作品の概要と感想とちょっとだけ考察(ネタバレあり)
タイトル:魔女の子供はやってこない
著者:矢部嵩
出版社:KADOKAWA
発売日:2013年12月25日
ある日へんてこなステッキを拾った縁で、キュートな魔女と友達になった小学生の夏子。
だが2人が良かれと思ってしたことが、次々血みどろ事件に発展していき──。
すっかり虜になった矢部嵩作品。
これで出版社から発売されている単著は読み切ってしまったことになるので、ロス。
さて本作『魔女の子供はやってこない』は、まるで童話のような連作短編集。
キラキラ魔女っ子物語……なわけはもちろんありませんが、笑いあり泣きあり、『紗央里ちゃんの家』のような不穏さや不思議なノスタルジーあり、ジュブナイル感あり、そしてもちろんカオスありと、幅広く様々な魅力がぎゅっと詰まった1作でした。
一方で、グロはありますがゴアは控えめ(あくまでも他作品に比べれば)。
物語性は、これまでの作品の中で一番に感じました。
まぁそもそも『保健室登校』、『〔少女庭国〕』あたりはストーリーなどあってないようなものですが、本作における伏線回収と物語の綴じ方は芸術的。
他作品はどこか拡散していくような開けた終わり方といった印象ですが、本作はしっかりと閉じて綴じて、しかし無限の広がりを持っているような、不思議な読後感でした。
個々の感想は後ほど述べるとして、全体の感想としては、何だか優しい物語に感じました。
同時に、厳しい。
人生は、自分で描けるけれど、自分で描いていったものの結果でしかない。
選ぼうが選ぶまいが、願おうが願うまいが、意志を持とうが持つまいが、すべては自分の選択なのです。
天災など自分ではどうしようもない出来事もあれど、その中で出来る選択を自らして辿り着いたのが今の自分であり、自分の人生です。
「何もしない、選ばない、流れるに身を任せる」という選択も含めて。
なので、自分の人生は自分で願って描くしかありません。
他者に願わせようとしたり、他者を利用して自分の人生を描こうとすると、歪んでしまうのでしょう。
自分の軸がまったくなかった安藤夏子の「誰かを助けたい」という想いは、「自分の存在価値を見つけたい」と同義だったのかもしれません。
とはいえ、いやいや夏子も最初は小学3年生ですからね。
小学生を主人公とした作品に対して「言動が小学生らしくない」という野暮な感想が飛び交うのも常ですが、矢部嵩作品は特に、そんな突っ込みは野暮中の野暮でしょう。
「魔女の子供はやってこない」「地獄は来ない」という言葉の意味合いは文字通りで、何かを待っていても来るものではないということかな、と思いました。
地獄だろうが何だろうが、自分で行くしかない。
魔法少女だろうが誰だろうが、自分で会いに行くしかない。
本作はすべて、夏子が描いた物語。
最終話は「私の育った落書きだらけの町」というタイトルでしたが、「落書き」とは何を意味するのでしょうか。
それは個人的には、この物語全てなのではないかと思います。
夏子の住む町は「自由町」でした(矢部嵩自身が描いた地図も好き)。
これを「じゆうちょう」と読めば、浮かぶのは「自由帳」。
文字だろうが絵だろうが何だろうが、自由に描いて良い無限の空間。
振り返れば、登場当初のぬりえちゃん(老婆の皮を被っていたとき)が魔法を使うときも、クレヨンで絵を描いていました。
大人になってから自由帳を渡されて「好きに使って良いよ」と言われても、何を書けば良いかわからない人も少なくないかもしれません。
おそらく子供時代の方が常識に囚われず、より自由に活用できた人の方が多いのではないでしょうか。
受動ではなく、たとえ消極的な選択であっても能動的な関わりが、自分を構成していきます。
自分の想った通り何でも好きに描いていくことが、魔法であり、人生なのかもしれません。
結果、幸せになるとは限りませんが。
