【小説】矢部嵩『〔少女庭国〕』(ネタバレ感想・考察)

【小説】矢部嵩『〔少女庭国〕』(ネタバレ感想)
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作品の概要と感想とちょっとだけ考察(ネタバレあり)

タイトル:『〔少女庭国〕』
著者:矢部嵩
出版社:早川書房
発売日:2019年6月20日(単行本:2014年3月7日)

卒業式に向かっていたはずの中3少女たち。
目覚めると奇妙な貼り紙が。
「ドアの開けられた部屋の数をn、死んだ卒業生の人数をmとする時、n-m=1とせよ」。




『紗央里ちゃんの家』で衝撃を受け、『保健室登校』で完全に惚れた、矢部嵩の読了3作目。
もはやジャンル分けは不能ですが、強いて言えば、いや、強いて言っても哲学SFファンタジーぐらいの感じでしょうか。

もう、完全に圧倒されました。
『保健室登校』の時点で薄々「もしや天才では?」と思っていたのですが、本作で確信しました。

天才としか言いようがない

正直、感想を書くのも畏れ多くなっています。
と言うと逆に、普通に感想を書いている他の作家さんに失礼な感じにもなってしまうかもしれませんが、もちろんそういったニュアンスではありません。
通常、感じたことや考えたことを素直に書けるのですが、本作に限って言えば、何を書いても的外れになりそうな、自分の馬鹿さ加減の露呈にしかならないような。

もう、萎縮してしまっているのです。
自分は森博嗣を崇拝しているのですが、森博嗣作品はこのブログでは扱っていません。
それは同じ理由によるものです。
触れるのが烏滸がましく感じてしまうほど、神聖すぎる。

そんな感覚をこの作品にも抱きました。
壮大な思考実験というか、天才の脳内の一部をちょっとだけ直接見せてもらえたような感覚。
内容や作風が似ているわけではまったくありませんが、本作に森博嗣っぽさを感じたのも事実です。
人間の自由とは思考することにこそある、といったような。

好き嫌いは極端に分かれそうですが、個人的には久々に途轍もない衝撃を受けた1作となりました
読了直後で過大評価になっている面もあるかもしれませんが、トップレベルに好きな作品の一つ。
なのでせっかくなので、衝撃のままに感想は残しておきたいと思います。


まずは、スタートは映画『CUBE』などを彷彿とさせるようなソリッド・シチュエーション・スリラーのようなデスゲーム感があり、訳のわからない世界観は矢部嵩作品の常ですが、その極端さが際立っています。
次々と目覚める少女たち。
いつも通りのどこかズレた、しかし癖になる不安定な会話。
まったくもってありがちなデスゲーム展開にはならない、先の読めなさ。

デスゲームを見ていたはずが……
いつの間にか、人類史を辿ってるー!?

早川書房のサイトに記載している「アンチ・デスゲーム小説」という表現がまさにぴったり。
デスゲームっぽさからはどんどんかけ離れていきますが、デスゲーム好きにこそ読んでほしい作品でもあります。
しかし、デスゲームを求められても困る。
かといって、どんな作品か説明するのも難い。
何とも紹介するには難しすぎる作品です

仁科羊歯子を主人公としたデスゲームっぽい序盤の展開は序章に過ぎず、本領が発揮されるのは「少女庭国補遺」に入ってからでした。
ちなみに、「羊歯子」なる名前で振り仮名がないこと程度ではもはや驚かないぐらいには、すでに矢部作品に調教されています。
のちに「羊歯子」は「しだこ」と判明しましたが、後半はもう正確な読み方がわからない名前のオンパレード、さすがです。

「少女庭国補遺」に入ってしばらくは、もうシュールすぎて笑ってしまいました。
「起きた女子の中に卒業式で使う目的で爆弾を持っていた者がいたため、場の全員が吹き飛んで死んだ」「十五歳の母!?」とかもう笑わずにはいられません。
最初の状況説明もコピペのように見えて徐々に変わっていくところも好き。
表現の好きなところも挙げていくとキリがありませんが、「ワンフォオオオルオオルフォワン」はさすがだなと思いました。


