作品の概要と感想(ネタバレあり)
オハイオ州のとある街で孤独な生活を送る女性スー・アン。
ある日彼女は、街で出会った地元の女子高生から、未成年である自分の代わりに酒を買ってきて欲しいと頼まれる。
その出来事をきっかけに、スー・アンは自宅の地下室を高校生たちのパーティの場として提供するようになった。
楽しい時間を過ごす高校生たちだったが、スー・アンの態度は次第に変わり始め──。
2019年製作、アメリカの作品。
原題は『Ma』。
副題は日本限定なので、サイコパスものでないことは最初から予想していたため問題なし。
描かれている限りでは、スー・アンにサイコパス要素は見当たりません。
「狂気の地下室」も、どちらかというと地下室よりも2階の方が狂気だったような気がします。
邦題はさておいて、サイコパスではなく復讐がテーマだった本作。
中盤過ぎまで、展開するようであまり展開しないもどかしさがありましたが、急にグロ表現が溢れ出す終盤の加速は好きでした。
オクタビア・スペンサーの怪演というか、圧がすごい。
ストーリーは、過去のいじめが鍵になってくるので、何とも言い難い重さがあります。
いじめの内容も、なかなかに壮絶。
そりゃあ忘れることができなくて当然なので、根に持っていても仕方ないと思えてしまいます。
前を向いて生きられていなかった上、若者たちからも馬鹿にされてしまう姿には、虚しさというか切なさが残りました。
よくあの街に残っていたなとも思いますが、それはそれでプライドでしょうか。
復讐の内容が独特でしたが、その点は後ほど考察するとして、都合が良すぎる場面が多々見られたのはやや気になりました。
たとえば、スー・アンとエリカとベンのそれぞれの子どもがみんな同級生など。
ただ、リアリティという点ではあまり高くないので、そういった整合性よりは、終盤の勢いある復讐劇を楽しむ作品なのかな、と感じました。
あと、意外と登場人物が多いので、ちょっと混乱。
昔スー・アンをいじめていたグループ(というよりクラス全体ぐらいの勢いっぽかったですが)と、マギー(主人公)たちのグループの関連なども、ちょっとややこしい。
マギーは、エリカの娘。
アンディは、ベンの息子。
他のメンバー(ヘイリー、チャズ、ダレルなど)は、過去にスー・アンをいじめていた同級生とは関係がない?で、合ってますかね。
マギーとアンディはお似合いだった気がしますが、マギーが友達と話しているときに「ちょっとちょっと」みたいに呼んで「付き合う?」と尋ねるという、なかなか唐突な告白でびっくりしました。
あれがアメリカンな告白の仕方なのでしょうか(たぶん違う)。
終始、スー・アンの行動原理が少しわかりづらいので、後半はその点を考察してみたいと思います。
考察:スー・アンの心理(ネタバレあり)
最初から復讐目的だったのか?
スー・アンとマギーたちの最初の接触は、マギーたちがお酒を代わりに買ってくれる大人を探していたときでした。
マギーの打診を最初は断ったスー・アンでしたが、気が変わったのはマギーたちの乗る車に「ホーキンス警備社」と書かれているのを見たあとでした。
これを見てスー・アンは、運転する若者(アンディ)がベンの息子なのではないか、と想像したのでしょう。
提案に乗りお酒を買った上、自宅の地下室に彼らを招きました。
この時点ですでに復讐の意図があったのかというと、おそらく微妙なところです。
彼らを家に招いてから、わざわざFacebookでアンディたちのことを調べていたので、本当にベンと繋がりがあるのかを調べていたのは確実です。
ただ、終盤で行われた復讐劇はかなり行き当たりばったり感があるので、最初からあのような復讐劇が計画されていたとは考えづらいものがあります。
そもそも、いじめの復讐にしてはかなり時間が経ち過ぎており、もともと復讐するつもりがあったのであれば、なぜこのタイミングで?という疑問が生じます。
おそらく、マギーたちと出会い、再びベンたちとの接点が生まれたことが、復讐心に火がつくきっかけにもなったのでしょう。
マギーやアンディたちと遊ぶ、というより乱痴気騒ぎをするスー・アンは、本当に楽しそうでもありました。
これはおそらく、スー・アンが高校時代に得たかったけれど得られなかった青春です。
アンディに、かつて憧れたベンの姿を重ね合わせる。
岩場で遊ぶ彼らに、過去の同級生たちの姿を重ね合わせる。
みんなと一緒に楽しみ、かつみんなから必要とされる。
そうやって青春を取り戻していたのが、当初の大きな目的であったのではないかと考えます。
支配欲
しかし一方で、スー・アンは自分のことを「マー(ママ)」と呼ばせていました。
最初に呼んだのはダレル(マギーたちのグループの黒人男子)で、そのときは「なれなれしい」と言いつつもまんざらでもなさそうでしたが、その後は自分から「マー」と呼ばせるようになります。
単純に青春を取り戻すだけが目的であれば、「スー」など名前で呼ばせるのが一番自然です。
そこをあえて「マー」と呼ばせるのは、対等ではない上下関係を求めていたことが示唆されます。
スー・アンの本当の娘であるジーニーは、家に閉じ込められていました。
しかもどうやら、本当に体調が悪かったり車椅子が必要なわけではなく、健康体である様子。
