繰り返すサイコパスの問題であり、世界でもその取り扱いは持て余しており、結論は出ていません。
イギリスやドイツでは、重大なパーソナリティ上の問題を有する者や重大犯罪の再犯者を、刑期終了後も予防的に拘禁することが法律で認められています。
アメリカでも「民事拘禁」というものがあり、実質、死ぬまで隔離されるということがあり得ます。

ただし、犯罪行為は、遺伝要因と環境要因が相互に複雑に絡み合って生じるものです。
犯罪に大きな関連のある八つの危険因子を「セントラルエイト」と呼び、それは以下の通りです。
特に関連の大きい1〜4は、「ビッグフォー」と呼ばれます。

  1. 犯罪歴:発達早期から多種多様な反社会的行動を行っている
  2. 反社会的交友関係:反社会的傾向を有するものとの交友がある
  3. 反社会的認知:反社会的な価値観、態度を有している
  4. 反社会性パーソナリティ:共感性の欠如、自己中心性、刹那的な傾向など
  5. 家庭内の問題:家庭内に葛藤があったり、家族関係が不良、しつけ不足
  6. 教育・職業上の問題:学校や職場でうまくいかない、対人関係の問題があるなど
  7. 物質使用:アルコールや違法薬物などを使用している
  8. 余暇活用:建設的な余暇活動を行っていない

本作における少年3人も、該当する要因が多いことがわかります。

少年の非行に関しては、家庭がうまく機能していないことも少なくありません(もちろん、全部がそうとも言いません)。
結局、たとえ少年院などに行ってもいずれはもとの環境のもとに戻るので、最初は「ちゃんと頑張ろう」という意識があったとしても、以前とまったく同じ環境に身を置いていれば、同じパターンに陥りやすくなるのも当然です。
薬物などでも、やはり過去に繋がりのある売人や仲間が再び近寄ってくることが、大きな再犯リスクとなります。
環境を変えづらいという意味では、むしろ成人より少年の方が難しいかもしれません。

他には、発達障害の二次障害として「DBDマーチ」という概念があります。
これはADHDなどの発達障害がある子どもが家族や周囲の理解を得られず孤立し、疎外感を感じて反抗的になって非行に走り、それによってさらに周囲からは孤立して、非行や犯罪を繰り返すようになってしまう、というものです。
これは「発達障害は犯罪を起こしやすい」というものではなく、「二次障害」とあるように、環境や周囲の影響によって生じる概念です。

だいぶ話が逸れてしまったので『白い闇の獣』に戻ると、山岡も、家庭裁判所での審判の内容からは、不安定な家庭に育った様子が窺えます。
父親はほぼ不在、母親はアルコール依存傾向?で、兄も非行に走っていたようです。
もちろん山岡自身の素因も合わさりつつも、環境の影響も大きそうで、どこかで立て直せる機会はあったのではないか
しかし一方で、一度転がり始めて勢いに乗ってしまったら、よほど環境などを変えないと立て直しは難しいとも思えてしまいます。
少年院や刑務所で、いわゆる「悪い繋がり」ができてしまうことも、実際に少なくありません。

ただ、いずれにしても、最初から山岡が「獣」だったのかといえば、そうも思えません
終盤、香織が自身の中にも獣を見出したように、それは誰しも持っている要素の一つなのでしょう。
しかし、それが一度目覚めてしまったら、それを再び檻の中に戻す作業は、並大抵のことではありません。


本作の舞台であった2000年〜2004年は、1997年の神戸連続児童殺傷事件などの重大事件を経て、ちょうど少年法の改正が動き出した時期でもあります。
その後はすでに何度も改正されていますが、法律が「完璧」になることはあり得ません

たとえ加害者が罰せられようが殺されようが、被害者や遺族の悲しみは消えることはありません。
犯罪は被害者だけでなく、多くの人の人生を狂わせます。
少年事件や、被害者が子どもであればなおさらでしょう。
そもそも「犯罪」という概念も、人間が暫定的に定義したものに過ぎません

人間は、社会をどのように維持していけるのか。
自分が同じような状況に置かれたら、自分だったらどうするのか。
こうやって苦しみ、葛藤し、行動した人たちも、100年後には全員いなくなっているであろう虚しさ。
一方で、その中でもがきながらも今を、自分を、他者を大切に生きる人間の強さ。

読んでいる間、そんな壮大なテーマが浮かんでは消えていました。
正直、内容に関しては現実的である分個性的ではなく、しばらくすると忘れてしまいそうです。
ですが、この何とも言えない感覚は、いつまでも残り続けていくような気がする作品でした。

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