そもそも何でも叶えてくれる魔法使いの名前が「塗絵」であることも象徴的です。
などとそれっぽい雰囲気だけ醸し出しながら薄っぺらく綺麗にまとめようとしても、矢部嵩作品の魅力がごっそり削ぎ落とされてしまうだけですが、そのような感覚を抱いたのも確かで、それはどことなく子どもの頃に読んだ児童書の読後感に似ていました。
まさにどこか童話のような。
今は亡き今敏監督にアニメ映像化してもらい、平沢進に音楽をつけてほしい。
個人的には、よりグロ・ゴアや狂気などが高めな『保健室登校』『〔少女庭国〕』の方が好きですが、幅広さと物語の完成度は本作が一番かな、と感じました。
さて、トータルで抽象的な感想は以上となりますが、以下、あまりこのように深読みせず、あえて表面的に捉えた上での個々の感想を簡単に。
魔女マンション、新しい友達
1話目から矢部嵩らしさ全開で、いつも通りつかみはばっちり。
謎の合言葉、家の中にある電車、まだ自我のない激ヤバなブルースの異様な存在感、そして意外といい人そうな魔女と、異世界への移行が強引にスムーズというか、独特の文章も相まって、とにかく気付けば早々に矢部ワールドに呑み込まれています。
もはや主人公の名前を安藤夏子にしてしまう時点でさすがでしかありませんが(世の安藤夏子さんを馬鹿にしているわけではありません)、餡子ちゃん、小倉くん、うぐいすさん、ずん田くんと来て、これは和菓子シリーズだなと思い当たりました。
「村雨」は寡聞にして知らなかったのですが、「村雨餡」なる餡も「村雨」なる和菓子も存在するようです。
相変わらず名前は記号でしかないと言わんばかりのネーミングセンス、好き。
そんな彼らが速攻全滅する姿は、もはやスピード感あるコントのよう。
死んでいて聞いていなかった小倉くんが銃を暴発させて再び死んでしまうところなど、惨劇なのにただただ面白い。
小学生頃って、今まで仲良かった子たちのことなんかすっかり忘れて、新しい友達とべったりになることってありますよね。
以前、仕事で小学校にも出入りしていたのですが、個々ではなくあえて全体として見ればやはり成長の男女差というのはあり、特に3〜4年生ぐらいからは女の子の精神的な成長が著しく、そのような「狭くべったり」な関係も良く見られました。
そのメタファーと見るにはあまりに混沌ですが、そういった綺麗事ではない普遍性を備えているのも矢部嵩作品には多く感じられる魅力。
ミートソーススパゲティの表現、比喩なのにあまりに生々しいイメージが浮かんできて好き。
魔女家に来る
どうした!?
と思ってしまうぐらい、幻想的で綺麗な話でした。
ここに来て本作の方向性がまったくわからなくなり、振り幅の広さを見せてくれるとともに、思い通りに惑わされまくり。
とはいえ、ぬりえちゃんとの仲を深め、人目を気にしていた夏子が自分の気持ちに目を向けるという、今後に繋がる重要なエピソードでもありました。
血糖値押し、好き。
意味もなく出てくる通り魔のエピソードも良い。
雨を降らせば
「神様しかしちゃいけないことってあると思うんだよ」という先生の雨の話は深みがありますが、全体的にギャグ寄りでしょうか。
数ヶ所で笑ってしまいました。
まず、原宿の描写。
おぉ珍しい実在の地名が出てきた、しかも駅舎の描写など忠実(今はもう改装されてしまっていますが)だぞ、と思いきや、綿棒の特産地とか知らない……天狗が飛来してくるとか知らない……など、高熱の日の悪夢のようなぐちゃぐちゃ感。
「原宿」は普通なのに「信行」「四ブ谷」の表記は変わっているのもその当て字のチョイスも、センスの塊でしかありません。
そして笑ってしまったのはラフォーレでした。
鍾乳洞とか軍手を嵌めてとかヘルメットを脱いだとか。
何か1回ツボってしまったらダメでした。
次いで、「ティッキャッティー!」のところ。