薬を飲ませていましたが、あれがジーニーに病気なのだと思い込ませるものなのか、体調を悪くさせる(害のある)薬なのかは定かではありません。
いずれにしても、鍵までつけてジーニーを家に閉じ込め、自分の支配下に置いていました。
この状態はとある映画に似ており、その心理はその作品の考察に記載しました。
作品名を出すとその作品のネタバレになってしまうので控えますが、ネタバレしても良いという方は、こちらの記事をご参照ください。
この「支配したい」という欲求が、マギーたちに「マー」と呼ばせたことにも影響していると考えられます。
青春を取り戻すと同時に、自分をいじめた者たちの子どもや、同じような若者グループを支配下に置く。
「支配されていた」ことから「支配する」側に回ることで、過去の自分を癒していたのです。
その象徴が、終盤の写真撮影のシーンでしょう。
拘束した若者たちに、自らの支配の刻印を刻み、自分が真ん中になって撮影する。
あれはどう見ても、友達同士の写真ではなく、スー・アンが中心の写真であり、みんなが自らの支配下にあることへの優越感を感じさせる笑みでした。
あの笑顔は素晴らしかったです。
ちなみに、マギーは撮影側に回されましたが、マギーの母親であるエリカに対しては、スー・アンはそこまで強い恨みは抱いていなかったのかな、と考えています。
傍観者もいじめの加害者に違いありませんが、エリカは積極的にいじめに加担していたわけではありませんでした。
ラストシーンで、スー・アンに対して「あなたは悪くなかった」「私は止めるべきだったの!でも止めなかった!」というエリカに、スー・アンは何も恨み言などを返さなかったことからも、それが示唆されます。
ただ、アンディと付き合っていたり、スー・アンから見れば恵まれた環境にあるマギーには、嫉妬心のようなものがあったと考えられます。
計画性
復讐劇には、ほとんど計画性はなかったのだろうと考えています。
復讐劇が明確にスタートしたのは、ランニングをしていたメルセデスを轢き殺したところからです。
これはおそらく偶然かつ衝動的な行動で、ベンにアンディたちを自宅に招いていることがバレて警告を受け、過去のいじめの核心的なシーンを思い出していたところで1人走るメルセデスを見つけ、衝動的に轢き殺したのでしょう。
そしてこれが、スー・アンの暴走のきっかけとなりました。
エリカとマギーの飼い犬、ルイの血を抜き取ったのも、このあとでした。
ベンに対しては、好意を抱いていた分、裏切られた恨みが一番強かったはずです(次点がメルセデス?)。
それがあの一番残虐な殺し方に繋がりました。
結局、失血死したのか犬(ルイ)の血を輸血されたことによる影響で死んだのかは定かではありませんが、一番苦しんで死んだのは間違いないでしょう。
ブルックス博士(動物病院の院長らしき獣医師)の殺害については、完全に復讐劇とは関係がなく、催眠鎮静剤を手に入れるための行き当たりばったりの犯行としか考えられません。
おそらく、メルセデスを轢き殺した時点で、自分が捕まろうが死のうがどうなってもいいから復讐をしようと考えたのでしょう。
半ば、というよりほとんど自暴自棄になっての復讐劇であったと考えられます。
ラストシーンの意味
そう考えると、ラストシーンも解釈しやすくなります。
最後の最後では、本当の娘であるジーニーだけは連れて行こうとしましたが、ジーニーにすら逃げられてしまいました。
そうなると本当に、スー・アンにはもう何も残りません。
包丁で刺されたのに平然と歩き、燃え盛る家の窓から外を覗くスー・アンの姿は、もはや『ハロウィン』のマイケル・マイヤーズですが、彼女は動けるにもかかわらず、家から外に出るという選択肢は選びませんでした。
代わりに選んだのが、2階に横たわるベンの死体とともに死を迎えることでした。
裏切られた恨みを感じつつも、かつて好意を抱いていたベン。
飲みに誘われたときの様子からは、あれだけのことをされてなお、ベンには好意も抱き続けていた様子が窺えました。
そんなベンとついに2人きりになれたスー・アン。
キスをして抱き締めながら横たわった姿からは、ようやく願いが叶った幸福感すら漂っていました。
それを踏まえて振り返ると、燃える家の中から窓越しにマギーたちを見つめていた瞳も、もはや狂気が失われていたように思います。
おそらく彼女自身、過去の出来事と自分の気持ちを整理できないまま苦しんでいたのでしょう。
そう考えると、復讐劇はめちゃくちゃとはいえ、サイコパスとはむしろ真逆の、悲しい存在でありラストであると感じました。
その視点で捉えると、スー・アンがジーニーを学校に行かせずに家に閉じ込めていたのは、ジーニーが自分と同じようにいじめられるのを恐れていた、という可能性もあるかもしれません。
その場合、自分のもとから離れ、エリカに抱き締められているジーニーを窓から見る視線がより深みを増します。
マギーに刺される前には、あえて煽っているようにも見えました。
傍観者であった「卑怯なエリカ」とは違うマギーに助けられて、みんなから受け入れられているジーニーの姿を見たことで、もはや思い残すことはなく、穏やかに死を受け入れて2階に上がっていったのだと考えられます。
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