作品の概要と感想(ネタバレあり)
ホラーが大好きな12歳の少年、マーティ。
彼の家族には、それぞれ彼が見つけた秘密があった。
母はラブレター。父はアダルト雑誌。
そして兄は、部屋に人間の生首を隠していた──。
2012年製作、アメリカの作品。
原題も『Found』。
思ったより色々なテーマが詰め込まれていた作品でした。
何を言いたかったのかいまいちわかりませんでしたが、創作物が常に何かのメッセージ性を有しているはず、というのはただの思い込みかもしれません。
一見、スプラッタ描写や過激なシーンが目立つこの作品。
けれど、トータルでは、これはスプラッタ映画やホラー映画というより、ホラーの体裁をとったジュブナイルものだと感じました。
大人になる過程、それは世界には表だけではなく裏もあることを知り、そして自らも秘密を抱くようになっていく心理プロセスです。
幼児期には絶対で完璧と思っていた親が持つ不完全性への気づき。
絶対的な保護者、言い換えれば支配者であった親からの自立。
思春期は、現実と理想の折り合いをつけていくプロセス。
自分も含まれるので誤解を恐れず言えば、ホラー好き、ホラーマニアには覗き見趣味があると思っています。
それは悪い意味ではなく、これもまた誤解を恐れずに言えば、人の悩み、言い換えれば秘密を聴くことを仕事とする、臨床心理学を志す者にもよく使われる表現です。
たまに友達とホラー映画を観てわーわー騒ぐ、というぐらいであれば、遊園地に行ったらジェットコースターに乗ったりバンジージャンプをするような、非日常的な刺激やスリルを楽しむ程度かもしれません。
しかし、ホラーマニアと呼べるほどのめり込んでいる場合は、人の暗い部分や闇の部分、世界が隠し持っている影の側面を覗き見たい、という欲求、好奇心、探究心が少なからずあるように思っています。
この作品の主人公である少年マーティは、普段は「いい子」として問題を起こさず、いじめられてもほとんど言い返しもやり返しもしません。
そのように普段は自分を抑圧している分、影に惹かれ、秘密を嗅ぎつけると、それを確認せずにはいられないのです。
単なるジュブナイルものではなく、ホラー映画としてのジュブナイルもの。
そのプロセスは、マーティが望む望まないにかかわらず、影が強く滲み出ています。
影の色が濃い家族や環境の中で、マーティンはどう成長していくのか。
とりあえず、全体を通して生首と血が、まさに文字通り、出血大サービスとばかりに出てきますので、苦手な方は苦手でしょう。
ラストシーンの生首添い寝もやはりインパクトがありますし、特に、作中作として出てくる架空のスプラッタ映画『Headless』は、「何でこんなに力入れたん?」と聞きたくなるほど、製作陣の熱意が伝わってきました。
しかも『Headless』は、のちにスピンオフとして実際に製作されたようです。
狂気(褒め言葉)。
考察:ホラー・ジュブナイル(ネタバレあり)
マーティくんの成長物語……?
主人公である12歳の少年、マーティくん。
学校ではいじめられており、唯一の親友、デヴィットくんとホラー映画を観たりホラー漫画を描くのが楽しみな、ちょっと内気な少年です。
彼は、環境に対して自分から何かを働きかけるということがほとんどありませんでした。
いじめられても、我慢するだけ。
ほとんど受け身の姿勢で生きています。
それは、根底には両親の無理解が影響している様子。
両親とも、親身にマーティを心配して気にかけているように見せながら、決して本当のマーティを見ていません。
マーティの唯一の癒しであるホラーに対しても、否定的。
いじめられたマーティに対して、彼の心に寄り添うのではなく、「また低能な黒人か」と自分の価値観と怒りを表現するだけの父。
母親も、一見優しそうですが、マーティの気持ちをしっかり聞きもしないうちに「明日は学校を休んで良い」という逃げ道を提示して、息子の問題に向き合うことを回避しています。
誰もマーティの気持ちを聞いていないのです。
これらは、父性と母性の負の側面が強く出ており、家族が機能不全に陥っていることを端的に表現しています。
虐待やDVなど、誰がどう見て良くない状態にあるだけが、家族機能不全ではありません。
家族として向き合うべきことから目を逸らしていることによる、見せかけの平穏。
それがマーティの家族でした。
一見、表面的には問題があるように見えない分、抑圧された闇の密度は高く、ふとしたきっかけでそれが一気に噴出するのです。
家族の外に目を向けても、教師もいじめっ子マーカスに厳しく接してくれますが、解決には至りません。
果ては親友デヴィットも、「自分もバカにされるのが嫌だ」と絶交宣言。
唯一、マーティのことを本気で考えて行動してくれたのは、兄のスティーブでした。
いじめっ子のマーカスをスティーブが殺害したことによって、これまで何も改善しなかったいじめの問題は解決します。
結局、抵抗せず、いい子にしていても損をするだけ。
「神様は信じない」と達観したマーティが、兄の言葉や行動から見出した解決の道は、「暴力」でした。
これまでホラーを観たり漫画を描くことで発散していたであろう抑圧された攻撃性を、ついに現実で解放します。
しかし、その先に待っていたのは、マーティを一方的に責める大人たちでした。
