作品の概要と感想(ネタバレあり)
ある日、ゴレンは目が覚めると「48」階層にいた。
部屋の真ん中に穴があいた階層が遥か下の方にまで伸びる塔のような建物の中、上の階層から順に食事が”プラットフォーム”と呼ばれる巨大な台座に乗って運ばれてくる。
上からの残飯だが、ここでの食事はそこから摂るしかないのだ。
同じ階層にいた、この建物のベテランの老人・トリマカシからここでのルールを聞かされる。
1ヶ月後、ゴレンが目を覚ますと、そこは「171」階層で、ベッドに縛り付けられて身動きが取れなくなっていた──。
2019年製作、スペインの作品。
原題は『El Hoyo』で、スペイン語で「穴」を意味するようです。
「縦」構造SFシチュエーション・スリラー。
と、独自の表現がなされいますが、雰囲気などは『CUBE』に近く、『CUBE』系統が好きな方であれば楽しめたのではないかと思います。
個人的にはこういったシチュエーション・スリラー大好きなので、とても楽しめました。
風刺的だったり暗喩的な表現も多そうですが、単純にシチュエーション・スリラーとしても好き。
単純なシチュエーション・スリラーとして見ると、最後のシーンはやや意味不明で尻切れとんぼ感も生じてしまいますが、それでも面白い。
観終わったあとは、何とも言えない鬱々とした余韻が残ります。
まさに縦社会の醜さが凝縮されたような本作。
みんなそこまで独善的になるか?と思わなくもありませんが、「穴」の管理局に勤めていたイモギリの言葉を信じれば、正式名称は「垂直自主管理センター」であり、一種の矯正施設的な存在のようです。
中にいるのは全国民からランダムというわけではなさそうで、犯罪者であったり精神的な異常者、あるいは主人公ゴレンやイモギリのように自ら志願した者に限られているようでした。
志願すれば誰でも入れるわけでもなく、事前に面接によるテストもある様子。
ゴレンは禁煙が目的?認定証が目的?であったようですが、そのように自分だけでは自律が難しかったり、生まれ変わりたいと思う人が入れるのでしょう。
そう考えれば、中にいる多くが自己中心的であるのも頷けるところ。
半強制的に収容されている犯罪者はもらえないのかもしれませんが、志願者がもらえるらしい認定証というのは、社会の中で役に立つという設定なのかもしれません。
シチュエーションも実に絶妙でした。
1フロアに2人というのが、特に。
最初、同室(?)になったトリマガシとだんだん仲良くなっていく過程が描かれるのは笑えてくるほどですが、階層が切り替わると同時にあっさりとその関係が終わってしまった絶望感。
昨日の友は今日の敵。
飢えや上下関係だけでなく、他者に対して疑心暗鬼に陥ってしまうのも恐ろしいです。
まさに極限状態の心理をよく表しています。
動力源が不明で浮いているプラットフォーム(食事が乗っている部分)だったり、自動で隠し持っている食事を感知して発動するシステムだったりといたSF装置が活躍しつつも、大きく現実離れしていないところもバランスが良く魅力的でした。
あくまでも、その中での人間模様が中心だったからでしょう。
また、トイレだけはどうしていたのかよくわかりませんでしたが、穴の中での生活が丁寧に細部まで描かれていたのもリアリティを高めていました。
食事だけが楽しみの、何もない空間。
まさに収容所的というか。
謎が多く考察しがいのありそうな本作なので、細かく考察しているサイトも多そうです。
特にキリスト教的なモチーフが多そうですが、同じようなことを書いてもあまり意味がないですし、そもそもそのあたりは専門外なので詳しい方に譲るとして、ここでは少し心理学的な観点から本作を読み解いてみたいと思います。
考察:父性原理システムの限界と人間の人生(ネタバレあり)
父性原理が支配する「穴」という社会
本作において、キリスト教がモチーフの一つに使用されているのは間違いないでしょう。
きちんと分け合えば、おそらくほとんどの人に行き渡る大量の料理(しかもシェフこだわりまくりのご馳走)。
しかし彼らはそれをせずに、あるいはできずに、上層の人々が食べ尽くしてしまい、下層の人たちは飢えに苦しみ争いが生まれます。
キリスト教において大切なのは「愛」です。
自己犠牲や、隣人を愛すること。
穴の全員が愛に基づいて行動すれば、争いは起きないでしょう。
しかし、現実はそうはなりません。
たとえそういった気持ちがあったとしても、1人抜け駆けすれば、また1人、また1人とルールを破る者が増えていきます。
しかも、穴の特徴は、冒頭のナレーションでも流れていた「上にいる者、下にいる者、転落する者」という3種類の人間しかいないことです。
