【映画】CUBE 一度入ったら、最後(ネタバレ感想・心理学的考察)

映画『CUBE 一度入ったら、最後』
(C)2021「CUBE」製作委員会
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作品の概要と感想(ネタバレあり)

映画『CUBE 一度入ったら、最後』
(C)2021「CUBE」製作委員会

突然、謎の立方体=CUBEに閉じ込められた男女6人。
エンジニア、団体職員、フリーター、中学生、整備士、会社役員と、年代も職業もバラバラな彼らには何の接点もつながりもない。
理由もわからないまま、ひたすら脱出を試みる彼らに、熱感知式レーザー、ワイヤースライサー、火炎噴射といった殺人的なトラップが次々と襲う。
脱出するためには仕掛けられた暗号を解読しなくてはならないという極限状態の中、それぞれの人間の本性が徐々にあらわになっていく──。

2021年製作、日本の作品。
カナダのヴィンチェンゾ・ナタリ監督による1997年の名作スリラー『CUBE』の日本版リメイク作品

さて、原作『CUBE』大好きファンとして、日本版リメイクは「観たい、観たくない、観てみたい、観たくない……」を延々繰り返していましたが、ようやく鑑賞。
ざっくりした感想としては、期待値を極限まで下げていたので、思ったより楽しめました
星野源の「Cube」は、ちょっとだいぶ雰囲気が合っていなかったような気がします……。

個人的には岡田将生が好きなので、そこだけで点数アップ。
あの岡田将生の使い方は、ずるいですよね(褒め言葉)。

当然ながら、原作『CUBE』ファンが原作と本作を比較すると、どうしても本作の評価は低くなってしまいます。
日本版リメイクが発表された際、原作ファンはほぼ全員「なぜ……?」と思ったはず。

しかし、『CUBE』ももはや1997年と、だいぶ古い作品になりつつあります。
菅田将暉や岡田将生といった豪華若手俳優陣から見るに、原作ファンを狙ったリメイクというよりも、『CUBE』を知らない若い層に向けたリメイクという側面が強かったのだろうと捉えています。

それを前提として、原作との比較なしの単体作品として捉えれば、日本ではあまり見られないソリッド・シチュエーション・スリラーものとしては、代表作になり得るのではないかと思います。
ヴィンチェンゾ・ナタリ監督公認のリメイクであり、監督自身、日本版リメイクもクリエイティブアドバイザーとして参加しているだけあって、CUBE内の無機質な独特の雰囲気は、とても完成度が高いものでした。

一方、『CUBE 一度入ったら、最後』を単体で観たときには、ストーリーや背景はだいぶ訳がわからないのは間違いありません
その点は『CUBE』こそ背景が一切描かれないので良いと思うのですが、『CUBE 一度入ったら、最後』は、登場人物の背景やトラウマの救済の物語が描かれつつも、とりあえず詰め込んだような中途半端感が少々否めません。
ラストは、まさかのあの状態で後藤裕一(菅田将暉)が生きているのも衝撃すぎますが、続編を意識しすぎている感も感じてしまいました。

『CUBE 一度入ったら、最後』は主に後藤が主人公的に描かれ、後藤の抱える過去のトラウマの克服がなされましたが、それはそれでかなり強引な持っていき方で中途半端。
それによってCUBEの背景が明らかになるわけでも、6人が選ばれた理由に繋がるわけでもない。
という、無理にドラマ性をねじ込んでどっちつかずになってしまった印象です。

また、あえて本家『CUBE』と本作を比較すると、個人的な一番の違いは閉塞感やストレスの有無でした。

『CUBE』では、徹底してCUBE内の出来事のみが描かれ、そこには強いこだわりを感じさせます
どこまで行っても続く景色の変わらない立方体の部屋。
暗めの画面。
残虐なトラップの緊張感。
人の囁くような声がリミックスされた、不安定な音楽。
徐々に追い詰められていき、口論を繰り返す登場人物たちの姿。
目のアップという視覚的演出や、障害があるらしいカザンが立てる気に障る音といった聴覚的演出。