しかしとにかく、恐るべきは徹底した想像力ですね
速攻終わるケースも含めてこれだけの選択肢が浮かび、それぞれがどう発展していくかを徹底して突き詰めていく。

まるで簡略化された人類史を辿っているようでもありますが、話はそう単純ではありません。
生まれたときから大枠は変わらない環境下で育ち繁殖しながら進化してきた人類史に対して、彼女らはすでに進化した状態で、突然極端に異なる環境へと放り込まれます。
何百万年とかけて進化した脳を持ち、かつまだ思春期で若いとはいえある程度ぬくぬくとした科学的・現代的な生活に適応し慣れた状態で、いきなり何もない状態に放り込まれ閉じ込められ放置される。
そうすると、果たして人間はどうなるのか?

そこから見えてくるものは、人間はやはり生きようとするのだなということと、それによる生存者バイアスです

本作の環境下における最も合理的な判断は、言及されていた通り「2人に1人を殺し続けていくこと」でしょう
それで卒業(元の世界に解放)されるのかは保証されていませんが、与えられた情報だけで考えたとき、もっとも合理的な判断である可能性が高いのはこの選択肢となるはず。

しかし、人間はいつも合理的な判断ができるとは限りません。
合理的な解答がわかっていても実行できない人。
最善を考える前にまずは行動して突っ走っていく人。
そのような多様性によって、人間は繁栄して生き長らえてきたとも言えます

そして人数が増えて集団になると、社会や文明を形成せずにはいられないようです。
それは作中にも出てきたマズローによる人間の欲求階層(生理的欲求→安全の欲求→……)に基づくもの。
もはやそこでは、何のために生きるのか?という問いは失われていきます。

文明を築き、そこに適応し、過去の世界や生活を忘れかけている彼女たちの姿は、ここから脱出するという本来の目的をすっかりと見失っているように見え、ある種の恐怖を抱かせます。
生きるために生きているだけのような。
そしてふとしたときに思い出すのです。
何のために生きているのだろう、と。

しかしこれは、我々の生活と何が違うのでしょう?
生殖・繁栄の先に何があるのか。
そこに答えはありませんし、そもそも目的を考え、答えを求めようとしてしまうのが人間らしさとも言えます。

「種の存続が動物の本能だ」とも言えますが、その本能こそが生存者バイアスでもあるでしょう。
とにかく、合理的な判断に限らず、種として生き延びようと戦ってきた遺伝子が生き残っているのです。
生き残ってきた者の価値観で、種は定義されていきます
歴史は勝者によって作られるのです。


本作には、オチらしいオチや解決はありません。
あの空間も何もかもが謎のまま。
卒業試験をクリアしたとしてどうなるのかも謎のまま。
それなのに、なぜ読んでいて楽しいのか?

「六十〔東南条桜薫子〕」のエピソードが、比較的この作品の本質の説明に近いように感じました。
著者からのサービスのような。

一つは、ソリッド・シチュエーション・スリラーなどのデスゲーム好きに向けられた側面はあるでしょう。
デスゲーム系の何が楽しいかと言えば、極限状態における様々な人間の本質が垣間見えるところです。
争いあり、助け合いあり、裏切りあり、犠牲あり、殺し合いあり。
美しさと醜さの競合。

それらを悪趣味に観察する楽しさが、デスゲームモノの醍醐味です
安全圏から人間ドラマを眺め、「自分だったらこうするのにな」など空想に耽るエンタテインメント。
登場人物となる彼らは、なぜそんなことをされているのかわかっていません。
デスゲームの理由や設定が説明されてもなお、です。

