【映画】ハッチング ー孵化ー(ネタバレ感想・心理学的考察)

映画『ハッチング ー孵化ー』のポスター
(C)2021 Silva Mysterium, Hobab, Film i Vast
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作品の概要と感想(ネタバレあり)

映画『ハッチング ー孵化ー』のシーン
(C)2021 Silva Mysterium, Hobab, Film i Vast

北欧フィンランド。
12歳の少女ティンヤは、完璧で幸せな自身の家族の動画を世界へ発信することに夢中な母親を喜ばすために全てを我慢し自分を抑え、新体操の大会優勝を目指す日々を送っていた。
ある夜、ティンヤは森で奇妙な卵を見つける。
家族に秘密にしながら、その卵を自分のベッドで温めるティンヤ。
やがて卵は大きくなりはじめ、遂には孵化する。
卵から生まれた‘それ’は、幸福な家族の仮面を剥ぎ取っていく──。

2021年製作、フィンランドの作品。
原題は『Pahanhautoja』で、「災厄」「災いの元凶」といった意味のようです。
英題が『Hatching』なので、邦題はこちらから取った様子。

ポスターを見ても予告を見ても「何か不穏そう」以上にイメージしづらかった本作ですが、観終わってみてそれも納得。
とても心理面を重視したお話でした。

しかしとにかく、フィンランドの美しいこと美しいこと
ティンヤ家の内装はさすがに一般的なものではないでしょうが、映るシーンの背景すべてが美しかったです。
『LAMB/ラム』もそうでしたが、北欧は何でもないシーンでも絵画のように美しいになってしまうのがずるいですね。

そんな美しい世界で繰り広げられる、御伽噺のような物語
ティンヤが森に入っていって卵を見つけるシーンなんかはまさに童話のようで、あのシーン、最初は夢なんだろうと思ったほどです。
しかし、その中で描かれているのは、非常に残酷で切ない物語でした。
アッリの外見や毒親と呼べる母親のインパンクトが目立ちますが、全体的に不穏な空気感が漂う、ダークファンタジーとも言えそうな趣。


監督のハンナ・ベルイホルムは本作が長編デビュー作とのことで、今後への期待が膨らみます。
女性心理描写のきめ細やかさは、女性監督ならではでしょう。

家庭の問題に伴う女性の心理を描いた作品としては、『Swallow/スワロウ』に通ずるものも感じました。
『Swallow/スワロウ』はホラーというよりはスリラーで、思春期ではなく成人の女性が主人公ではありますが、根底に抱えている問題に共通性が見られます。
『Swallow/スワロウ』のカーロ・ミラベラ=デイヴィス監督は、生物学的には男性ですが、20代の頃には4年間ほど女性として生活していた時期もある、ジェンダーに悩みを抱えていた監督です。

そして、やはり外せないのは主人公ティンヤを演じたシーリ・ソラリンナの演技でしょう
登場人物全員良かったですが、中でも1,200人の中からオーディションで選ばれたという彼女は、初演技とは思えない素晴らしさ。
シンクロナイズドスケートの選手でもあるという柔軟性が、新体操をやっているティンヤのリアリティを高めていました。
この流れは『RUN/ラン』の主人公クロエを演じたキーラ・アレンを思い出します。

ハンナ・ベルイホルム監督のインタビューによれば、本作は摂食障害が一つのテーマとなっているようですが、その解像度は非常に高いものでした
自分の仕事がいわゆるカウンセラーなので、摂食障害の患者さんと接する機会も多いのですが、まさにこのような家庭環境であることも少なくありません。
その分、観ていてなんだか疲れてしまいましたが、考察のしがいはあります。

ちなみに念のため先に言っておきますが、摂食障害は「親のせい」でなるものではありません。
本人の性格と環境の様々な要因が組み合わさって生じるものです。
ただ、家族関係に課題があることはとても多く、改善には家族の協力も非常に重要な要素となります。
ここで言う「課題がある」とは、誰が悪いということではなく、コミュニケーションがすれ違っているといったようなことも含まれます。

というわけで、全体的にメタファーはわかりやすく描かれていますが、考察しながらの方が話が進めやすそうなので、早速考察に入っていきたいと思います。

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考察:ティンヤの家族心理と、ティンヤとアッリの関係(ネタバレあり)

映画『ハッチング ー孵化ー』のシーン
(C)2021 Silva Mysterium, Hobab, Film i Vast

ティンヤの家族

まず、ベースとなるティンヤの家族がどのようなものであったのか、見ていきましょう。

目立つのはやはり、母親です。
母親は、承認欲求の塊のように描かれていました
「理想の家族」を動画撮影して、SNSに投稿し、賞賛を得る。
家族もまるでそのための駒のような扱いにすら見えました。

