作品の概要と感想(ネタバレあり)
医学生のミアと仲間たちは、アルツハイマー型認知症患者であるデボラ・ローガンを取材するため、デボラとその娘のサラが住む自宅を訪れた。
取材を重ねるうちに、徐々にデボラにアルツハイマー型認知症では説明がつかない奇妙な行動や変化が現れ始める──。
この老婆、トラウマ級。
その直球すぎるキャッチフレーズは若干いかがかと思いますが、でも、確かに、この老婆はトラウマ級でした。
常に取材用のビデオカメラを通した視点、いわゆるPOV(Point Of View)方式で物語が進んでいきます。
また、ドキュメンタリー風に現実の出来事のように展開させていく、いわゆるモキュメンタリー作品。
そのため、登場人物たちは、何が起ころうとどれだけ危険が迫ろうと、意地でもカメラは止めませんし手放しません。
タイトルも、日本語に訳せば「デボラ・ローガンの撮影」であり、まさにそのまんま。
部屋や廊下に設置された固定カメラの映像も使用されていて、POVホラーの代表作『パラノーマル・アクティビティ』と、同じようにPOVのモキュメンタリー調作品であるM・ナイト・シャマラン監督の『ヴィジット』を掛け合わせたような雰囲気でした。
展開も、「老人の奇行が目立つようになっていく」という点で、『ヴィジット』ととてもよく似ていました。
特に、「おばあちゃんが裸でいるだけで怖い」ということを教えてくれる点が共通しています。
ただ、シャマランらしいトリックの仕掛けられていた『ヴィジット』とはまったく異なる方向性に進んでいきます。
もう一つ、別のおばあちゃんホラーは『X エックス』。
こちらも怖さの方向性は少し異なりますが、同じく「おばあちゃんが裸でいるだけで怖い」を教えてくれる作品です。
残念だったのは、普通のホラー映画と同じく、驚かせるシーンで効果音が入っていたことです。
それにより驚き度は増しますが、「演出感」が強くなり、ドキュメンタリー映像のリアルさが薄らいでしまっていました。
90分ほどの映画ですが、だいたい30分ごとに以下の3部で展開されます。
- デボラへの密着取材。人物像や現在の症状といった基本的な設定などの確認
- アルツハイマー型認知症だけでは説明のつかないデボラの奇行が目立ち始める
- デボラの奇行の謎が明かされていく
基本的に丁寧な作りですが、その分、序盤は少し退屈さもあります。
終盤はだいぶ雰囲気の異なる、けっこうどたばた展開になるのですが、突拍子もない感じではなく、うまく繋がっているように感じました。
とにかく終盤のデボラはインパクト大で、トラウマ級の老婆が見たくて仕方がない人生を送っている方は必見です。
ある意味、このデボラ役のジル・ラーソンの演技がこの映画における恐怖のすべてと言っても過言ではありません。
一方、アルツハイマー型認知症を扱った必然性はそこまでなかったようにも思います。
奇怪な行動は病気のせいか?いやいや何か違うぞ……という流れの上では、一番しっくり来るのはわかります。
実際に認知症患者の介護をされている方、あるいは過去にされていて辛い思いをされた方には、あまりお勧めできないかもしれません。
病気を扱うのは、扱い方によって難しいですね。
細かい点ですが、ミアの研究が「アルツハイマー型認知症は、その介護者の生理機能にも影響を与え得る、その仮説を検証したい」というものでしたが、これって、いわば当たり前ですよね。
被害妄想や徘徊などの症状が現れるアルツハイマー型認知症患者の介護をしていれば、慢性的なストレスとなり、心身にストレス性の問題が現れることは、もはや仮説というより「介護疲れ」として社会問題化しているものです。
さらに、それであれば主な研究対象者は娘のサラになるかと思いますが、見えていた限りではサラの血圧を測っていたぐらいで、あとはほとんどデボラがメインの取材に見えました。
その目的であれば、家中にカメラを設置していた意味もわからず。
という、本筋とあまり関係なく、状況を整えるための導入部分の設定に過ぎませんが、ちょっと細かい研究デザインも気になってしまったのでした。
しかしとにかく、オカルト的な方向性に走ったため好き嫌いは分かれるかもしれませんが、終盤の緊迫感は素晴らしく、個人的には好きな作品です。
考察:「予測がつかない、理解できない恐怖」から、「直接的な恐怖」へ(ネタバレあり)