しかし本作は、デスゲーム特有の争いや感情的な言い合いなどはあまり見られません。
パニックになって泣き喚いたり、裏切って出し抜こうとするような登場人物はほぼいないと言って良いでしょう。
言動は矢部嵩の独特さがありますが、極限状態に直面した際のリアルさという点では、本作の方がリアルではないかと思えるほどです。
それが「アンチ・デスゲーム小説」たる所以でしょう。
いかにもデスゲームっぽい展開は、まったくもって見られません。

なので、本作の空間がなぜ作られたのかと言えば、東南条桜薫子が推測していた通り「ただ眺めたい存在がいただけ」なのではないかと思います
「観賞用の殺し合いの種を蒔いた無限の庭の移り変わりを」眺めて楽しむだけの空間を。
彼女らがどれだけ生き長らえ文明を発展させ帝国を築いても、それは庭国でしかないのです。

それは矢部嵩の脳内に存在し、本作を楽しむ読者の脳内にも存在する庭です。
「好きなんじゃないそういう話が」というセリフが突き刺さりました。
もし我々が生きるこの世界を創造した神様がいるとしても、同じような存在なのではないか、とも思います(一部から怒られそう)。


また、他にも本作で恐ろしいのは、上述した一番合理的と思える判断でも、意味がない可能性もあることです

本作の途中、1人の生き残りを奴隷とする文化も生まれていました。
ここまで来るともう、自分の力では「n−m=1」は作り出しようがありません。

管理者側の集団自体ももう、目的を失って慣性と惰性で維持されているだけに過ぎなくなっていくのでしょう。
「間に色々噛ましてあるだけで、百人食わすために千人殺して、殺し合うのと変わらないじゃない」「意味がないからパーティーにすんだろ」「この街じゃ一万人殺しても外に出られない」という路子の叫びは、とても悲痛。
どれだけ綺麗事を口にしても、すでに出来上がった枠組みの中で個人にできることには限界があるのが現実です。

「n−m=1」になったら脱出して元の世界に戻れるとしましょう。
自分が先頭として目が覚めて、次の部屋の人を殺したとしても、先ほどの文化の中では奴隷になるだけです。
また、本当にリセットされて自分が先頭になったのだとしても、過去開け放たれたドアのカウントまでリセットされるのかもわかりません。
そうなると、永遠に「n−m=1」にはなり得なくなってしまいます。

過去がリセットされず、未来は無限に続くだけだったとき、「n−m=1」にするにはどうすれば良いでしょう?
それはもう、すべてのドアを開け切って、1人以外絶滅するのを待つしかありません。
しかしドアが永遠に続くのであれば、そんな状態にはなり得ないという矛盾。


仮に「すべてのドアを開け切った状態」があり得たとき、それはどんな状況でしょうか。
ドアも壁もすべて破壊したとして。
それは、すべての部屋が繋がった「一つの世界」です。
それは我々が生きる地球と何が違うでしょうか

ドアの開いた部屋の数は、常に目覚めた卒業生とイコールです。
ドアが開くのは、あの世界における彼女たちの誕生の象徴。
真の意味で「n−m=1」になるには、すべての部屋を開け切って一つの世界とし、その中で最後の1人になるしかありません。

地球上の人間がついに滅んでいき、最後の1人になったとき。
いずれその人も死に絶え、人類は絶滅するでしょう。
それが「卒業」のタイミングなのかもしれません。

ですが我々は、今を生き、今の些細な出来事に幸せを感じることができます。
ドア越しにとりとめもない会話をするだけでも。
大きく発展した社会で女王様となった羽田ロジ子よりも、最後にドア越しに静かに語り合っていた石田好子と本田加奈子の方がよほど幸せそうに思えてしまいます。

「このままでいようよ。私たちはもう補われたのだから」というセリフで終わるラストには、個人的には美しさを感じて救われた感覚になり、どう考えても終わらせ方が難しかったであろう本作において、この静謐で美しい締め方はさすがだな、と感じました。

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