それらの相乗効果により、観ている側にも息苦しくなってくるような閉塞感とストレスを与えてくるのが『CUBE』の特徴でした。
一方の『CUBE 一度入ったら、最後』は、短いながらも後藤の過去の回想シーンがちょくちょく挟まれるので、その閉塞感が拡散してしまっていた印象です。


とはいえ、やはり日本に少ないソリッド・シチュエーション・スリラーなので、本作を皮切りに頑張ってほしい思いが強くあります。
邦画でのソリッド・シチュエーション・スリラーは、失敗するとめっちゃ安っぽいセットにお遊戯会みたいな目も当てられない作品になってしまう危険性があると思っているので、個人的には『CUBE 一度入ったら、最後』の完成度は評価したい。

日本でソリッド・シチュエーション・スリラーが少ないのは、狭い土地柄、舞台設定が難しいからというのが一因でしょうか。
CUBEだって、日本では誰にも知られずにこっそり作るなんて無理そうですからね。

後半は、本家『CUBE』3部作とも比較しながら、『CUBE 一度入ったら、最後』の謎について考察したいと思います。

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考察:『CUBE』3部作との比較を通して(ネタバレあり)

映画『CUBE 一度入ったら、最後』
(C)2021「CUBE」製作委員会

以下、『CUBE』『CUBE2』『CUBE ZERO』のネタバレも含まれますので、ご注意ください。

『CUBE』3部作について

『CUBE』のネタバレになるのでこちらに持ってきましたが、感想の延長として、個人的に『CUBE 一度入ったら、最後』で残念だったのは、謎解きとトラップのインパクトの低下でした。

謎解きは、『CUBE』に比べるとだいぶシンプルになっています。
最初は足手まといに思えたカザンが実はサヴァン症候群であり、脱出の鍵を握るというトリックスター性も、『CUBE』は実に見事でした。

また、『CUBE』ファンの中には、残虐なトラップ好きも多いはず。
『CUBE』でも実質トラップで死んだ人間はほとんどいないにもかからず、元祖サイコロステーキ先輩と顔面硫酸だけでも、かなりのインパクトがありました。

元祖サイコロステーキ先輩は、「立方体に切り刻まれる」という意味においても、非常に『CUBE』という作品を象徴する死に方でした。
『CUBE 一度入ったら、最後』では、柄本時生演じるモブが心臓あたりを大きく四角くくり抜かれて死に、これはこれで好きではありますが、やはり美学的には本家に軍配が上がります。

また、井手寛(斎藤工)の死に様があまりにもかっこ良すぎました
『CUBE』にはなかったスタイリッシュさを持ち込むのはそれはそれで良いのですが、他者を救い、直立して手を伸ばしたポーズのまま無念の死を遂げた井手。
あそこで斎藤工の顔が酸で溶けてたら、もっと評価してました。


などと、趣味の悪い話はさておいて。

本家『CUBE』で描かれていたのは、徹底してCUBE内に閉じ込められた6人の出来事のみに特化されており、CUBEを作った者たちについては登場人物たちが推理はしますが、それらの謎は一切、これっぽっちも明かされないままラストを迎えます。

その点は『CUBE 一度入ったら、最後』も同様であり、背景が一切わからないまま終わってしまうという不満は、「そういう作品だから仕方ない」で済ませるべきなのかもしれません。

しかし、潔く背景要因はすべてカットした『CUBE』に対して、『CUBE 一度入ったら、最後』では、甲斐麻子(杏)の存在が非常に異質です。
彼女が運営側の立場であることが明かされたのはとても大きな違いですが、結局謎はほぼ解明されないまま終わってしまい、宙ぶらりん感は否めません。

