【映画】ロスト・バケーション(ネタバレ感想・心理学的考察)

映画『ロスト・バケーション』のポスター
(C)2016 Sony Pictures Digital Productions Inc. All rights reserved.
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作品の概要と感想(ネタバレあり)

映画『ロスト・バケーション』のシーン
(C)2016 Sony Pictures Digital Productions Inc. All rights reserved.

医学生のナンシーは、母親の思い出の場所である秘境のビーチにやって来た。
時を忘れ、日が暮れるまでサーフィンを楽しんだナンシーは、海中で突然何かにアタックされ、足を負傷してしまう。
何とか近くの岩場にたどり着いたナンシーは、岩の周囲を旋回する獰猛で危険な存在が自分を狙っていることに気がつく──。

2016年製作、アメリカの作品。
原題は『The Shallows』。

「shallows」は「浅瀬」という意味で、そのタイトル通り、「すぐ近くに海岸が見えているのに、逃げられない」といったシチュエーション設定が絶妙です。
邦題の『ロスト・バケーション』はかなり原題と異なりますが、「せっかくのバケーションがサメによって失われてしまった」ということでしょうか。
あるいは、母親と来ることができなかったバケーション、という意味ですかね。
まぁ邦題はあまり深く考えてはいけません。

この世界に星の数ほど溢れるサメ映画。
それらを網羅できているわけではありませんが、『ロスト・バケーション』は個人的には点数高めの作品です。
夏の終わりを感じたくて観た1作でしたが、綺麗な海(とカモメ)に心癒されました

まず何より、とにかく映像の美しさが素晴らしい
そもそもビーチが美しいのもありますが、撮り方がとても綺麗。
水中の映像もクリアで、俯瞰した映像、海上の映像、海中の映像と、すべてが芸術作品のように美しいものでした。
イルカも最高だし、クラゲの発光シーンなんて、あそこだけ見返したくなるほどです。

その美しさが、冗長になりがちな「サメが出てくるまでのシーン」を飽きさせないものとして機能していました。
サメ映画の難しさは、サメを出しすぎても怖くなくなるし、引っ張りすぎても飽きてしまいます。
序盤のサーフィンシーンは引っ張る側の演出でしたが、クールな音楽も相まって、スタイリッシュな魅せる映像に仕上がっています。
シーンに合わせた音楽の使い方も秀逸。

そして何よりは、主人公ナンシーを演じたブレイク・ライブリーの演技でしょう。
ほぼ全編一人芝居と言っても過言ではないほど、孤独な戦いが続きます。
特に、痛がるシーンが本当に痛そうで、見ていて痛くなってきました。
全体的に、細かい部分ではリアリティよりエンタテインメント重視な映画だったと思いますが、ブレイク・ライブリーの演技の上手さが現実に、地に足をつける(海上ですけどね)大きな役割を果たしていました。

ちなみにブレイク・ライブリー、身長は178cmあるそうです。
しかも、『ロスト・バケーション』撮影の時期は、第1子を出産後8ヶ月しか経っていない頃だったとか。


さて、内容ですが、上述した通りシチュエーション作りがとても巧みでした。
すぐそこに海岸が見えるのに戻れないもどかしさ。
秘密のビーチであるがゆえに、人も来ません。
ナンシーは怪我もしたため、動きも鈍い。

『JAWS』などは違いましたが、特に近年のサメ映画は、お馬鹿な若者たちがわーきゃー騒いで無駄な行動をして次々襲われる、というのが半ば定番でしたが、『ロスト・バケーション』にはあまりお馬鹿なキャラが登場しない(そもそも登場人物が最低限)ので、イライラするような点が少ないところもポイントが高いです。

唯一のお馬鹿キャラが酔っ払いでしたが、あそこまで使い物にならないとさすがに笑ってしまうレベルで、ちょうど良いアクセントでした。
先にサーフィンをしていた男性2人も、無理にナンシーに近寄ってくるでもなく、常識的だった印象です。
ビーチまで送ってくれて最後も助けてくれたカルロスなんて、めっちゃいい人。

何より、ナンシーの医学生という設定に斬新さがありました。
怪我をしても自分で応急手当をしたり、決して諦めることなく頭を使って闘い続ける強さ。
さらに、あれだけ追い込まれていながら、助演動物賞待ったなしの癒し枠のお友達・カモメの怪我を治してあげて、折れたサーフボードに乗せて助けようとする優しさも持ち合わせていました。
極限のシチュエーションに追い込まれたのも、「自業自得だよね」感は強くありません。

肝心のサメさんも、主張しすぎるでもなく無茶なことをしすぎるでもなく、程良い緊張感と恐怖感。
サメ映画には珍しく、サメ目線の映像がなかった記憶です。
少年がGo Proを拾ったシーンなどは別として、あくまでも一貫してナンシー視点で進んでいく点が、ナンシーに感情移入しやすい仕掛けになっていました。

スマホの画面や時計、Go Proなど、現代的な小物の使い方もセンスが光っていました。
時計はCASIOだった点も、見逃してはいけません。

細かく見れば、サメあんなにずっと同じところにいる?ストーカーすぎない?とか、お腹いっぱいになってるだろうにそんな次々襲う?とか、さすがに出血量やばない?とか、酔っ払いおじさんいったい何がどうなってああなったん?とか、突っ込みどころは多々あります。