マーティの葛藤や苦しみを理解しようとせず、「暴力は良くない」という正論だけ説き、「悲しいよ」と言い捨てる牧師。
ブチ切れ母。
それ以上にブチ切れ、「(相手が)死んでいたかもしれない」という大人お得意の極論と暴力で、マーティの暴力を責める父。
ここでも誰一人、マーティがなぜ、どのような気持ちであのような暴力を振るったのかを聞いていませんでした。
そしてついには、兄のスティーブも、マーティの気持ちを無視して、「マーティのために」両親を殺害します。
そもそものスティーブも、マーティのことを考えてはいましたが、マーティの気持ちに寄り添っていたとは言い難いでしょう。
何もしなくても、逆に意を決して行動をしても、すべて理解されず否定されたマーティ。
そして最終的には、スティーブによって「拘束されたまま、目をくり抜かれた両親の生首に両側を挟まれる」という究極形態モードで捨て置かれます。
「マーティのために」両親を殺害したのに泣き喚くマーティに対して、「どんなトラウマがあるんだ」と観客が引いてしまうほど錯乱するスティーブ。
それならばと言わんばかりに両親とともに残して、絶望して去っていく兄。
両親の生首に挟まれながら「こんな体験は人を歪ませる」なんて冷静に考えられている時点で、すでにマーティの心は壊れています。
少年少女が苦悩と葛藤を乗り越えて成長していく、ジュブナイル物語。
しかし、「環境によっては、何をどう頑張っても、どうしようもないことがあるのも現実だ」という真実の闇の側面を描いたという意味で、『FOUND ファウンド』は「ホラーとしてのジュブナイルもの」であると感じました。
兄のスティーブは、結局何だったのか
だいたいあまりロクな人間が出てこない『FOUND ファウンド』ですが、やはり一番とち狂っているのは兄のスティーブでしょう。
全体的に重苦しい雰囲気の作品を退屈させないための、スパイスの役割を果たしてくれていました(?)。
劇中では、あえてスティーブの背景をまったく描いてないと思われるので、なぜスティーブがこんなことになったのかを考察するのは野暮かもしれません。
ただ、とにかくスティーブの行動原理が謎すぎて、考えずにはいられないので、少し考えてみたいと思います。
作中で示唆されている通り、変態映画『Headless』が、スティーブが変態に目覚めた原因であったとしておきましょう。
問題は、その後の行動原理です。
スティーブが、殺害したり生首に興奮するといったような性的サディズムに目覚めていたのかどうかは、明確に描かれていません。
作中作の『Headless』内では、生首で自慰行為という衝撃的なシーンがありますが、映画『ハイテンション』の冒頭でも似たようなシーンがあったり、犯罪心理学的な観点からはそこまで突飛な発想・行動というわけではありません。
神戸連続児童殺傷事件の少年A、いわゆる酒鬼薔薇聖斗も、類似の行為をしたとされています。
もしスティーブがそのような嗜好に目覚めていたとすると、部屋に保管されていた生首が彼の性的対象、ということになります。
すると、映画『ザ・シェフ 悪魔のレシピ』の考察で検討した連続殺人犯の動機による類型に当てはめると、
3.快楽型(hedonistic):拷問したり殺害することで、サディスティックな快楽や性的快楽を得る
に当てはまります。
しかし、冒頭、スティーブの部屋から生首を見つけたマーティは、生首は「大抵、黒人の女だ」「一度だけ白人の男もあった」と報告しています。
また、草原っぽいところでマーティと話し合った際に、スティーブ自身が「黒人どもだ。親父が言うように害悪なんだ」と話しています。
ここは明らかに父の価値観の影響を受けているご様子。
父さん……罪深いぜ。
この言葉が真実だとすると、殺害や首の切断=性的サディズムの欲求を満たすため、という図式が崩れます。
快楽殺人においては、性的対象となる相手が被害者に選ばれるためです。
忌み嫌う対象を蹂躙することに快楽を覚えていた、と考えられなくもありませんが、通常はストレートに好みの対象を狙うものです。
では、快楽目的ではなく、「害悪である黒人を排除する」という使命に基づいた犯行だとします。
そうすると、上述した連続殺人犯の動機による類型に当てはめると、
2.使命型(mission):偏った信念によって、特定のカテゴリーに属する者を殺害する
に当てはまります。
しかしそうなると、それはそれで、わざわざ生首だけ持ち帰って保管している意味がわからなくなります。
蹂躙目的で首を切断したにしても、持ち帰る必要まではないはずです。
無理矢理説明をつけるとすれば、たまに生首を見返して、自分の偉業の功績に浸っていた、ぐらいでしょうか。
また、その場合は『Headless』との関連も弱くなります。
殺害メモを『Headless』のビデオケースに隠していたことからも、『Headless』のような性的嗜好に目覚めて殺害を繰り返していたと考える方が自然です。
以上を、総合的に何とか辻褄が合うように考えると、
- スティーブは、もともと歪んだ部分もあっただろうけれど、『Headless』を観たことで性的サディズムに目覚めた
- 実は黒人女性に性的関心を抱いており、そのような相手を被害者に選んでいた(唯一の白人男性の被害者は、目撃者だったなどイレギュラ?)