彼女の存在は、『CUBE2』『CUBE ZERO』で明かされたCUBEの背景要因との絡みも想起させます。
ただし、この2作はヴィンチェンゾ・ナタリ監督は一切関わっていません。
もし日本版も続編があるとしたら、オリジナルの設定になっていく可能性が高いかな、と思っています。

が、ここではあえて本家3部作の情報も使いながら、『CUEB 一度入ったら、最後』の謎について考察しておきます。

CUBEの目的や、被験者に選ばれた基準

CUBEの背景については、『CUBE2』『CUBE ZERO』である程度明かされました。

大まかには、「IZON(アイゾン)」という民間の武器製造会社がCUBEのプロジェクトに関わっていました。
さらにバックには政府の存在もあったかもしれません。
その目的は、化学薬品や生物剤などを使い、人間の脳の状態などを調べるという、いわゆる人体実験でした。
CUBEは一つだけではなく複数存在しており、それぞれで目的が異なる様々な実験が繰り返されていたようです。

被験者として選ばれたのは、『CUBE ZERO』によれば、死刑を免れるために被験者となることを選んだ死刑囚や、同意したボランティア
しかし、違法ストライキを行っていた政治犯など、運営側(あるいは政府?)が気に食わなかった者たちも、資料を改竄されて参加させられていた可能性がありました。
部分的にCUBEの設計や開発に関わった人たちも数名いましたが、彼らは口封じのために放り込まれたのかもしれません。
そんな彼らは、ある程度記憶を消去された上でCUBEに閉じ込められました。

ただ、上述した通りこの2作にはヴィンチェンゾ・ナタリ監督は関わっていないですし、これがそのまま日本版に当てはめられるわけではありません。

少なくとも、『CUBE 一度入ったら、最後』の被験者たちは、中学生もいますし、全員死刑囚や罪人とは考えられません。
記憶をいじられていたら何でもありになってしまうので置いておいて、後藤も過去に弟の自殺の最後の一押しになってしまったにせよ、犯罪でもなければ、「罪」と言えるのかどうかすらわかりません。

個人的には、『CUBE 一度入ったら、最後』のメンバーたちに課せられていたのは、贖罪や立ち直りのような、「過去を乗り越えて新たな一歩を踏み出すための試練」のように感じました。
そしてそれぞれ、対になるような組み合わせが存在します。

弟の自殺を防げなかったというトラウマを抱えた後藤。
ひどいいじめに遭い、助けてくれない大人に不信感を抱く中学生の宇野千陽(田代輝)。

フリーターで被害者意識が強く、年上や権力者が嫌いな越智真司(岡田将生)。
手段を選ばず出世街道を進んできたことに罪悪感を抱え、やる気のない若者が嫌いな安東和正(吉田鋼太郎)。

一方、少し扱いが違うのが井手と甲斐。
唯一閉じ込められる前の記憶があり、瀕死の妻のために脱出を急ぐ井手。
運営側のアンドロイド?的存在の甲斐麻子(杏)。
この2人は、進行役と考えられます

そのように考えると、人体実験などではなく、それぞれが課題を乗り越えるための試練と考えるのが、今のところ一番しっくりきます。
ただ、死んだ者も「COMPLETED」表示になっていたことからは、乗り越えられずに死んだらそれはそれで仕方ない、ということでしょうか。
その意味では、『SAW』の方がコンセプトが近いかもしれません。

『CUBE 一度入ったら、最後』の被験者の中で一番の謎は、甲斐の存在でした。
「杏のキャラ、喋り方アンドロイドっぽすぎない?存在感、空気すぎるけど大丈夫?」と思っていたところ、まさかの本当にアンドロイドらしかった甲斐さん

どうやら彼女が、あからさまな介入は避けながらも、ある程度進行や演出をコントロールしていたようです。
越智の感情状態の変化によるトラップ発動や、タイミング良く後藤の過去のシーンをスクリーンで映したのは、おそらく甲斐でしょう。