ただ、『ロスト・バケーション』は上述した通り、リアリティよりもエンタテインメント重視であり、サメ映画としてのエンタテインメントはもちろんですが、根底に流れていたテーマは「ナンシーの闘い」です(この点については後半で詳述)。
サメを倒すシーンもかなりエンタテインメント寄りですが、なかなかに魅せてくれるシーンでした。

唯一、ちょっとでも触れたら一気に非現実感が増してしまうために、おそらく劇中でまったく触れられなかった要素が、水分でしょう。
あれだけ時間が経過し、動き回り、じりじりと焼かれ、汗と涙と血を流したら、空腹よりも渇きの方が相当な死活問題だったはずです。
解決方法がなかったから触れなかったのだと思いますが、周りが水だらけなのに水分を摂取できないという状況が描かれていても、相当に過酷なものだったでしょう。

総合的に、テーマや表現したいものが明確に感じられて、メリハリのある良作でした。


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考察:ラストシーンはご都合主義か?(ネタバレあり)

酔っ払いはなぜサーフボードを拾いに海に入ったのか?

サーフボードも盗もうと思ったのでしょう。

ラストシーンの意味

さて、後半では少しだけ、ラストシーンについて考察してみたいと思います。

無事に生還したナンシーは、1年後、妹と父親とともに地元テキサスの海を訪れていました。
医学の道に戻り、家族とも打ち解けた様子が描かれます。

これを「ご都合主義」とする感想を見かけました。
確かにぱっと見、過程が描かれないので唐突でご都合主義的ではあり、やや蛇足である感も否めません。

色々な意味で美しい映画である『ロスト・バケーション』のラストとしては、これで良かったのではないかと個人的には思います。
ただ、そういった個人的感情は抜きにしても、このラストシーンは決して唐突なものではなかったと考えています。

『ロスト・バケーション』は、上述した通り「ナンシーの闘い」を描いた物語です。
それは決して、サメとの闘いだけではありません。
命の危機との闘いです。

観ていて「いやもうさすがに自分だったら諦めそう」と何度も思いましたが、ナンシーは決して弱音を吐くことなく(一人だったからかもしれませんが)、闘い続けます。

それは決して、「ナンシーが強い女性であるから」というだけではありません。
背景にあるのは、母親の死です。

序盤で明かされるナンシーの背景は、

  • 母親を病気で亡くした
  • それがきっかけで医学を志すことに迷いを感じて、医学校を休んでいる
  • そして、母親の思い出の地でもあるメキシコの秘密のビーチを訪れた

というものでした。

父親との電話の中で発していた、「救えない病人もいる」というナンシーの言葉はとても重いものです。
ナンシーはまだ医者ではありませんが、身近な母親を病気で亡くしたというのは、相当にショッキングな体験であったことは想像に難くありません。
前後関係は明らかになっていませんが、もしかすると母親の病気がきっかけで、それを治したいと思って医師を目指すようになったのかもしれません。

父親は「ママのためにも医者になれ。ママは闘った」と言葉をかけますが、ナンシーは「ママは全力で闘ったわ。でも結果は同じ。勝てなかった」と返し、この時点では響きません。

その後、ナンシーは危機的状況に陥り、生きるため孤独な闘いに挑みます
それにオーバーラップするのが、母親の姿です。
たとえ家族や他の人たちに囲まれていても、闘病というのは孤独なもの。
たった1人で生き延びるために闘うことで、ナンシーは無意識的にであれ、母親の気持ちを追体験しました

そこで得たものは、闘うことの意味、そしてそれによって生き延びた命の価値です。
どこかで諦めていれば、ナンシーは死んでいました。
闘うことで救われる命があることを、理屈ではなく、自ら体験したのです。

ナンシーがあれだけ諦めなかった背景には、間違いなく母親の存在があったはずです。
カモメはさておいて、孤独の中でナンシーを支えたのは、心の中の母親でした。
ナンシーは決して、1人で闘っていたわけではありません。
それはサバイバルの過程では描かれませんでしたが、助かったあとにナンシーが母親の姿を見たことは、ナンシーの中に残る母親の存在に助けられたことを示唆します

だからこそ、ナンシーは母親の死と医学への葛藤を乗り越え、再び医学の道に戻ったのです。
そう考えれば、ラストシーンは決して唐突なものではありません。
本作で描かれたサバイバル自体が、ナンシーが期せずして母親の死を乗り越えるプロセスとして描かれていたのです。
家族とも、もともと仲が悪かったわけではありません。

かなり強引に心理学的に解釈すれば、水や海は無意識を象徴します。
その中に潜む脅威と闘い、勝利したことは、ナンシーの無意識的に潜むトラウマを乗り越えたことを象徴しているとも捉えられます。

また、やや感傷的に考えれば、母親の秘密の、そして思い出のビーチが舞台であったことからは、母親に導かれてナンシーは母親の死を乗り越えたとも言えます。
過酷な体験だったからこそ乗り越えられたわけですが、まぁなかなかに過酷すぎたので、そうだとしたらお母さん、なかなかドSですかね。

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