【小説】櫛木理宇『世界が赫に染まる日に』(ネタバレ感想・心理学的考察)

小説『世界が赫に染まる日に』の表紙
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作品の概要と感想(ネタバレあり)

タイトル:世界が赫に染まる日に
著者:櫛木理宇
出版社:光文社
発売日:2019年9月11日(単行本:2016年1月18日)

中学3年生の緒方櫂は復讐心をたぎらせていた。
従弟が上級生たちから凄絶ないじめに遭った末に意識不明の重体に。
その妹も同じ連中に性的暴行を受けたのだ。
自殺願望を持つ同級生・高橋文稀が櫂の復讐の相棒となることを承諾。
2人は予行演習として、少年法に守られて罰せられない犯罪者たちを次々と襲い始める──。


ずっとマイリストに入っていたのですが、X(当時はTwitter)でおすすめしていただいたのをきっかけに購入し読んだ作品。
少し久々の櫛木理宇でしたが、「これこれ」という感じのザ・櫛木理宇な作品でした。
相変わらずのシリアルキラー愛も伝わってきます。

いじめ、ネットでの個人特定、私的・社会的制裁といったような現代的なテーマを取り上げ、ダークさを含みながらもドライで読みやすい文章でエンタメに落とし込んでいた本作。
現代の問題を浮き彫りにして直視させてくることが多い櫛木作品ですが、作品を通して筆者の主張や特定の価値観を押しつけてくるわけでもなく、あくまでエンタテインメントに昇華させつつ、読者それぞれに考えさせるように問いかけてくる作りがとても巧みです。

ちょうど最近読んだ犬塚理人『人間狩り』と少し似たテーマでしたが、ネットでの社会的制裁がメインで取り扱われていた『人間狩り』に対して、『世界が赫に染まる日に』はあくまでも個人的な私的制裁がメインでした。

暴力シーンを隠さないところも櫛木理宇らしいですが、さほど嫌悪感を抱かないのは、もちろんカラッと描いているドライな文章もありますが、やはりどこかで読んでいてすっきりする部分があるからでしょう。
闇に紛れて悪に制裁を加えるような、ある種のダークヒーロー感すら櫂と文稀には漂っていました。


本作で特に取り上げられているのは、少年犯罪者たちでした。
私的制裁については『人間狩り』でも触れたので少し省きますが、個人的な感覚を簡単にまとめると「認めるわけにもいかないけれど、被害者側の心情としてはとてもよくわかる」です。

そしてそれが少年犯罪となると、さらに難しさが増します。
少年法の理念は「少年の健全な育成を目指す」という保護主義です。
つまり、刑罰ではなく更生に重きが置かれています。

少年法の経緯については作中でも触れられていましたが、当然ながら、法律も少年法も、完璧なものではありません。
更生が必要だというのは理解できるにしても、被害者の気持ちや人生はどうなるのか?という問題はまた軸が異なる問題で、永遠のテーマです。

たとえ逮捕されようが少年院に行こうが、まったく変わらず反省すらしていないように見える少年がいるのも現実でしょう。
少年法の厳罰化により、対象年齢が引き下げられたり、重大な少年事件は成人と同様に扱われるようにもなりましたが、そもそもたとえばいじめなどの問題では、内容にかかわらず「いじめ」という軽い言葉で片付けられてしまい、重大な犯罪として扱われないという問題もあります。

よく言われる「少年犯罪の凶悪化や増加」というのは、統計上は誤った見解ですが、精神年齢の早熟化など、社会的な状況は刻々と変化していますが、すべてをリアルタイムに反映できるわけでもありません。
「何をどこで区切るか」というのに正解はなく、視点によっても変わります
最近でこそ18歳で統一されましたが、成人が20歳、結婚できるのは女性は16歳、男性は18歳というのも、まさに統一感がありませんでした。
16歳で結婚できるのに、成人が16歳(未成年)と性交渉したら基本的に犯罪になるというのも、視点の違いによって生じていたズレと言えます。

時に子ども扱いされ、時に大人として扱われる。
少年法での対応に限界を感じる事例であったとしても、少年法の枠内で扱わざるを得ない。
しかし、私情によって枠を超えて対応するわけにもいかない。
治療が困難と言われる超ハイリスクなサイコパスなどへの対応も、まだまだ最適解は見つかっていません。

試行錯誤していくしかありませんが、そこで置き去りになってしまいがちなのがやはり被害者です。
少年事件においては特に、加害者のプライバシーは守られるのに、被害者は実名報道されたり写真が流されるといった問題は、長年問題視されていながらいまだに解決していません。
そこはまた法律ではなくマスコミや社会の問題も絡んでくるのがややこしいところです。

そういった中で、櫂や文稀のような私的制裁を(特にフィクションで)見て溜飲が下がったり、ネットで炎上させて社会的な制裁を加えるというのは、一つの不満の解消法でしょう。
ただそれが生み出すものは、安易な排除であり、復讐が復讐を生む時代への回帰という側面もあるかもしれません。

