作品の概要と感想
他者の脳に侵入して身体を乗っ取り、ターゲットを殺害する遠隔殺人システム。
それを利用した殺人請負企業の工作員であるタシャ・ヴァス。
とある男を乗っ取ったが、今までのように「自殺して離脱する」ことができなくなり、何かが狂い始める──。
原題は『Possessor』。
「所有者」「占有者」という意味なので、「身体を所有しているのは誰か」というこの映画のテーマにストレートなタイトル。
個人的な感想としては、期待が大きすぎたのもあって、残念ながら正直いまいちでした。
R18+というのと、ポスターの顔のインパクト、そして「遠隔殺人システム」という響きから、かなりグロい内容も想像していたのですが、その点はそれほど。
あるいは、今敏監督のアニメ映画『パプリカ』のような独自の世界観を期待していたのですが、設定や世界観もそれほど深掘りされませんでした。
ジャンルはホラーというより、SFやサスペンス寄りでしょうか。
ただ、内容はやや難解、はっきりとは描かれず抽象的であったりメタファー的に表現されている部分も多そうで、単純に理解しきれていないのもあると思います。
解釈の余地は多岐に渡りそうです。
登場人物の背景もあまり描かれず、主人公のタシャは、作中の大部分は他の人間に侵入しているので、あまりキャラクターもわからず、感情移入もしづらい。
混沌としてくる表現は独自のものがあるので、個人的にはあまり合いませんでしたが、ハマる人はハマるはず。
おそらくこだわっているであろう血の表現や精神的な葛藤や争いの表現は、アート映画として観る人はまた全然異なる感想になると思います。
設定は面白いので、その世界観をもう少し観たかったな、という印象です。
考察:アイデンティティの物語(ネタバレあり)
将来、このようなシステムが可能になるか?記憶と脳
自分が自分であるというアイデンティティ。
昨日の自分が、今日も目を覚まし、明日も同じ自分であるという確信。
それを維持する大きな要素のひとつが、記憶です。
今の自分に繋がる記憶の積み重ねが、連続性とまとまりのあるアイデンティティを形成しています。
朝起きて何も記憶がなかったら、自分が何者かもわからなくなってしまいます。
記憶を管理するのは、現代の科学では脳です。
主に海馬という部位が記憶に関係しており、脳にダメージを負えば記憶障害になることもあります。
『ポゼッサー』における他者の身体への侵入システムは、その原理は描かれていません。
それを描くのは作品の目的ではなく、あくまでも背景としての設定であり、「そういうもの」として理解するべきものでしょう。
ただ、他者の身体に意識が入ったとして、自分の記憶は自分の脳にあります。
他者の身体にあるのは、他者の脳です。
『ポゼッサー』においては、タシャが他者(あっ、えっ、いや、駄洒落ではありません)の身体に侵入した際は、あまりはっきり描かれてはいませんが、相手の記憶は共有されていないように見えました。
コリンの身体を乗っ取る際には、わざわざ事前に観察して喋り方の練習をしていたほどです。
ひとつの身体に複数の人格が存在する。
精神医学的には解離性同一性障害、いわゆる多重人格と呼ばれるものになりますが、『ポゼッサー』の設定もそれと似ており、表面に現れる人格はひとつだけです。
コリンの人格を抑え込み、タシャの人格がコントロールする。
しかし、あくまでも水面下にコリンの意識は存在しており、制御が緩んだことで、その支配権を争う戦いになりました。
他者の身体の中で、タシャの意識や記憶は何によって維持されていたのか。
他者の身体で喋ると、機械に繋がれているタシャの身体も喋っていました。
相手の脳に金属を埋め込んでリンクさせていましたが、どういうメカニズムなのか。
このあたりの設定は、上述した通り「そういうもの」として捉えるべきではありますが、将来こういったことが現実に可能になるのだろうかというと、記憶はあくまでも身体(脳)に縛られている、という点の解決が大きな壁として立ちはだかります。
そもそも、「意識」の仕組みも科学的には解明しきれておらず、心理学的にはまだまだかなり難しいと思われるシステムです。
タシャのアイデンティティ:なぜ離脱できなくなったのか
『ポゼッサー』のテーマのひとつは、自分は何者か、というアイデンティティの問題です。
他者の身体に入るということは、一時的とはいえ、まったく別の人間の人生を経験するということ。
そして、遠隔殺人においては、不自然さを残さないために、自殺をして他者の身体から離脱します。
しかし、他者の身体に侵入している際は、その身体で体験する出来事が「現実」です。
そのため、自殺による恐怖や痛み。
どの時点でリンクが切れるのかは明確ではありませんが、タシャが自分の身体に戻った際にひどく恐怖に襲われた様子で嘔吐していたことからも、それらの恐怖や痛みが知覚され、記憶として残っていることは確かです。
つまり、遠隔殺人を重ねるということは、自らの死の体験を積み重ねることになります。
そのような繰り返しに、人間の心が耐えられるのかどうか。
その限界が来たことが、離脱(自殺)できなくなったひとつの原因になっていると考えます。
ユング心理学では「死と再生」のテーマは、新しい自分に生まれ変わり、現状の打破を意味しますが、『ポゼッサー』はそんな単純な話ではありません。