- 連続殺人を正当化するために、父親の価値観を流用して、「害悪である黒人の排除」という名目を掲げていた
となります。
ただ、終盤のシーンからは、母親に対して性的関心を抱いていた様子も窺えました。
殺害モードのスイッチが入ると誰彼構わず性的衝動が高まる、と考えることも可能ですが、何でこんなに拗らせちゃっているのか。
生首によっては、目がくり抜かれていたりいなかったり、髪がちぎられていたり、一貫性にも乏しい。
しかし、スティーブはスティーブで、家族の愛に飢えていたのかとも思います。
マーティに対する(一方的ですが)愛情はもちろん。
冒頭で、母親の「おかえり」に対しては、わざわざ戻ってきて、なぜかキレ顔で「ただいま」と返します。
最後のシーンも、家族3人は仲良いのに、自分だけ阻害されている、というメタファーと読むこともできます。
あくまでもマーティが主人公であり、その環境要因であるスティーブの詳細を考察するのは野暮ではありますが、提示されている情報だけだと心理学的にはだいぶ説明がつきづらくて気になるのが、スティーブの背景でした。
素晴らしい演出と、痛恨の脱力シーン
『FOUND ファウンド』におけるホラー演出で一番秀逸だと感じたのが、終盤、スティーブが両親を殺害するシーンで、両親の殺害を「音だけで表現していた」点です。
ここまでは、『Headless』の映像を筆頭に、グロシーンや生首のビジュアルを隠すことなく、むしろ前面に押し出して表現されてきていました。
それは、恐怖を考える上では「安易なスプラッタ表現」であるとも言えますが、終盤の両親殺害シーンの伏線であったと考えると、素晴らしい演出効果です。
拘束されてベッドに固定されたマーティには、状況を理解する術はありません。
そのマーティに合わせて、観客も、両親に何が起こっているのか目撃できない。
しかし、悲痛な叫び声や、それが「ごぽごぽ」とうがいをするような音に変わっていく。
ここまでのスプラッタシーンの記憶によって、その状況に対する想像力がさらに掻き立てられる仕組みになっています。
そして、両親の無惨な姿が現れるのは、最後の最後、マーティが生首に挟まれているシーンです。
ここまで両親の死を一切直接見せてこなかったからこそ、ラストシーンのインパクトが際立っていました。
その一方、同場面における痛恨の脱力シーンが、スティーブがマーティの部屋に現れた瞬間です。
全裸で登場して股間にモザイクがかかっている点のシュールさは、まぁ見逃しましょう。
問題は、このポスターです。
むっきむきのガスマスク男が生首をぶら下げている異様な立ち姿。
映画を観始める前には、だいたいこの姿が刷り込まれているじゃないですか。
ひょろっひょろやん!
いやまぁ、そんなそこまでひょろひょろなわけではないですけど、あそこは誰もが突っ込まざるを得ないポイントですよね。
この素晴らしいシーンにおいて、公式ポスターのせいで脱力してしまうというのは、ちょっと残念ポイントでした。
でも、そういうところ、好き。
あと、何でガスマスクしてるん?というのも気になってしまいました。
ガスマスクをかぶるのは正体を隠すためだと思っていたので、家族に対してはわざわざ被らなくていいじゃん、と。
殺害に際しての儀式的な格好、あるいは顔に返り血を浴びるのを防ぐため、だったのでしょうかね。
しかし、相当な低予算であったらしいことを考えると、無駄を省いてマーティの視点に集中した、ホラー・ジュブナイルとして十分恐ろしい作品であったと思いました。
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