ただ、彼女もまた、そうなる背景があったはずです
もともとはスケートの選手だったらしい母親は、脚にあった傷が原因か(さすがにあの質感は自傷ではないはず)、夢を叶えられたとは言えない様子。
その想いを、ティンヤの体操に託していた(悪く言えば、押しつけていた)のだと推察されます。

最後の「せめてあなたぐらい、私を幸せにしてほしかった」というセリフからは、母親もまた、満たされない想いを抱えていた様子が窺えます。
注目してほしい、褒めてほしい、認めてほしい、幸せにしてほしい。
彼女もきっと、少なくとも主観的には満たされない家族で育ったのでしょう
本作だけを見ると母親が元凶のように見えますが、彼女がこうなったことにもまた理由があるはずなのを忘れてはいけません。


親との関係性で安心感が得られないと、愛着が不安定になります。
愛着が不安定になると、他者との境界も不安定になります。
極端に距離を取ったり、あるいは逆に、不自然なほど密着したり。

ティンヤの母親も、ティンヤに対して非常に境界線が曖昧で、まるで自分の所有物のように、自分の一部であるかのようにティンヤに接していました
テロへの恋心を話す様は、まさに思春期の女性同士の友達のようです。
話す必要のないことまで話してしまう。
親子というより友達のような母娘関係は近年多く見られますが、それが極端な場合は、母親側の未成熟さに起因することも少なくありません。
上述したような、自分が叶えられなかった夢を子どもに託して過剰な期待をかけるというのも、よく見られる構図です。

そして、ティンヤの家庭では母親が目立ちますが、父親の問題も忘れてはいけません
まさに空気のように影が薄い存在であることこそが、家族の歪みに繋がっていました。
娘の前ですら、妻の不倫を黙認する。
「いい人」のように見えますが、「都合のいい人」でしかありません。
自己主張をまったくしないからこそ、ティンヤの母親の夫でいられたのかもしれませんが。

摂食障害で悩む方の家族には、母性が強く、父性が弱い構造が多く見られます。
母性が強いという点において母親にフォーカスされがちですが、影の薄い父親が非常に問題であることも少なくありません。
本作のような「理解のある」父親であったり、仕事ばかりで家に帰ってこなかったり。

拒食症状が悪化して入院した女の子に対して、母親が毎日お見舞いに来ては、心配ばかりを口にする。
そうすると、女の子に負担がかかり、さらに症状が悪化する。
そんなとき、母親の接し方を問題として取り上げがちですが、まったく出てこない父親にも注意を向けることが重要です。
母親には一旦お見舞いをやめてもらい、父親に定期的に来てもらうだけで回復した、というケースもあります(経験に則っていますが、架空の事例です)。

ティンヤの家も、母親の毒親っぽさが目立っていましたが、父親の弱さも同じぐらい問題でした
父親としても、夫としても弱い。
母親は、夫ではまったく満たされている感じがありません。
何でも受け入れてくれる「いい人」ではありましたが、自分を満たして幸せにしてくれる、包み込んでくれるような存在ではなく、「理想の家族を演じる駒」に過ぎず、本当の「理想の家族」にはなれていませんでした。
テロの方が母親の求めるものにもティンヤの苦しみにも気づき、それと向かい合う強さを持っており、母親がテロに惹かれたのもある意味では当然とも言えます。

弟のマティアスも、わがままな子のようでしたが、あれも愛情不足によるものでしょう。
外見も父親そっくりな彼は、態度は生意気ながら、母親や姉に子守唄を求めたり、父親に本を読んでもらったりと、見た目の年齢以上に幼い印象を受けました。


いわば、母親の承認欲求を満たすために、上辺だけの幸せな家族を演じているのが、ティンヤの家庭でした
そこでは、母親が認めない要素は「ないもの」「なかったこと」にされ、抑圧されます。

冒頭、黒い鳥が室内で暴れるシーンは、本作の展開を象徴するものでした。
監督のインタビューによれば、あれは特にカラスなど種類は特定はしていない「黒い鳥」で、フィンランドでも黒い鳥は不吉の象徴として捉える傾向はあるようです。

黒い鳥を招き入れたティンヤ。
たった1羽の鳥にあっさりと破壊されていく美しい家。
行き当たりばったりで事態を悪化させる弟。
なす術もなく役に立たない父親。
捕まえたのもティンヤ。
そして最後に、幸せな家庭への闖入者を笑顔で排除する母親。
短い時間でティンヤの家族像が凝縮された見事なシーンでした

