作品の概要と感想(ネタバレあり)
タイトル:お孵り
著者:滝川さり
出版社:KADOKAWA
発売日:2019年10月24日
結婚の挨拶のため、婚約者・乙瑠の故郷を訪れた佑二。
そこは生まれ変わりの伝説がある村だった。
やがて乙瑠は村で里帰り出産をすることになったが、子供は生まれ変わりを司る神として村に囚われてしまい──。
第39回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈読者賞〉受賞作にして、著者・滝川さりのデビュー作。
第39回は大賞は受賞作なしでしたが、個人的に好きな北見崇史『血の配達屋さん』が〈優秀賞〉を受賞しています。
滝川さり作品は、2作目である『おどろしの森』を先に読んでしまっていましたが、そのときに感じた予感は間違っておらず、やはり本作『お孵り』もとても好きで楽しめました。
以下、ネタバレはしませんが『おどろしの森』にも少し触れる部分があると思うので、未読で情報をまったく入れたくない方は念のためご注意ください。
とてもデビュー作とは思えないほど高い完成度を誇っていた本作。
巻末には「本書は、第39回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈読者賞〉を受賞した作品を大幅に改稿し、文庫化したものです」とあり、「大幅に」というのがどれだけ改稿されているのかが気になるところですが、結果としての完成度の高さは素晴らしいものでした。
大きく括れば、因習村ホラー。
しかし単なる因習村ホラーに留まらず、スピーディに様々な展開を見せてくれるところが著者の魅力であると、『おどろしの森』と本作を読んで感じました。
『お孵り』は、「ホラー」には常に軸足を置きつつ、様々なジャンルを絶妙に切り替え渡り歩きながら展開していった印象です。
まずは、因習村ホラーのじめじめした怖さ。
外部からすれば異常とも見える因習や言い伝えを信仰しきっている冨茄子村の村人たちの不気味さ。
中でも、乙瑠の立ち位置が絶妙でした。
閉鎖的な村に嫌悪感(実際は丙助への恐怖感でしたが)を抱き、主人公の佑二(=読者)と同じ感覚を有しているように見えつつも、ところどころで垣間見える信仰心。
佑二の「1人で迷い込んでしまったような不安や落ち着かなさ」がひしひしと感じられました。
何を言っているのか理解できない方言がまた、孤独感に拍車をかけます。
そこから徐々に、オカルトが入り込んできます。
どうやら、言い伝えられている「タイサイサマ」「生まれ変わり」は実在する様子。
このあたりで好みも分かれるかもしれませんが、個人的には絶妙なバランス感覚だったと思います。
山羊原麻織が言うところの「ルールとシステム」として「タイサイサマと生まれ変わり」は実在しますが、それ以外に呪いのような超常的な現象は起こりません。
生まれ変わりの設定は確かに現実離れしますが、それ以外の部分では、たとえば村外での出産の失敗は村人の仕業であったなど、「オカルトの怖さ」よりも因習に囚われた村や人の怖さに重きが置かれていた印象で、好み。
そこから、思ったよりあっさり一旦村を離れたり、時間が一気に流れたりと展開のテンポも良い。
乙瑠の祖母・るり子の死と乙瑠の妊娠・出産あたりからまた雰囲気が変わっていきます。
個性強すぎる山羊原のキャラとアプローチは『おどろしの森』とだいぶ似通った部分もあり、ちょっと笑ってしまいました。
著者お得意、あるいはお好きなパターンなのでしょうか。
その途中で、冒頭でも示唆されているような過去の大量殺人事件や、黄金宗なるカルトの集団自殺騒動など、これでもかというほど魅力的な要素もてんこ盛りになっていきます。
乙瑠と一実を連れて村から逃げ帰ってからは、少しだけ平和な時間が流れたのち、よりスピード感が増していきます。
特に、佑二の母親・喜美子の容赦ない惨殺による死はやはり衝撃的でした。
このあたりからグロい要素も増えていき、さらに自分好みの展開に。
