【小説】矢部嵩『保健室登校』(ネタバレ感想)

【小説】矢部嵩『保健室登校』(ネタバレ感想)
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『保健室登校』の概要と感想(ネタバレあり)

タイトル:保健室登校
著者:矢部嵩
出版社:KADOKAWA
発売日:2009年12月25日

転入生の彼女は疎外感を味わっていた。
級友は間近に迫った旅行の話でもちきりなのだ。
だが、待ちに待った出発の日、転入生が見た恐るべき光景とは?
普通の学校生活が恐るべき異世界へと変わる瞬間を描く──。


『紗央里ちゃんの家』で衝撃を受けた矢部嵩の2作目。

いやもうほんと、すごいですね。
すごいとしか言いようがありません。
もともと乏しい語彙が吹き飛び、もはや理屈ではなく感覚でこの世界に浸るしかない作品でした

狂気を感じさせますが、狂っているというのとはまた違う感覚です。
奇妙であり、不気味。
『紗央里ちゃんの家』の感想でも書きましたが、とにかく内容から文章から、あらゆる面において「ずれている」感覚が尋常ではありません

決して狂っているわけではないのです。
なぜか、何が起こっているのか、どんな会話が交わされているのかは理解できてしまうのです。
しかし、全体として理解できない。

「日常からのずれ」が、ホラーの定石の一つです。
幽霊の存在しかり、怪奇現象しかり、恐ろしい人物しかり。
しかし『保健室登校』含め矢部嵩作品は、「日常の何か一つがずれている」のではなく、「日常のすべてがずれている」ような感覚を抱きます
しかし、ファンタジーともいえず、あくまでも「日常がずれている」感覚を維持しているのが凄まじい。

いつも決めた位置に置いている物がずれていると落ち着かないものですが、矢部嵩作品は、あらゆる物すべてが5cmずつずれているような、そんな気持ち悪さ、居心地の悪さ、不安感を喚起させられます。
それも、同じ方向にずれているのではなく、てんでばらばらの方向に。

しかしやはり、それなのに物語として成り立っており理解できる点が、個人的には一番恐ろしいです。
つまり、上述した通り狂っているのではなく、あくまでも常識を理解しているからこそのバランス感覚でのずれだからです。
逸脱しそうでしきらない。
常識に収まりそうで収まらない。
常に不安定なバランス感覚が、個人的には最大の魅力で大好きです


矢部嵩は若干19歳でデビューしたというのも怖い話ですが、こんな物語や文章を創造する人間が同じ社会に生きていると考えるだけでも恐ろしいものがあります(失礼)。
でもきっと、普段はものすごく普通なのではないかと。
出会ってもおそらく、何の違和感も抱かないぐらい。

社会に適応できないタイプの天才なのではなく、適応している擬態型(ちいかわネタ)なのです。
プライベートの情報は一切存じませんが、たとえば会社で働いていたら、あまり目立ちはしないけれど、常識的でいい人という印象なのではないか、と勝手に想像。

でも、朝起きたらまず牛とか解体しているんです。
食べるためでも趣味でも仕事でもなく、ただ解体するための解体。
それが日常のルーティーンなのです。
朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、歯を磨いて、牛を解体して、着替えて、仕事へ行く。

食べるわけではないので解体した牛は捨ててしまうのですが、生き物を弄ぶな、食べ物を無駄にするなと非難されてしまうため、肉や内臓は煮詰めてドロドロに溶かした上でミキサーにかけて、骨は砕いて混ぜ込んで、完全犯罪のごとく証拠は隠滅します。

煮詰めるときの匂いが強烈なので、匂い消しのハーブも育てているでしょう。
夜、家に帰ってくると、消臭効果が高まるようにと優しくハーブに話しかけ、その日あったことを報告するのが日課です。

矢部嵩ファン、あるいは万が一億が一ご本人がこの文章を目にされてしまったときのために念のため申し添えておきますが、これは最大級のリスペクトと賛辞のつもりです。
先がまったく読めないことがこれほどの不安とワクワク感を与えてくるものなのかということを、改めて思い出させてくれた作家さんです


合わない人には徹底的に合わないでしょうが、文章も個人的には大好き
謎の中毒性があり、癖になります。
『紗央里ちゃんの家』の序盤では強烈な読みづらさを感じたものですし、読み慣れてもなお読みづらいのは間違いないのですが、もはやこの文章が恋しい。
最初は奇を衒っているのかと思いましたが、そうではなく、これが平常運転であるっぽいというのも恐ろしいです。