また、離脱のための自殺ができなくなったのには、家族の影響もありそうです。
映画冒頭で、殺人を遂行して離脱したあとの上司であるガーダーとの会話から、これから夫のマイケルと息子のアイラに会いに行く予定が決まっていたようでした。
家族には、本当の仕事内容を話していなかったタシャ。
「家族と接する自分」を思い出すためには、会話の練習までしないといけなかったほどです。
「殺人を仕事にしている自分」と「嘘をついて家族といる自分」との乖離。
そして、家族がいることで殺人に対して抱く罪悪感と、自殺への恐怖。
それも、タシャの調子が狂い始めた要因になっていたはずです。
性的なアイデンティティ
性についても、この映画のテーマのひとつになっていることは間違いありません。
性的なシーンが多めなのは、「絶対にR18+にしてやるんだ!」という監督の意気込みの現れではないはずです(当たり前)。
マイケルとのセックスではまるで無表情だったタシャ。
コリンの身体に侵入したときの、男性の身体への興味。
コリンの身体でエヴァとセックスする倒錯的な体験。
ガーダーとの密接な関係。
もともとなのか、そういった体験を積み重ねる中でかはわかりませんが、タシャには自分の性に対する違和感のようなものが読み取れます。
フロイトが創始した心理療法のひとつである精神分析では、刃物や銃は、その形状や相手の体内に入り込むといった機能から、男性器の象徴として捉えられます。
精神分析はエビデンスには乏しく、視点にやや偏りがあるので絶対視はできませんが、こういった分析をする際には面白い視点にもなります。
タシャが、より直接的に相手の体内に入り込む刃物での殺害に固執していたこと。
銃を口に含んで自殺することに抵抗を感じるようになっていたこと。
これらも、タシャのジェンダーの葛藤と読み解くことも可能です。
精神分析では、患者がカウチ(寝椅子)に横になり、頭に浮かんだ考えをそのまま話す「自由連想法」という技法が取られます。
システムに繋がり横になったタシャと、それに寄り添うようなガーダー。
その光景も、精神分析を彷彿とさせるものでした。
タシャの潜在的な願望と罪悪感
上述した通り、タシャはジェンダーの葛藤を抱えていた可能性があります。
それとは別に、「殺人に快感を感じていた」あるいは「罪悪感を消したかった」ことも考えられます。
映画内において、タシャはすべて刃物で相手を殺害していました(エヴァの父親であるジョンに対しては棒みたいなやつで、しかも殺しきれていませんでしたが)。
そして、その手口は、基本的に滅多刺し。
何回も何回も、相手に刃物を振り下ろします。
刃物で滅多刺しにされた死体というのは、強い恨みや非常に残忍な印象を感じさせます。
しかし、犯罪心理学的には、被害者を滅多刺しにして殺害した犯人は、女性など非力な者であることの方が多いのです。
殺し慣れているほど、一撃で確実に命を奪います。
ラストで、アイラに侵入したガーダーが一撃でコリンの命を奪ったのがまさにそうです。
あるいは、殺しきれていなくて反撃される可能性があったとしても、自分の方が優位であれば、それほど強い不安を感じません。
しかし、慣れていなかったり相手より自分の方が非力である場合、相手が本当に死んだのか、心配で不安だから何回も何回も相手を刺し続けるのです。
タシャは、プロの殺人者でありながら、執拗に相手を滅多刺しにします。
それは、殺し慣れていないから、ではないはずです。
ブランドン・クローネンバーグ監督が「刺殺シーンで刺す回数を1回でも減らしたら、作品が台無しになっていたと思う」と述べるほど、その執拗な刺殺シーンは意味があるもの。
あれほどまでに強い攻撃性が現れている可能性のひとつは、上述したジェンダーの問題で、抑圧されていた男性性が発露していること。
あるいは、幼少期に蝶を標本にしたときから、殺害や刺すことの快楽に目覚めたという可能性も考えられます。
しかしタシャは、初めて蝶を殺したときから、罪悪感も引きずっていました。
家族がいることでそれがさらに強まっていたタシャは、殺人請負業をやめるのではなく、家族を断ち切ることを選びます。
それが、コリンにマイケルとアイラの殺害を促した要因であり、その後、ガーダーの助けによって離脱したタシャは、蝶の標本を見ても「罪悪感を感じた」という言葉を発しませんでした。
殺害に付随する罪悪感が、家族の存在とともに失われたことを意味します。
これがハッピーエンドなのかバッドエンドなのかはわかりません。
着々と、抑圧していた本来の自分を解放できているのか。
あるいは、引き返せない地獄への道を進んでしまっているのか。
いずれにしても、最初から「家族は邪魔になる」といったようなことを言い、最後に蝶の標本を見ても罪悪感を口にしなかったタシャに満足そうな表情を浮かべていたガーダーの望む方向に導かれてしまっている、というのは間違いありません。
それは、システムを使うまでもなく、ガーダーに支配されてしまっているタシャという構図。
その点では、人間らしさを失い、「自分」というアイデンティティを失っていくという、悲劇的な過程に見えました。
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