「M家の式場はここでしょうか!」とめちゃくちゃ元気に「私とぬりえちゃんが姿を現しました」が大好き。
いやこのシーンの前にお通夜の式場の描写をしていた「私」は誰なんだと。
この自由度、本当に素晴らしい。
最後まで「ティッキャッティー!」で押し通すのに、途中で「あぁトリック・オア・トリートか」と気づけるのもさすがというか。
矢部嵩文章、こういうの多い気がします。
文法がめちゃくちゃだったり、口語体ですらない訳のわからない表記になっているのにまったく説明する気がないにもかかわらず、何を意味しているのかわかってしまうんですよね。
しかし、人間、頭の中で思考しているときはこんな感じという気もします。
あとこれを書きながらパラパラ読み返していて気がついたのですが、Mちゃん(「Mが名字か名前かは今話特に限定しません」の表記も好き)のお父さんが死んだのって、Mちゃんのお母さんがぬりえちゃんの人殺しジュースを飲ませたのでしょうか。
- 夏子とぬりえちゃんが訪ねてきても、Mちゃん母は驚いていない
- ぬりえちゃんがMちゃん母に「ごぶさたしてます」と挨拶している
- 夏子がMちゃんに「魔法でお父さん生き返るよ」と言ったタイミングで割り込むように部屋に入ってきて、葬儀もまだなのに閉方向に絞っていく意志がありそうな発言をするMちゃん母
- 夏子とぬりえちゃんが出会った頃に、ぬりえちゃんは人殺しジュースを同じマンションの女の人の依頼で作り、半年後ぐらいにその人の旦那さんが死ぬ
- その人について「名前なんだったっけ?」と夏子も知っていることかのように問いかける
最後の2つは「私の育った落書きだらけの町」で明かされた情報ですが、これらを総合するとその可能性が高そうな気がします。
Mちゃん父も、別に交差点で事故死したとは明言されていません。
しかも、これは言われて気がついたのですが、そうだとしてもMちゃん母もおそらく魔法の薬で夫を殺した記憶は消されている(改竄されている)はずですよね。
となると、3つ目のポイント、割り込むように入ってきて話を閉方向に持っていったのも、殺した記憶はないけれど生き返ってほしくないというような意志が窺えます。
以前から魔法使いに頼んででも殺したいぐらいだったわけなので、当然といえば当然ではありますが。
そう考えるとこの作品の印象もまた変わってくるというか、「魔法少女帰れない家」に似た恐ろしさが漂います。
しかしまぁ原宿からの「ティッキャッティー!」からの火葬場における突然すぎる皮剥き、さすがのカオス度合いで最高でした。
しかし虫(特に本作に出てきたヤツ)嫌いには、ぞわぞわしてしまう終盤でもありました。
魔法少女粉と煙
3話までは、さすがながら他作品に比べると大人しめだなという印象もありましたが、ここから一気に爆発、加速。
ゴアに頼らず、痒さを突き詰めた病理、舞う埃や皮膚やダニ、「ぼりぼりぼりぼり」という狂気的なルビと、小説の常識の枠も超えて感覚に訴えかけてくるおぞましさが凄まじい。
文章で「音がうるさくて邪魔」と思わせることができるとは。
読んでいてむずむずしてくる生理的嫌悪感、不快感は圧巻です。
一方でどこかそれが癖になるところもあり、それが痒みの感覚と似ているでしょうか。
痒みという不快な感覚、それを掻いたときの一瞬の快感、そしてそれによってさらに押し寄せてくる不快感。
まさに作中で説明されていた痒みのメカニズムを物語化したかのような、本作の中でも異色の1作。
そして驚異の手足を除去、四肢切断ENDというホラーな終わり方。
そりゃあ手足除去すれば掻けませんもんね!
良かった良かった!
とは到底なりません。
というのは余計なお世話で、ビルマくんが実際にどう思っているのかが気になりますが。
「まほう なんかで なおられたら たまんないですよ」の台詞があまりにも恐ろしい。
魔法少女帰れない家
急に完成度の高いホラーミステリィ!