この点も、やはり最低限のルールは守られていますからね。
読点は少ないですが、ちゃんと文章は句点で終わりますし。
言葉遊びといえば西尾維新ですが、西尾維新の文章は「ルールや枠組みの中でいかに遊ぶか、新たなチャレンジを試みるか」という印象です。
一方で矢部嵩の文章は、最低限のルールの中で自分の世界を最大限表現しているような印象。
発想と文章の相乗効果がまた、とんでもない個性を放っています。

単著で書籍化されている作品は少なめですが、まだ読んでいない作品を追っていくのが楽しみです。

以下、簡単に本作それぞれの感想を。

クラス旅行

つかみはばっちり。
転校早々、椅子に包丁がセットされている時点で、「あぁやっぱり矢部嵩作品は全部こういう世界観なんだ」と安心かつ痛感しました

転校生の孤独感が描かれているようで、そんなレベルの問題ではないという世界観。
全作品を通じて言えますが、視点となる登場人物は常識的な価値観を持ち合わせているようで、根本的なところで感覚や対応が間違っているような奇妙さ。

実は、「クラス旅行」を読み始めた時点では本作が短編集だとは思っておらず、『紗央里ちゃんの家』のような長編だと思っていました。
なので、いきなりクラスメイトたちが首を吊って早々に全滅していたシーンはあまりにも衝撃的でした。

優しく接してクラス旅行に誘ってくれた缶田さんより、徹底的に遠ざけようとしていた布田さんの方が専子のことを助けようとしていたのでは、というのは印象的。
でもやっぱり、何かそんなレベルの話ではないのです。
根本的な部分でずれまくっているのです。

血まみれ運動会

なるほど舞台や登場人物に繋がりのある連作短編集なのか、というのを理解し始めた2作目。

クラス単位での行事というのは、嫌いな人も多かったのではないかと思います。
クラスの団結を促すようで、足を引っ張ってしまう人が引け目を感じ、カースト上位が調子に乗り、協調性のない人が全体をかき乱し、むしろ確執や問題が深まってしまうことも少なくないでしょう。
そもそも学校なんて、ただ同じ年に近い場所で生まれた人を寄せ集めているに過ぎないので、全員がうまくいくわけがありません。
そんな負の側面をうまく拾い、極端すぎる形で加速させたのが本作でしょうか。

とにかく細かな会話やエピソードがいちいち訳がわからないのですが、その中でも、本作のサブリミナル効果は好きでした。
「走っている人間の映像の間に走っている人間の映像をカットバックさせることで、走っている人間の映像を刷り込む」って、ほんとどうやったらこんな発想が出てくるのでしょう

小樽さんがまとめたクラスごとのインタビュー映像も好き。
「2田」とか「3山」とか、名前に英数字を混ぜ込んでくるセンスも脱帽しかありません。
他の人の名前も、急に駅名で適当になっているところも良い。
そんなエピソードの主人公が「駅子」て。

表記でいえば「一位青二位赤さい黄色四位ムラサキ(以下略)」も衝撃でした。
確かに話し言葉で聞けば「3位」は「さい」に聞こえ得るかもしれませんが、いやでもそうか?そんなこともなくないか?そうだとしてもわざわざ小説の中で「さい」と表記するか?
しかし、一瞬意味がわからないけれど「3位」であることが理解できてしまうバランス感覚が本当に絶妙。

死ね子とかにゃんにゃん者とか、もはや意味不明の単語が説明も脈絡もなく登場するのも、「あぁこの世界では当たり前なんだな」と思わされ、だんだんと自分の常識や感覚の方が間違っているかのように錯覚してしまいます

ラストのリレー本番はもうあまりにもめちゃくちゃすぎて、むしろギャグ化しており笑ってしまいました。
もはや誰もが目的を見失っており地獄絵図でしかないリレーシーン、本作で一番好きなシーンかもしれません。

最後に虹を見上げて「綺麗だねー」「本当」で終わるのもすごいですが、あそこで描かれていた虹は「赤と橙と黄色と緑と青と紫のその光を見上げる内に(以下略)」と書かれており、6色しかありません。
そしてこの6色は、6クラスのカラーでもあります。
彼女たちは見上げていたのは、本当に虹だったのでしょうか?