つまり、自助努力によって上に上がることは叶わず、どの階層に運ばれるかは運でしかないのです。
博愛の精神で動けば上に上がっていけるのであれば、みんなもっと品行方正になったかもしれません。
しかし、どれだけ他者を思い遣っても、翌月になれば他者から搾取される可能性がある。
見返りを求めないのが真実の愛ですが、自然と全員に博愛の精神が生まれてくるというのはあまりにも難しい。
本作において描かれていたのは、どちらかというとキリスト教へのアンチテーゼ寄りでしょう。
博愛の精神に基づけばみんなが平和に生きられるのに、そうはならない。
それは現実社会でもまったく同じです。
キリスト教というのは、男性が中心で父性原理が強く働いている宗教です。
カトリックの司祭は男性しかなれませんし、父なる神は「the Father」。
細かい規律や規範は、父性の特徴。
それは秩序をもたらしますが、行きすぎた規律は恐怖による支配を生み出し、規律に従わない者に対して排他的になります。
唯一神信仰だからこそ、他の神の存在を認めることができなくて衝突するのです。
穴の「管理者」は、いわば神のような存在です。
ただ、管理局で働いていたイモギリも、穴の中の実態や真実は知らないようでした。
超豪華な料理を用意したりと、運営費などがどんなシステムで成り立っているのは謎ですが、真の意味で穴を理解し支配していたのは管理者のみなのでしょう。
そこもまた風刺的。
キリスト教の是非はさておいて、本作における穴に存在するのも、ルールのみです。
それも最低限ですが、「好きな物を一つだけ持ち込める」「食べ物を取り置いてはいけない」「1ヶ月に1回階層がランダムで入れ替わる」などなど。
その中で何をしようと自由ですが、何が起ころうとルールに従って粛々と運営されていました。
つまり、穴の中で強く働いていたのは父性原理のみと言えます。
それだけでは、社会は成り立たないのです。
収容者も、どうも男性の方が多そうでした。
父性と母性。
それはこれまで他の作品の考察でも触れていますが、男性=父性、女性=母性ではなく、男性にも母性はありますし、女性にも父性はあります。
どちらかだけということはなく、1人の人間にバランスは違えどどちらも存在するものです。
父性は規範を示し秩序を生み出し、強くなりすぎると支配的になります。
母性は無条件に抱きしめ受け入れ育む機能を有し、強くなりすぎると呑み込む力が強くなって境界線が曖昧になり一体化してしまいます。
どちらも大切で、バランスが重要なのです。
穴に欠けていたのは母性的な要素でした。
父性=悪ではありませんが、あまりにもバランスが悪すぎました。
息子を探しているというミハルも、息子のためにすべてを賭けているという意味では母性的と言えますが、そのために他者を容赦なく殺害する姿勢は父性的でもあります。
ちなみに、ミハルは日本人ではないですが、どうやら日本語の「見張る」に由来してネーミングされているようです。
その意味では、彼女は母性的な存在というより、現実的な存在。
ルールに盲目的に従うのではなく、自分の目で現実を見つめる強さを持ち合わせていました。
あるいは、実際は子どもはいないということだったので、妄想に支配され、自分の妄想世界の中だけで生きていたのかもしれませんが……。
いずれにせよ、自分の目で見ようとしていたとは思います。
トリックスターとゴレンの人生
さて、ここで問題となってくるのがゴレンです。
彼はまるでイエス・キリストのような風貌で救世主のように描かれていましたが、彼は救世主だったのでしょうか。
あるいは、穴に母性や平和をもたらす存在だったのでしょうか。
答えは、否でしょう。
彼の行動力には賞賛されるべき点も多々ありますが、基本的には枠組みの中で足掻いていたに過ぎず、現実社会の中でもがく1人の人間に過ぎません。
彼が好きなのはエスカルゴとのことでしたが、カタツムリはキリスト教では罪人のモチーフとして用いられるようです。
また、彼の愛読書『ドン・キホーテ』は、現実と物語の区別がつかなくなった主人公が、冒険に出る物語です。
誰しも、人生においては自分が主人公。
自分が特別であると思い込みたいのです。
では、穴の中で鍵を握っていた存在は何か。
その一つがパンナコッタであり、そして何より謎の少女です。
パンナコッタが、なぜ重要なアイテムとなるのか。
綺麗な手つかずのパンナコッタを0層まで送り返したとして、管理者や管理局の人々は「パンナコッタだ!何てこった!」と、果たしてなるでしょうか?