予測不可能な恐怖から、ビジュアル的な恐怖へ
序盤は、アルツハイマー型認知症の症状に合わせたデボラの言動が描かれます。
それが徐々に、認知症では説明がつかない、おかしなものになっていく。
「何をしでかすかわからない」という緊張感が、常に漂い始めます。
それは、予測がつかないことに起因する恐怖を生み出します。
理解の枠を超えた現象が起こり始めたとき、人間は本能的に恐怖を感じます。
何がどうなるかわからない、つまりは自分の安全が保証されないことによる恐怖。
最初は認知症という「理解できる」原因であったのが、「理解できない」ものになっていく。
医学的、論理的に説明のつかないデボラの奇行は、さらにその恐怖を加速させます。
そして終盤、子どもを誘拐して、不死の身体を得る儀式のために殺害していた狂気の小児科医デジャルダンと、デボラの繋がりが明かされてからは、一気に悪霊モノへと転換。
評価も分かれる分岐点だと思いますが、後半は「悪霊に取り憑かれたデボラ」という直接的な恐怖が展開されていきます。
小野不由美の小説『残穢』の考察でも触れましたが、わからなかった原因が解明されると、わからないときよりも安心に繋がりやすくなります。
デボラも、意味不明だった行動が「デジャルダンが乗り移ってたんだね!」というのがわかったことで、映画を観ている観客の不安定な恐怖も和らぎます。
それを見越してか、そこからはホラーの定番、「少人数で危険が予測される場所へ突っ込んでいき、やべぇ感じになったおばあちゃんに襲われる」という演出に切り替わります。
連れ去られた子ども(カーラ)を助けるためとはいえ、明らかに危険なデジャルダンデボラ(勝手に命名)が潜んでいる洞窟に突っ込んでいく。
狭く暗い空間、溢れ返る蛇、空気を読んで調子が悪くなるライト、ビデオカメラのナイトモード。
そして、最終的にはビジュアル的な恐怖で攻めてきます。
そのピークは、そう、蛇モードでカーラちゃん丸呑みデボラ。
あの映像のインパクトは、ホラー映画界のビジュアルインパクト部門に爪痕を残したでしょう。
儀式的に何の意味があったのかわかりませんが。
ビジュアル的な演出で言うと、ただ壁に向かって直立しているデボラとカーラのシーンなど、不気味さをうまく出しているシーンも多くあったように思います(『パラノーマル・アクティビティ』など定番的な演出ではあるけれど)。
ビデオカメラのナイトモードに映るデジャルダンデボラのインパクトも強かったので、もっと活用しても良かったように感じました。
ただ、そうなるとほとんど、最恐ゲームである『OUTLAST』(大好き)になっちゃいそう。
結局デボラに何が起きていたのか?
結局、デボラに起こっていたのは何だったのか?
本当に認知症だったのか、デジャルダンに取り憑かれただけだったのか。
細かくは描かれていませんが、最初は本当にアルツハイマー型認知症で、途中からデジャルダンに取り憑かれたのだと思います。
序盤では、すでに脳画像などからアルツハイマー型認知症が診断されているようでした。
これもデジャルダンのせい、とは考えづらいです。
途中で出てきた人類学者は、「子どもや老人、衰弱した病人が特に憑依されやすい」と述べていました。
そのため、(娘のサラを守るため)デジャルダンを殺害して埋めたデボラはずーっとずーっとデジャルダンに恨まれていましたが、アルツハイマー型認知症を発症して弱ったところでようやく憑依されたのでしょう。
なかなかに執念深い、デジャルダン。
取り憑かれたのは、おそらく、奇行が増えて「進行が異常に速い」と医師が述べていたあたりからかと思われます。
銃をぶっ放したり、デボラの病室に押しかけて怒られたり、「殺して」というデボラを殺害しようとしたり、ハリスの行動の意味が若干よくわかりませんが、おそらく、デボラと一緒にデジャルダンを埋めたハリスは共犯者のため、デボラを守ろうとしていたというよりも、事件が発覚するのを恐れていたのかな、と思います。
その後は、デボラに憑依したデジャルダンが、「モカナン族の血の儀式」を完成させるために「5人目の生贄」としてカーラを誘拐。
血を捧げる儀式とのことですが、丸呑みしようとむにゃむにゃしていた意味は、やっぱりいまいちわかりません。
その後は、丸呑みはせずに何やら蛇を使って殺そうとしていましたし。
