作品の概要と感想(ネタバレあり)
森の奥にある古い古屋を訪れた5人の男女。
地下室で「死者の書」を発見し、テープレコーダーを再生したことで、死霊が復活してしまう。
1人ずつ乗り移られながら、阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていく──。
言わずと知れた古典スプラッタの名作、『死霊のはらわた』。
『スパイダーマン』なども手がけるサム・ライミ監督のデビュー作で、1981年の作品。
原題は『The Evil Dead』で、直訳すれば「邪悪な死者」といったような意味。
これを「死霊のはらわた」と訳したのは、今思えば偉大ですね。
主人公アッシュを演じたブルース・キャンベルとサム・ライミ監督は、中学時代からの親友のようです。
同時期の『悪魔のいけにえ』や『13日の金曜日』と並ぶホラー映画の金字塔ですが、それらの作品と同じように、今観ると古さを感じて微笑ましい部分があるのは仕方ありません。
しかし、とにかくエググロい演出は、今観てもぐっとくるものがあります。
『13日の金曜日』などは、どれか1作が素晴らしいというより、シリーズ化してジェイソンという殺人鬼が確立したことで人気を博している印象です。
一方、『死霊のはらわた』は、これ1作だけで今観ても通用する部分があるような、様々な方法で演出が工夫されています。
恐怖や異常現象の表現だったり、カメラワークは、それだけでサム・ライミのすごさが垣間見えました。
人体破壊の表現も、今観ればもちろんチープなものですが、当時としてはすごい技術でしょう。
バラバラになった手足がぴくぴく動いているシーンは、どう撮ったのか不思議なほどです。
終盤のストップモーションなんて、とんでもない力の入れ具合やこだわりが感じられます。
話としては、封じ込められていた死霊が解き放たれてしまうという、死霊・悪霊もの。
その点、殺人鬼によるスラッシャーホラーである『悪魔のいけにえ』『13日の金曜日』とは異なる路線。
若者たちが次々と乗り移られて殺し合う、血みどろの惨劇がひたすら描かれます。
悪霊ものなので、あまり怖いとは感じない人も多いかもしれません。
ただ、チープであっても後半はずっとスプラッタ映像が続くので、心理的負担は大きめです。
主人公たちは5人組ですが、男性2人、女性3人という組み合わせが少し珍しいように感じました。
何となく、こういう設定は男性の方が多いイメージというか、先入観があります。
『13日の金曜日』などと同様、もちろん現代に見れば突っ込みポイントは多いですが、そこを批判するのは野暮というもの。
ただ、どうしても一つだけ突っ込みたい。
終盤、主人公アッシュがペンダントで「死者の書」を手繰り寄せて燃やそうとするシーン。
悪霊スコットに脚をつかまれたアッシュに、鉄の棒を握り締めて振りかぶる、アッシュの恋人悪霊シェリル。
誰もが万事休すかと思ったその瞬間、悪霊シェリルはアッシュの背中を鉄の棒でぺちぺちと叩き始めたではありませんか!
どう考えても刺すだろ!と、さすがにちょっと笑ってしまったシーンでした。
ちなみに、アッシュがチェーンソーを振りかぶっているポスターもすごいです。
こんなシーンありませんし、チェーンソーなんてほんとちょっと出てきただけな上、結局使われてませんからね。
棚の下敷きになりがち、とんでもなく大量に血を浴びがちな、かわいそうなアッシュでした。
考察:笑いの恐怖(ネタバレあり)
色々な恐怖の工夫がなされていた『死霊のはらわた』ですが、ここでは「笑いの恐怖」について考えてみたいと思います。
死霊が乗り移った仲間たちは、白目になり、基本的に終始高笑いを続けていました。
それが不気味に感じるのは、なぜか。
『死霊のはらわた』より以前、1973年の映画である『エクソシスト』もそうですが、悪魔や悪霊、死霊などが乗り移ると、だいたい白目を剥いて、高らかに笑い、罵るような言葉を口にすることが多く見られます。
それら総合的な考察はまた別の機会にするとして、今回は「笑い」に特化して考えてみたいと思います。
人間が笑うときというのは、主に面白いとき、可笑しいとき、楽しいとき、嬉しいときといったような、ポジティブな感情であることがほとんどです。
昔から笑う門には福が来ると言われていますし、実際、笑うことはナチュラルキラー細胞を活性化させ、心身の健康にも良いとされています。
逆に、「怖すぎて笑う」といったようなケースも見られます。
これは、恐怖の否定、つまり自分が危機的状況にあることを否定するために笑うという行動が取られていると言われています。