ごめんなさい、何でもありません。
いずれもやや無理やりですが、パンナコッタは、真っ白です。
それが潔白さの象徴として託された可能性が一つ。
もう一つは、容器に入ったパンナコッタは聖杯のようにも見えます。
聖杯は、女性を象徴するものとして、母性の象徴として描かれます。
つまり、パンナコッタを聖杯に模して、母性の象徴として管理者側に送り返したと考えると、父性システムに支配された穴を打開するための手段としては理解できます。
そうだとすれば、バハラトがパンナコッタを持ったままプラットフォームを降りたのに、防止システムが作動しなかったことも納得がいきます。
聖杯=母性の象徴と化したパンナコッタは、もはやシステムが管理できる枠組みを超えてしまっていたのです。
しかし、そんなバハラトが必死に守ったパンナコッタも謎の少女が食べてしまいましたが、最大の謎であるあの少女の存在は何なのでしょう。
イモギリの言葉を信じれば、16歳以下の子どもは穴の中にはいないはず。
たとえそれが間違っていたとしても、あんな最下層で子どもが1人、生きていられたわけもありません。
あの穴というシステムの中に欠けていたもの。
それはまさしく、子どもです。
子ども(子孫)のいない社会に未来はありません。
穴を一つの施設ではなく社会として捉えれば、子どもが排除されているというのはそもそも存続不可能なシステムなのです。
そこに紛れ込んだあの少女は、もしかするともはやおかしくなっていたゴレンたちの幻覚だったかもしれません。
しかし、一切言葉も喋らなかった少女。
言葉というのは、世界を切り取るものであり、父性的です。
新約聖書でも「初めに言があった」と書かれています。
ベッド下という符号の一致からは、イモギリの飼い犬ラムセス2世の生まれ変わりとも考えられます。
「ラムセス2世」というのは、古代エジプトの王ファラオの1人の名前のようです。
旧約聖書の出エジプト記に記された、イスラエル人圧迫の王ともされているようで、その後、イスラエル人がエジプトから脱出し、ユダヤ教ができてさらにはキリスト教ができたと考えると、キリスト教とは相容れない存在であると言えます。
つまり、少女の存在は、父性システムの中ではSF装置でも察知できないほどあまりにも異端な存在。
穴のシステム上は、存在してはいけない存在と言えるでしょう。
少女を管理者側に送り込むというのは、単純に「いないはずの子どもがいる=管理者の知らないうちにシステムが崩壊している」ことのメッセージにもなります。
そんな少女の存在は、もはや母性をも超越しています。
母性を象徴する聖杯ならぬパンナコッタをも取り込んだ少女の存在がシステムにもたらすのは、創造か破壊か。
永続して安定したシステムというものはなく、突然変異で生まれたバグ。
それが新たな価値や秩序をもたらすのか、人間の体内に生まれたがん細胞のように破壊をもたらすのか。
いずれにしても、現存するシステムに変革をもたらし得る存在であることは間違いありません。
心理学的に見れば、トリックスターのような存在です。
システムにとっては脅威となりますが、枠を超越した概念こそが、既存のシステムを打破し新たな創造を生み出す可能性を秘めているのです。
枠組みの中におさまる概念では、根本的な変革をもたらすことはできないのです。
最下層でトリマガシとともに少女を見送ったのは、ゴレンの死を示唆しているでしょう。
少女の存在はシステムに変革や破壊をもたらすかもしれませんが、ゴレンはその結果がどうなるかを見届けることはできません。
もしかすると、何の影響も与えないかもしれませんし、そもそもがゴレンの妄想だったかもしれません。
ゴレンは、彼女をシステムに送り込んだという意味では英雄になり得るかもしれませんが、あくまでも枠の中でもがいた1人の人間。
ただ、第6層の富をまき散らすという暴挙に出て、彼女を見つけて送り込んだという意味では、彼もまたシステムにとってはトリックスター的な働きをしたと言えるかもしれません。
少女が幻覚だったとすれば、「いたずら者」レベルで終わるあまりにも滑稽なトリックスターに過ぎませんが。
社会のシステムに正解はないので、父性システムが限界だとしても、「代わりにこうすればいい」という簡単な答えがあるわけではありません。
ゴレンが行ったことも、果たして意味があったのかも不明。
そもそも、最上層が「0」だとすれば、地下に伸びる穴は地獄の象徴ともいえ、その中でもがいても何にもならないのかもしれません。
各層に2人ずつで333層あるとすれば最大収容人数は666人と獣の数字となり、実に不吉。
しかし、人間の人生なんてそんなものでしょう。
何かを成し遂げたつもりになって、その影響を最後まで見届けることはできずに、信じたいものを信じて死んでいく。
ゴレン視点で描かれた物語は、そんな人間の一生をも象徴していたのではないかと思います。
コメント