山羊原の正体が明かされ、再び村に乗り込んでからは、一気にスプラッタアクションの様相を呈します。
とにかくスピード感とスリル感が素晴らしく、終盤は一気読み必至。
序盤で嫌味なキャラすぎた藤林村長ら寄合のメンバーがあっさりと惨殺されていく様は、正直ちょっと爽快感も。
丙助の過去や黄金宗の集団自殺騒動の真相といったような冨茄子村(舟無村)の過去、森の小屋に住む男性の正体、そして乙瑠が丙助の生まれ変わりであったなど、畳み掛けるようなミステリィ要素も圧巻でした。
ミステリィ要素でいえば、個人的に評価したいのは丙助による大量殺人事件の真相でした。
この事件が現実にあった津山三十三人殺しをモチーフとしているのは自明ですし、津山三十三人殺しの事件は他のミステリィ作品などでもモチーフとして多用されています。
しかし『お孵り』においては、実は丙助は犯人ではなくスケープゴートだった、という真相が明かされます(まぁ丙助も丙助でやばい奴でしたが、あれは母親が悪い)。
多用されている津山三十三人殺しモチーフのイメージを逆手に取った演出と言えるでしょう。
カルトの大量集団自殺、というのもまた同様です。
本作においてあくまでも怖いのは、閉鎖な環境の中、独自のルールやシステムを構築し、それに囚われ続ける個人およびコミュニティ。
つまり、オカルト色は強めですがあくまでもそれは物語を盛り上げるための要素に過ぎず、本質は人間や集団の怖さが描かれていたと感じます。
オカルト要素は、深めるわけではなく「そういうものとして受け入れるしかない」匙加減も巧みでした。
つまり、読者がオカルトを信じていようが信じていなかろうが、実際に生まれ変わったとしか思えない存在(老人の声で話す子どもなど)はとりあえず受け入れるしかありません。
しかし、それを除けば現実離れしすぎた超常現象は起こらず、あくまでも「ルールとシステム」として受け入れればすんなり入り込める地に足のついた構成は見事で、佑二の視点や価値観が読者視点を代替してくれていました。
一方で、ややチートキャラな山羊原を筆頭として個性の強すぎる登場人物たち、ホラーに軸足を置きつつも絶妙にジャンルを切り替えながらのスピーディな展開など、「怖がらせよう」と同時にとにかく「楽しませよう」という気概が伝わってきます。
たくさんの要素を盛り込みながらこれだけ上手にまとめ上げているのは、お見事としか言いようがありません。
そういった点や終盤の息詰まる容赦のない展開などは、貴志祐介の『新世界より』に近い感覚も抱きました。
改めて振り返ってみると、『お孵り』からさらにエンタメ度を高めたのが『おどろしの森』であるという印象です。
現実離れ感は本作より高まりますが、まさに「ノンストップ・ホラーエンタメ」としてエンタメ度とスピード感が増したのが『おどろしの森』。
『お孵り』のエンタメ要素が楽しめた方であれば、きっと『おどろしの森』も好きだと思います。
以下、少しだけ『おどろしの森』寄りの話。
『お孵り』の山羊原麻織、そして公安警察のシタイなる部署はかなり個性が強い設定だと思いますが、少なくとも『おどろしの森』にはいずれも出てきません。
怪我を負った山羊原はさておき、シタイなどといういくらでも活用や深掘りができそうな組織も名称すら一切出てこないというのは、とても潔さを感じます。
『おどろしの森』も、オカルト要素が取り扱われており、山羊原に負けず劣らず個性の強いキャラも登場します。
それなのに、あえてシタイなど関連する要素を一切登場させないの、けっこうすごいと思いませんか?
普通、こういった独自の設定は活かしてシリーズ化したくなるものではないかと思いますし、シリーズではなくとも過去作の要素を登場させて世界観に関連性を持たせるというファンサも増えている昨今、1作目の魅力的な設定にまったく頼らない2作目というのは、勝手ながら常にゼロから面白い物語を生み出そうという著者の覚悟のようなものを感じました。
コメント