アッリは何だったのか:ティンヤの心理

本作における謎の存在、アッリ。
彼女(?)はどのような存在だったのでしょうか。

結論から言えば、アッリはティンヤの抑圧されたものが具現化された存在です

ティンヤは、常に良い子でした。
それは、ティンヤの母親が求めていた「理想の娘像」です。

観客から見たら毒親でも、ティンヤにとっては唯一の母親です。
母親から愛されたくないわけがありません。

愛情には、大きく2種類があります。
「無条件の愛」と「条件つきの愛」です。

「無条件の愛」は、存在そのものを受け入れ、包み込み、愛すること。
見返りを求めず、長所も短所も含めて相手の存在自体を肯定します。

「条件つきの愛」は、求める条件や期待に応えたときにのみ愛すること。
ティンヤの母親は、まさに条件つきの愛だけでティンヤをコントロールしていました
「理想の娘」であれば、愛する。
そうでなければ、愛さない。

親が常に条件つきの愛しか与えないと、子どもは自分の気持ちを押し殺し、常に相手の顔色を窺うようになります。
相手の期待通りに応えないと、見捨てられるかもしれないからです。
また、そうなると、「期待に応えられなくなったら見捨てられるかもしれない」という不安が常に生じてしまいます。

ティンヤは、母親の期待に応え、良い子に育ちました。
体操選手としても努力し、自慢の娘となります。

しかし人間、常に思い通りにはいきませんし、負の感情が生まれないわけはありません
ティンヤも、大会を控えて、なかなか思い通りの演技ができません。
さらには、隣に引っ越してきたレータというライバルも現れます。
母親の期待に応えられない自分には価値がない、自分がダメな人間なんだと責める。
その一方で、心の奥底では不満や怒りを感じ始めます。


ですが、母親が絶対的な支配者であるティンヤの家庭では、それらネガティブな感情を表出することは許されませんでした
見ない振りをして抑え込んでも、無意識の中でそれはどんどんと積み重なっていきます。

それを具現化したものが、アッリでした。
生まれた当初のアッリは鳥のクリーチャーのようでしたが、監督のインタビューでは以下のように述べられています。

孵化したクリーチャーのルックスに関しては、フィンランドの素晴らしいコンセプトデザイナーの2人と話をするところから始めました。
カラスや鳥の造形を見せて、体が痩せている少女のようなルックスにしたいと話しました。
母親が娘に求めているものと真逆なものにしようとも思いました。
母親は完璧な体操選手の身体をティンヤに求めていますが、クリーチャーは手足のサイズが違うし、造形もいびつなところがあるし、ぬるぬるしていたりもして。
極端に細いのは、摂食障害とも関連付けています。
また、私はちょっと匂うような、怒っているティーンエイジャーというイメージも伝えました。
親に対して怒りをぶつけるけれど、同時に親の愛も渇望しているような10代の子どもです。

https://eiga.com/movie/96552/interview/

つまり、これは抑圧されたティンヤの一部であると同時に、母親が目を背けたい存在でもあります
母親が認めたくないものをティンヤが抑圧していたので、当然といえば当然です。
血、粘液といった思春期の女性をイメージさせる要素も、また同様。

摂食障害との絡みでいえば、思春期に摂食障害を発症することが多いのは、物事が思い通りにいかなくなってくる時期だからです
たとえば、親が成績の良い子どもを求め、成績が一番でないと褒めないどころか失望した態度を取るような家庭環境だとします。
子どもはその期待に応えようと必死になり、さらには真面目さや完璧主義的な傾向が重なると、それだけに自分の価値を見出すようになります。

しかし、小学生ぐらいまでは勉強量や努力だけである程度はどうにかなるかもしれませんが、中学〜高校生ぐらいになってくると、努力だけでは報われなくなってきます。
頑張っているのに成績が落ちると、成績が良いことだけが自分の存在価値になっているので、自分の存在そのものが無価値であると感じるようになってしまいます。

そんなとき、自分の努力だけでコントロールしやすく、数値化しやすいものとして、体重があります。
「女性は痩せている方が良い」という社会的な価値観も重なり、ダイエットを始め、体重が減ると少しだけ自分の価値が増したように思えて嬉しくなり、体重を落とすことにハマりこんでいく。
もちろん、他にもたくさんのパターンがありますが、摂食障害が始まる典型的なパターンの一つです。

摂食障害の方で非常に多いのは、真面目、完璧主義、繊細、良い子、反抗期がなかった、といったような傾向で、ティンヤのイメージとも一致します。
家族に隠れながら食べ物を吐いて自分の分身(アッリ)に与えるというのは、明らかに過食嘔吐の症状を連想させるものでした。