この振り幅ですよ。
きっかけはこれもまた、夏子の人助けをしたい気持ちから。
「雨を降らせば」「魔法少女粉と煙」「魔法少女帰れない家」のすべてに共通しているのは、夏子が他者を助けようと思ってやったことが、むしろ逆効果になっているのではないか、という展開です。
相手の気持ちを無視した援助の申し出は、押しつけでしかありません。
その極みがこのエピソードでしょう。
奥さんが名字であるというところでまず、自分の先入観を軽く嘲笑われました。
その後、やや奥さんが怪しいなという違和感は抱かせつつも、ここまでの真相が隠されていようとは。
『紗央里ちゃんの家』を彷彿とさせるような訳のわからない家ホラーを挟み、しっかりと夏子の成長を描きながらも、これだけミステリィ的に綺麗にまとめ上げてくるんだからお見事です。
家に「自分」がいる間に殺害。
そして自分の記憶も消してもらう。
これ以上の完全犯罪があるでしょうか。
しかし冷静に考えれば、奥さんが引き続きこの家に囚われ続けていくという現実は変わりません。
彼女の犯行は、ただの八つ当たりやストレス発散でしかないでしょう。
根本は何も変わっておらず、誰も幸せになっていません。
上述した「人生は自分で描いていくしかない」ことの重要性を踏まえると、奥さんが絵を描けなくなったという点は非常に示唆的です。
「おきなわ」の当て字を「大輪」にするというのもすごくないですか?
私の育った落書きだらけの町
1人の人生を辿りながら伏線を回収する壮大な最終話。
とりあえずどうでも良いところから先に言っておくと、虫の描写がしんどすぎました!
上述した「雨を降らせば」の描写なんてまだ可愛いものだった。
なるべく具体的に想像しないようにしつつつも、そもそもが感覚に直接訴えかけてくるような矢部嵩の文章でここまでやられると地獄でした。
さて、伏線回収によって物語全体について考えた内容は、冒頭部分で書いた通りです。
こういったループ性は珍しい展開ではありませんが、ここまで混沌とした展開を繰り広げておきながらしっかりと物語として綴じる構成はすごい。
ただ、本作は決してループしているわけではないでしょう。
メインで描かれたのは安藤夏子が描いた人生の物語でしたし、最後に介入した世界は、安藤夏子の頭の中にありつつも、また別の安藤夏子の世界、あるいは描き直し。
絵は消したり塗り潰して修正することもできるし、破り捨てて1から描き直すこともできるのです。
年を取っていく夏子やブルースの姿は、どこか悲しい気持ちにもなりました。
どれだけ逆効果になっても騙され利用されても誰かを助けようとして、その結果学習を活かすことなく誘拐までされて他の子(四時子)にも迷惑をかけた夏子。
そしてその後は、ぬりえちゃんが再び来てくれるのを待つだけの「余生」として、ただただ待ち続けた受け身の人生。
再会した四時子に対する夏子の感想「ああこいつは自分の人生を改竄しに来たんだなと、ようやく私は合点がいった」がとても印象的です。
夏子の捉え方も捻くれすぎている気もしないでもありませんが、こうやって過去を改竄したことが確かに自分にもあり、とても刺さります。
自分のためでしかない謝罪やお礼。
しかし、そもそも自分を顧みることなく他者を助けることで自分の人生を彩り描こうとしていた夏子も、結局同じ穴の狢という気もします。
そして最後の最後に現れたぬりえちゃん。
謎の感動すら覚えるシーンでしたが、「安藤さんのここはお宅でしょうか!」の元気さと「『鍵って何』約束を彼女は忘れていた!」がとても好きでした。
変わったものと変わらないものの対比が美しい。
いや、対比というより混在でしょうか。
自分の意志で、願いで、望みで、描き直そうと動いた夏子。
それが良いか悪いかはわかりません。
でも「そうして私は地獄に落ちました」という一文で終わる物語がこれほどまでに解放感に溢れている作品も、そうそうないように思います。
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