どんな形でも血を捧げれば良かったのかな。
それとも、お腹空いてたのかな。
あるいはお茶目なデボラのサービスショット。
ラストシーンの意味
間一髪、サラとミアがカーラを救出。
デジャルダンもまさか、あんな洞窟の奥までサラとミアがきゃーきゃー言いながら追いかけてくるとは思わなかったでしょう。
そしてデジャルダンの遺体を燃やし、浄化。
あんな換気の悪そうな洞窟内で焼くのは、一酸化炭素中毒とか危険すぎませんかね。
いずれにせよ、救出されたカーラは奇跡的に白血病が治り、幸せいっぱい夢いっぱい、でもその将来の夢は「教えないよん」と可愛い笑顔を取材のカメラに向けます。
レポーターが「まれに見るハッピーエンドです」と締めて映画は終了。
このわざとらしい「ハッピーエンドです」は、明らかに「ハッピーエンドじゃないよ」って言ってますよね。
おそらく、洞窟内で儀式が完了していたのだと思います。
儀式の内容が、殺害しないといけないのか、血を捧げるだけで良いのかははっきりしませんが、いずれにせよ、カーラが5人目の犠牲者となり、デジャルダンが不死の身体を手に入れました。
それが、カーラの身体。
不死身になったから、白血病も奇跡的に完治。
確か伝承では、儀式の結果得られるのは「不死身の身体が手に入る」だったので、決して「不老不死」ではない、つまり老化はしていくのかもしれません。
そうなると、カーラも身体は成長していくはずなので、カーラの振りをして過ごしていけば、発覚する可能性は低いはず。
不死の身体を手に入れたデジャルダンが抱く「将来の夢」は何なのか。
それは、続編に期待です(あれば)。
しかし、デジャルダンも、まさか自分の身体ではなく、女児の身体で復活しようとは思ってもみなかったかのではないでしょうか。
「目が覚めたら、身体が女児になっていた!」的な続編で、デジャルダンが危険な性癖に目覚めないことを祈ります。
「アルツハイマー型認知症」の恐怖
アルツハイマー型認知症を扱った必要性がわからないと書きましたが、アルツハイマー型認知症という疾患自体が恐怖を孕んでいるものでもあります。
まずはもちろん、患者自身。
自分の中にある連続した記憶というのは、自己のアイデンティティの根幹をなすものです。
その記憶が、少しずつ失われていくという恐怖。
それは、自分の存在や尊厳を失っていく恐怖に等しい。
少し余談ですが、認知症の簡易スクリーニング検査として、「長谷川式簡易知能評価スケール」という検査が、日本の医療現場では幅広く使われています。
その検査を作成したのは、長谷川和夫という医師。
「痴呆」を「認知症」に名称変更した検討会の委員でもありました。
長年、認知症患者や家族の研究・ケアをしてきた長谷川医師は、アルツハイマー型ではありませんが、自らも認知症を発症します。
それを踏まえて書かれた手記、『ボクはやっと認知症のことがわかった 自らも認知症になった専門医が、日本人に伝えたい遺言』(KADOKAWA)は、認知症への理解を深めるのに最適な一般書です。
話を戻すと、患者自身の恐怖はもちろん、その周囲の人たちにも恐怖を与えます。
大事な家族であり、友人であり、知人である患者が、自分のことを含めて記憶を失っていく。
晩年は、性格もまるで別人のように変わってしまうこともあります。
それは辛さ、悲しさでもあり、恐怖でもあるでしょう。
また、認知症に関する知識がない人にも、その言動は怖いものに見えることがあるかもしれません。
重篤な精神疾患の多くも、似たような捉えられ方をされやすいものです。
知識不足が、「何をしているのかわからない、普通じゃない行動をしている、何をしでかすかわからない」という恐怖を生み出し、それは一歩間違えると偏見に繋がる要因にもなっています。
このような形で認知症を「設定として」扱うのは、誤解を生むという危険を孕みます。
統合失調症患者の妄想や支離滅裂な言動も、かつては「悪霊に取り憑かれた」という扱いを受けたり、「魔女狩り」のターゲットにされていたとも言われています。
アルツハイマー型認知症の症状の延長線上に悪霊による奇行を描いたこの作品は、偏見を助長しかねない危険性も含んでしまっている点が、少し懸念点でした。
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