条件つきの愛でコントロールしようとする親は、基本的に支配的で、友人関係をも支配することが少なくありません。
ティンヤも、レータの家に遊びに誘われて行きたかった気持ちを、母親にあっさり否定されました。
それも、「“大会に集中する”と言ったわよね。まさか気が変わったの?」という、とても卑怯な言い方で。
ティンヤが森の中で卵を拾ったのは、その夜のことでした。

ティンヤが「抱いてはいけない」ネガティブな感情を抱き苦しむほどに、卵は反応し、成長し、ついには部屋で1人で泣くしかなかったティンヤの涙が最後のきっかけとなったかのように孵化しました。
ティンヤがアッリを育てるようになったのは、自分の分身であることを理解していたからであると同時に、自分が求める無条件の愛を与えていたのだと考えられます

アッリが他者を襲ったのは、抑圧されたティンヤの感情によるものです。
自分のことを噛んだ犬がうるさくて眠れない。
レータさえいなければ、自分が選ばれるのに。
母親は自分よりヘルミ(テロの子の赤ちゃん)を愛しているのかもしれない。
怒り、嫉妬、わがまま、独占欲。
それらは、母親の「良い娘」であるためには、抱いてはいけない感情でした。
抑え込んで暴走した感情の表現が、アッリの暴力です。

ティンヤがアッリを抱き締めたのも、アッリがティンヤを抱き締めたのも、アッリが母親に抱きついたのも、ティンヤが求めていたことです。
自分を愛したかったし、愛されたかったし、母親のことも愛したかったし、無条件の愛を交わし合いたかった
母親の承認欲求にも気づいており、できれば自分がそれを満たしてあげたかった気持ちが、アッリが母親の頭を撫で、背中に爪が食い込むほどに強く抱き締めた理由でしょう。
しかし母親は、今自分が接しているのがティンヤではなくアッリであることにすら気がついていないのでした。

最後はどうすれば良かったのか

本作の最後は、バッドエンドと言えるでしょう。
ティンヤが死に、アッリが完全にティンヤの顔になりましたが、母親はアッリをティンヤとして育てていくのか、見限るのか。
ティンヤを刺してしまったときの涙が、自分の理想の家族が崩壊することへの悲しみではなく、ティンヤを失うことの悲しみであることを願うばかりです。

それはさておき、では、本作はどうすればバッドエンドを回避できたのでしょうか。
答えは、ティンヤと母親がアッリを受け入れることが必要であったと考えられます

抑圧したところで、感情はなくなるわけではありません。
認めたくないような自分の気持ちも、醜い面も、大切な自分の一部。
良いところも悪いところも含めて、その人です。

終盤におけるティンヤの「私が育てちゃったの。全部あれのせい。今は消えてほしい」というセリフは、非常に重要です。
「私が育てちゃったの」というのは、自分の分身であることを認めています。
「全部あれのせい」は、言い換えれば「母親のせい」。
「今は消えてほしい」というのは、おそらく今はそれは一旦置いておいて、とにかく自分を見てほしい、苦しんでいる自分を愛してほしい、という意味だったのでしょう。
ティンヤはアッリを自分の一部として受け入れる必要性を理解しており、そして母親にも理解してほしかったはずです。

しかし、母親はこれらのセリフを曲解して、「誰かが家にいる。何かがね。ティンヤのようでまるで違う。全部そいつのせい。そいつを消せばすべて解決よ」とトンデモ理論を打ち立てます。
まさに、冒頭の黒い鳥を排除したときと同じ。
幸せな家庭にあってはならないものは、ないものとして排除する
アッリが自分の一部であることを理解してほしかった母親から、「ティンヤのようでまるで違う」と言われたときのティンヤの傷つきは、察するに余りあります。

必要だったのは、ティンヤがアッリを受け入れることであり、それを母親も受け入れることでした
ティンヤとアッリが痛みを分かち合っていたことからわかるように、たとえアッリを刺し殺していたとしても、バッドエンドだったはずです。
ティンヤの血を飲み、外見が完全にティンヤとなったアッリは、2人が一体化したとも言えますが、その意味合いは理想とはかけ離れたものだったと言えるでしょう。

究極的な仮説としては、母親もティンヤと同じようなルートを辿っていた可能性もあり得るかもしれません
つまり、母親ももともとは期待に応える「良い子」であったけれど、ティンヤと同じく「認めたくないもう1人の自分」を生み出してしまい、うまく受け入れることができず、ティンヤの悲劇と同じようにもう1人の自分の方が主体となってしまった。
そう考えると、自分の欲望を満たすためであれば家族すらも利用する自己中心性も理解できなくありません。
ティンヤを吸収したアッリも、もしかすると母親のような存在になってしまうのかもしれないとすれば、虐待の連鎖を連想させるようなエンディングとも捉えられます。

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