一度のミスは誰にでもあり得るもので、それをまったく許容しないというのも極端です。
かといって、一度であっても内容的にフォローしようのないミスもあるでしょうが、明確な線を引けるものでもありません。
一方で、何の非もないのに、誰かの一度のミスによって被害者は命を落としたり一生の傷を負うかもしれません。


などと、こういった答えのないテーマを書いていると延々続いてしまうので、このあたりで止めておいて作品に戻ります。

本作で特徴的に感じたのは、復讐する側も心境に変化があり得る、という点でした。
そもそも櫂は被害当事者ではなく、祥太や涼奈が果たして復讐を望んでいたのかすらわかりませんが、いずれにせよ櫂の主観では「復讐」として本作の行為が行われていました。

しかしそれも、祥太が目覚めたことによってクールダウン。
それこそ、彼自身が言っていた「覚悟」の問題で、おそらく本当の意味で覚悟は足りていなかったのだろうと思います。
それに巻き込まれた形となった文稀。
これもまた櫛木作品に特徴的な、過酷な家庭環境で育ったこともあり、文稀はかわいそうでもありました。
一方の櫂は、結局は大きく不自由を感じない環境下で育った甘さもあってか、エゴ的にも感じられました。

これも櫛木作品の常ですが、良くも悪くもちょっと説明口調に感じられてしまうほど、作中では諸々細かく説明してくれていました。
そのため、それほど大きな謎は残されていませんが、櫂と文稀について、あえて説明されていなかった点を少しだけ考察しておきたいと思います。

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考察:櫂の笑顔と、文稀の犯行の意味(ネタバレあり)

緒方櫂の心理と笑みの意味

櫂は、上述した通り、いとこである祥太と涼奈にリンチ・暴行を加えた加害者たちへの復讐を目的として行動していました。
きょうだい同然である祥太と涼奈が被害に遭っているので、櫂が「復讐する」というのは、それなりには理に適っていると言えるかもしれません。

しかし、基本的に櫂の場合、祥太たちの気持ちは置き去りであった印象を受けます。
あくまで、自分がムカつくから、相手に仕返しをしてやらないと気が済まない。
ややシビアな言い方をすれば、「復讐という名目を利用した私的制裁」というイメージです。

攻撃衝動や性衝動などに関連する社会的に受け入れられない衝動を、学問や芸術、スポーツといった社会的な行動に向けて充足させることを、精神分析では「昇華」と言います。
櫂にそれらの衝動があったのかは定かではありませんが、少なくとも、野球をやめたことによるエネルギーはあり余っており、何か他に向ける必要がありました。

また、攻撃衝動という点においても、櫂は「復讐の練習」のプロセスにおいて、なかなかの暴力性を見せています。
拷問レベルの暴力を、「自業自得」「被害者の無念を晴らすため」と大義名分を掲げて行使する姿は、半ばヤクザまがいにすら見えてきます。

ただ、もともと反社会的な欲求を抱えていたわけではないだろう、とは思います。

野球で頭角を現していたことからは、ある程度の攻撃性を有していたことが推察されます。
それは良い悪いではなく、いくら運動神経やセンスがあっても、スポーツで継続して認められ活躍するには、それなりのハングリー精神が必要です。

また、思春期特有の溢れるエネルギーや性衝動もあったでしょう。
それらに祥太たちを暴行した犯人に対する怒りの感情が合わさって、本作での暴力性が現れたものと考えられます。
念のため、性衝動に関しても、別に性的な行為をすることだけが発散方法ではありません。


DVなどでも見られるように、「暴力が癖になる」とも言いますが、繰り返すうちにその快感などを覚え、依存的になることがあります。
次第にエスカレートしていった櫂の暴力は、犯行への慣れだけではないはずです。

ラストで、櫂が通り魔のニュースを見て無意識に笑みを浮かべていたシーンは、暴力の味を知ってしまったことを如実に表していたように感じます。
復讐の快感ではなく、暴力の快感です。
犯行を繰り返す中で、文稀からも影響を受けながら暴力性が芽生えていったようにも見えますが、もともとは櫂が有していた攻撃性がベースにあったと考えられます。

ただ彼は、祥太が目覚めたことで、捕まる危険性やその影響をリアルに感じるようになり、犯行を躊躇するようになりました。
それは正常な判断でもありますが、それまで散々文稀を巻き込んできて急に尻込みするのはやはり自己中心的かつ幼稚でもありますし、犯行の名目に使っていた祥太に対しても失礼であったと言えるでしょう。