ちなみに、スクリーンの映像は、何であんな映像があったのかが謎すぎます。
映像が始まる前、後藤の全身がスキャンされるような演出があったので、後藤の記憶の映像化と解釈することもできますが、それにしても第三者視点であることは不可解でしょう。


また、おそらく大学生はいましたが、『CUBE』3部作では高校生以下の未成年は出てきておらず、『CUBE 一度入ったら、最後』の宇野の存在も異色です。
大人を信じられないとはいえ、それらもいじめ被害によるものであり、宇野に試練を課すのは過酷な気もします

宇野に対しては、甲斐が他のメンバーに対して以上に介入しており、抱き締めて慰めたり、背中を押して優しく見送る場面も見られたことから、もともと生存・脱出させるつもりだったと考えられます。
後藤がトラウマを乗り越えるためのキーパーソンであると同時に、そのことが宇野の大人不信の脱却にも繋がると考えて参加させたのかもしれません(相当スパルタですが)。

『CUBE2』『CUBE ZERO』などでは、CUBEを脱出しても結局殺害されていました。
宇野はさすがに殺されないとは思いますが、あのような異質な体験をして日常生活に戻れるのか、CUBEのことを喋らないかどうか運営側からマークされ続けるのでは、といった点が懸念されます。


後藤の過去の映像が準備されていたことからは、後藤のために全員が集められた可能性もあるかもしれません。
その場合は、安東は威圧的な態度、越智は暴力性と、後藤の父親の負の側面を象徴していると考えられます。
その2人から宇野を守ることが、後藤のトラウマ克服に繋がるという考え方です。
ただ、何でそんなに特別扱いされているかは不明。

井手は少々謎が多いですが、「もう間に合わないかもな、俺のせいだ」という台詞からは、妻が瀕死状態にあるのは井手自身のせいかもしれず、何かしら罪があって選ばれた可能性が考えれます。

ただ、運営する組織や、なぜこんな形で行う必要があったのかは、不明としか言いようがありません。
それはそれで『CUBE』らしさでもありますが、続編があるとしたら、そのあたりが明かされるのも期待したいと思います。

心理学的考察?:後藤の内的世界?

ここまで見てきた通り、『CUBE 一度入ったら、最後』は、かなり後藤中心の物語でした。
そのため、本作の出来事はすべて、後藤のトラウマ克服の心理的プロセスを表現したものであると考えることは可能でしょうか?
つまり、CUBEは後藤の内的世界ということです。

結論から言ってしまいますが、それは少々無理があります

一応検討してみると、CUBEという迷宮から、後藤の心が囚われ続けていた弟の象徴としての宇野を解放した、というのは上述したのとほぼ同じ考え方です。
そのような観点で考えれば、登場人物たちは、後藤の内的世界に存在する人格などを象徴するものになります。

安東と越智は上述した通り、父親の負の側面の象徴です。
では、井手と甲斐はどうなるでしょうか?
井手はリーダーシップを取り導いていく、父性の望ましい側面を。
甲斐は、冷静な知性と、優しく見守る母性の役割も担っていると考えられます。

また、成長は死と再生のプロセスです。
これまでの自分が一旦死ぬような体験を乗り越えてこそ、大きな成長に繋がります。
そう考えれば、後藤が最後に、明らかに死んでいそうな状態から起き上がったことも、「CONTINUED」となったことも、説明はつきやすくなります。

ただ、この説の致命的なところは、やはりラストシーンです。
甲斐が新たな被験者と出会ったことは、新たなゲームのスタートとしか考えられません。
とても強引に考えれば、後藤が抱えていた別のトラウマ克服物語が始まった(つまり、後藤はトラウマまみれの人間)と考えられるかもしれませんが、やはり、謎すぎる存在ではありますがCUBEはCUBEとして存在し、後藤の内的世界の表現ではないと考える方が自然でしょう。

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