もちろん、実際に危機的状況がなくなるわけではなく、一種の現実逃避です。
なので、この場合も、怖いから笑っているのではなく、(意識的にではなく)怖さを打ち消そうと笑っているので、「笑いはポジティブな感情(あるいは状態)のときに起こるもの」という前提があることになります。
発狂して笑っている状態も、似た道理です。
これらの状況において笑っている人を見ても、あまり怖いとは感じないはずです。
では、笑顔や笑いが怖いのはどういうときでしょうか。
「笑っている」状態というのは、平常の状態ではありません。
微笑んでいる、ぐらいであればあり得ますが、声をあげて笑っていたり、そのレベルの笑顔を見せているのは、特殊な状況と言えます。
つまり、何らかの原因によって引き起こされる一時的な状態です。
ツボったとしても、10分以上止まらずに笑い続けるなんてことはまずあり得ません。
「笑い死に」という言葉があったり、江戸時代には「くすぐり責め」という拷問もあったほど、長時間持続できる状態ではないのです。
笑いや笑顔が怖く見えるのは、一つは「本当は怒っているのに笑っている」といったような、矛盾した状態です。
つまり、作り笑いですね。
真の笑顔は「ディシェンヌ・スマイル」とも言われますが、作り笑いでは動かない表情筋があるのです。
ただこの場合は、笑顔そのものが怖いということではなく、「本当は怒っている(怒っているときだけに限りませんが)」という裏(本心)を恐れているに過ぎないので、笑顔自体が怖い、というのとは少し異なります。
もう一つは、理由や原因がわからないときです。
先ほど述べたように、笑いには明確な理由や原因があります。
その理由がわからないのに相手が笑い続けていたり、微笑みを超えた笑顔を見せ続けていた場合に、恐ろしく感じるのです。
『死霊のはらわた』における死霊に取り憑かれた登場人物たちは、明らかに笑う場面ではないのに、笑っている。
まともな(=取り憑かれていない)人間たちが恐怖に慄いているのに、とても楽しそうに声をあげて笑っている。
その理解できなさ、場にそぐわない不適切さが、恐怖の感情を誘うのです。
日常の中でも、同じことが言えます。
たとえば、家族や友人が笑っているときは、怖いと思うことはないはずです。
だいたい状況が理解できるか、予想がつくためです。
たとえ何で笑っているのかわからないにしても、「何かツボってるんだな」「思い出し笑いしてるのかな」といったように、想像することが可能です。
まったく知らない人でも、理由がわかれば怖くありません。
たとえ自分はまったく面白いと感じなかったとしても、映画を観ているときに誰かが笑っていたら、「あの人には面白かったんだな」と思います。
電車でスマホを見ながら笑っている人がいても、「お笑いの動画を見たり、友達と笑えるやり取りをしているのかな」と想像できます。
しかし、理由がわからないのに街中で高らかに笑い続けている人がいたら、どうでしょうか。
電車で、姿勢よく座って正面を見つめているだけなのに、ものすごい笑顔の人がいたらどうでしょうか。
みんなが静かにしている状況で1人だけ笑っている人がいたら、どうでしょうか。
少し、あるいはかなり、怖く感じるはずです。
先ほど、発狂した人が笑うというのも挙げましたが、理由もないのに笑っている状態は、何かしら常軌を逸した印象を与えます。
この良い例が、今は亡き今敏監督の『妄想代理人』というアニメのオープニング映像です。
見たことがない方はオープニングだけでもぜひ見ていただきたいのですが、ずーっと、色々な人たちが高らかに笑っているだけの映像が続きます。
しかし、明らかに「楽しそうだな」ではなく、笑う状況にそぐわないような背景と相まって、何かが狂っているような、「怖い」「不気味」といった印象を抱くはずです(平沢進の『夢の島思念公園』という神懸かった曲がさらに増幅させている面もあります)。
そのため、本来は感情を持たないはずのロボットや人形の笑顔も、どこか怖さを感じさせるのです。
以前、Alexaが突然笑い出したという問題もありましたが、ただ突然喋り出すよりも怖いのは、より狂気を孕んで感じられるためです。
『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』がヒットしましたが、ピエロが恐ろしいという「ピエロ恐怖症」の人も多くいます。
ピエロ恐怖症は笑顔だけではなく他にも様々な要因があるとされていますが、顔に張りついたような笑顔の不自然さがその一因を担っているのは間違いありません。
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