期末試験

ストーカー?
変態教師?
失礼だな、純愛だよ。
な、常備先生のお話。

むしろ昼べさんの方が先生を好きだったという意外性がありましたが、それ以上に異常な常備先生のアプローチにすべてが吹き飛びます。
整形のために顔を削ぎ、先生として、いやエンタメである小説として躊躇なく犬の首を刎ねまくり。
果ては自分の首まで刎ねてしまい。
愛のなせるわざでしょうか。
両想いで良かったですね、昼べさんも丸をもらえて良かったですね、とはとてもなりません。

終盤、常備先生も昼べさんも何か常識にとらわれない大切で深いことを言っていたような気もしますが、その前後の血みどろな展開の合間に力説されても、心に刺さるような刺さらないような不思議な感覚に。
他のエピソードもそうですが、セリフだけ切り取るとけっこう物事の本質を突く大事なことを言っているのに、いや、この状況でそんなことを言われても、みたいなシーンが多々ありました
そんな唐突に本質的なことをぶっ込んでくるところもまた、魅力なんですけどね。

毎回、最後の保健室でのシーンが謎にほっこりするな、というのもこのエピソードのあたりから感じてきました。
これが教室に行くことに対する緊張感が高い場合の、保健室登校の安心感でしょうか。

平日

当然のように登場する宇宙人の盗難騒動。

これもまた、犯人を見つけることが大切なのか?
過程が目的となり、本当に大切なものを見失っていないか?
と問いかけてきているようで、それどころじゃない作品。

そう、別に何か問いかけたり、考えさせようとしている作品ではきっとないのです。
これはただの「平日」。
これが、彼ら彼女らにとってのただの日常なのです
我々の常識的な価値観をこの世界に持ち込んだところで、自らの混沌と混乱を引き起こすだけなのでしょう。

ただ、自分の中の「当たり前」は、本当に当たり前なのだろうか?
そして、それを他の人に押しつけていないだろうか?
という点を再考するには最適な作品かもしれません。

執拗に「宇宙人ってなに」と尋ねる富士見先生は応援してしまいました。
でもきっと、宇宙人である必要はないのでしょう。
地底人だって、宝物だって、使い古したおもちゃだって、いや、あるいは思い出だって、良心だって、自尊心だって、他人を思い遣る心だって、きっとモノ自体は何でも良かったのかな、と思います。

殺人合唱コン(練習)

もうタイトルから期待してしまいましたが、期待に違わぬ好きな作品でした。

しかしまぁ、グロ・ゴアというよりは、とにかく汚く気持ち悪くなります。
これだけの人数がこれだけの回数嘔吐する作品が他にあるでしょうか
行儀の悪い話で恐縮ですが、たまたま1人でご飯を食べながらこれを読んでいたのですが、さすがに「ちょっと間違ってるな」感を抱いてしまいました。
どんなにグロ・ゴアな映画を観たりしながらでも平然とご飯を食べられるタイプなのですが、さすがにこれだけ景気良く吐かれるとちょっと。

とにかく、合唱の練習というだけでここまで意味のわからない展開を延々繰り広げられるのは、改めて感心しかありませんでした。
そもそも武蔵野さんたちの腸に何があったん……というのは突っ込まずにはいられません。

しかし、これもまたテレコムさん(本名なのか?)の存在が意味深です。
周りには音痴どころか歌ですらないように聞こえるのに、正しく歌えていると主張するテレコムさん。
武蔵野さんたちの惨劇を、虫垂炎という我々にとって理解可能な認識をしていたテレコムさん。
もしかするとテレコムさんは、こちら側(?)の人間なのかもしれません

終盤に登場したベッド上の武蔵野さんは、ゲームの『サイレントヒル』をイメージしてしまいました。
もはやクリーチャーのような壮大さ。

担任の最古先生が駅子を呼び止めたシーンで、「弓手に名簿か何かを抱えていた」と書かれていました。
恥ずかしながら「弓手」という言葉を知らなかったので調べたところ、「左手」とのこと。
やめて、急にこういう高尚な表現をぶっ込んでくるの、本当にやめて(好きです)。
やはり西尾維新とはまた違った形で、文章の自由さが半端ありません。

最後はやはり、保健室のシーンで幕を閉じます。
これだけのことを経験してきながら、専子も駅子も可絵子も、当たり前のように受け入れて進んでいこうとしています。
苦難や悩みはありながらも、思春期に悩みがあるのは当然で、彼女らにとってこれは日常だといわんばかり。
きっとこれからも、変わらずにこんな学園生活を過ごしていくのでしょう。



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