高橋文稀の心理と最後の犯行の意味

過酷な家庭で育った文稀は、常に孤独感を抱えている存在でもありました。

両親に仕返しをするためだけに自殺を決意し、それだけを目標に生きている。
そのような中で櫂と出会い、心境や態度に変化が表れていくのは微笑ましくもありましたが、だからこそ、急に櫂に裏切られた(と文稀は感じたでしょう)際のショックは計り知れません。
文稀の細かい背景を櫂は知らなかったことを踏まえても、「結局自分は都合良く利用されていただけなんだ」と文稀が解釈したとしても仕方ありません。

文稀が櫂の提案に乗ったのは、「復讐ごっこ」という犯罪に加担することが、「両親に仕返しをする」ことにプラスに働くと考えたからでしょう。
「親に責任があるか」という問題は提起されながらも、犯罪者の家族、それも少年加害者の親がどれだけ社会から白い目で見られるかは、過去の事件を見れば明らかです。

櫂が尻込みしたあとも、文稀は復讐ごっこを続けます。
翔太たちを暴行した長谷部兄弟への制裁を果たしたのは、個人的な感情もあったでしょうが、櫂への想いの方が強く伝わってきます。
櫂は、これまで誰一人信用できず受け入れられることもなかった文稀にとって、やはり特別な存在になっていたのでしょう。

最後の高校での犯行は、長谷部准哉への制裁を果たす目的もあったでしょうが、それだけれあれば、あれだけ大掛かりで不確実な犯行を行う必要性はありません。

一つは、上述した「両親に迷惑をかけたい」という思いがあったでしょう。
「自分が死んで祖父の遺産が入らないことで、両親に惨めな人生を送らせたい」という目標は、真実が明らかになり、そしてすでに父親がその事実を知っていたことで瓦解しました。
「15歳で死ぬ」という人生の唯一の目標すら失った文稀は、その代わりとして、両親に迷惑をかけるためにこのような犯行を思いついたのだと考えられます。

もう一つは、やはり、「自分を見てほしい」という思いもあったのではないかな、と感じられます。
「邪眼」「相手が石になる」というのは、事件後の影響を想定しての設定であったと述べていましたが、少なからず本心も含まれていたはずです。
それは、「自分が接する人は、誰も自分を見てくれない」ということ。

大量殺人の背景要因には様々なものがあり、同じく櫛木理宇の小説『死刑にいたる病』の考察などでも触れているのでここでは省きますが、大量殺人には「拡大自殺」と解釈できるものが多くあります。
それこそ、本作に出てきた2001年の宅間守による附属池田小学校殺傷事件でもそうであったと考えれますが、「自分だけ死ぬのは許せないから他人を巻き込む」というような形態です。

そこには、自分の存在を主張するような要素も含まれます。
上述した大量殺人の要因には「他責的傾向」があり、「自分が勝手に被害的に思い込んでいるだけ」というケースも多いのですが、文稀は、もう少し努力のしようもあったとは思いますが、やはり環境も不遇であったと言えるでしょう。

何かしら生きた証を残したい
それが、最後の高校での犯行でもあり、書き残したテキストデータでもあると考えられます。
ただ自分が死にたかったわけでは、やはりないのです。

ただ、そのテキストデータも、人に見られることを見越した、真実ではない要素も多く含まれていました。
ここに、犯罪者心理を探求する限界があります。
作中の世界では、きっとこのブログを見て自称専門家が多くの意見を述べるのでしょうが、そもそものテキストデータに嘘が含まれている可能性など、きっと言及しなければ考えもしないのでしょう。
犯人の供述も同じことで、それが真実である保証などありませんし、そもそも、犯人が正直に話しているとしても、自分の気持ちを完全に把握して完全に言語化できる人などいないのです。

なので、文稀の犯行も、一概に「親への復讐」「自己承認欲求」であると片付けることはできません。
ただ、少なからずこれらの要素はあったのだろうと推察できるに留まります。

細かいポイント:少年鑑別所について

こちらも櫛木理宇の『残酷依存症』の考察にも書き、本作の本筋にも影響はないのでさらっと触れるに留めますが、作中に出てきた少年鑑別所について。

櫂たちの最初のターゲット、大井田真依について「家裁は、鑑別所に4週間入っておけと命じただけだったそうだ」と説明されていました。
また、祥太たちへの暴行の主犯である長谷部俊馬については、「鑑別所で4週間のおつとめを終えて出てきた」ときに「家族で出所パーティを開いた」とありました。

少年鑑別所というのは、家庭裁判所が最終的な判断(=審判)を下す前に、少年の資質や環境要因を詳しく検討するために送られる場所です。
つまり、処遇をより適切に判断するための情報収集をする場所のようなイメージです。

その情報をもとに家庭裁判所が処遇を決定するので、処遇が「鑑別所送り」になることはありません。
少年鑑別所に収容される最長期間は4週間なのでその点は間違っていないのですが、少年鑑別所から出てきた時点では処遇は決定していないので、その時点で「出所パーティ」をすることはさすがにないでしょう。

細かいポイントではありますが、『残酷依存症』も併せて考えると、ごっちゃになってしまっているのかな、と思うポイントでした。

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