【小説】真下みこと『#柚莉愛とかくれんぼ』(ネタバレ感想・心理学的考察)

小説『#柚莉愛とかくれんぼ』の表紙
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作品の概要と感想(ネタバレあり)

タイトル:#柚莉愛とかくれんぼ
著者:真下みこと
出版社:講談社
発売日:2021年11月16日(単行本:2020年2月12日)

3人組アイドルグループのメンバー・青山柚莉愛。
メジャーデビューを目指すも売り上げ目標を越えられず焦る日々。
ある日マネージャーの提案で動画配信ドッキリを実行し、ファンの混乱がSNSで広がっていく。
騙されたファンの怒りの矛先はマネージャーや事務所ではなく柚莉愛本人に向かってしまい──。

第61回メフィスト賞受賞、2020年の作品。
意識していませんでしたが、以前書いた五十嵐律人『法廷遊戯』が第62回メフィスト賞受賞作だったので、『#柚莉愛とかくれんぼ』の続いているのですね。
森博嗣から始まるメフィスト賞も、本当に次々と新しい才能が生まれています。

『#柚莉愛とかくれんぼ』は、いわゆる地下アイドル(と作中に合わせて表現しておきます)とSNSの影の部分を描いた作品
Twitterや動画配信といったリアルなツールが使われています。
ついにタイトルに「#(ハッシュタグ)」がついたか、というのも謎の感慨深さが。

著者が良ければ良いのですが、「現役女子大生作家」という煽り文句が、ちょっとかわいそうに感じました。
いつになったら、あまり必要のない「女子」「女性」という記載がなくなるのでしょうかね。
ちなみに現在は大学は卒業し、2022年3月には大学院まで修了されているようです。
創造理工学部・研究科。かっこいい

さておき、本作については「文章や人物描写が巧みではない」といったような評価も見かけましたが、個人的にはそうは思いません。
流れるような淡々とした文章は、一定のリズムが感じられて心地よい
文学的な文章というのとは少し違うのかもしれませんが、現代の10代あたりの良くも悪くもドライな側面がリアルに描かれているように感じました。
文章の印象としては遠野遥を思い出しましたが、読みやすく、ライトめなページ数も合わせて若い世代にも受け入れられやすそうです。

メフィスト賞だからミステリィ要素もあるかも?とは思いつつも、あまり考えずに読み進めたので、トリック的な部分は見事に騙されました(オフィシャルには「SNSサスペンス」と書いてありました)。
「@TOKUMEI」こと「僕」の描写では、何となく視点が女性っぽいなという印象は抱いていましたが、作者が女性だからかな、で流していました。
「TOKUMEI」が「ETO KUMI」になることにはまったく気づかず。

トリックやラストは確かに少し弱めな部分もあるかもしれませんが、本作の本質はそのようなポイントではありません。
人間や社会の本質的な部分を抉り出す感性は、本筋とは全然関係ない細かい部分の描写まで素晴らしく、今後も期待したい作家です。

特に面白いと思ったのが、柚莉愛と久美の、柚莉愛に対する認識の違いです。
柚莉愛は、自分に自信がなく、ファンの言動で容易に揺らぎ、CDを3万枚売るという目標が達成できなさそう=センターの自分の実力不足というネガティブな捉え方。

一方の久美は、終盤で柚莉愛に対する妬みを抱いていることが明かされます。
久美から見たら、柚莉愛は悲劇的であるほどファンがつく。
柚莉愛パートでは見えない、やはり柚莉愛はセンターになるべくしてなっている存在なのだというのが見えてきます。

柚莉愛パートを読んでいると、柚莉愛は少し太っているのかなとい印象も抱きますが、久美パートではむしろ痩せている方であることがわかります(もちろん、久美の視点がすべて真実とも限りませんが)。
これは、アイドルやモデルに摂食障害などが多い問題も、潜在的に浮き彫りにされていると感じました。

人によって認識が違うというのは別に斬新ではありませんが、柚莉愛パートで秀逸なのは、Twitterのアンチ(時にはファンも)の投稿が柚莉愛のネガティブイメージを強化し、読んでいる側にも「実際にそんな感じなんだな」というイメージを抱かせる点です。
実際、Twitterのタイムラインを見てると、自分の考えが正しいと思い込んだり、だんだんそれが世間一般の価値観のように思えてくる危険性があります。
SNSを超えてネット上に溢れている意見をすべて拾ったとしても、意見を発信しているより沈黙している人の方が多いのですが、見えるものがマジョリティだと勘違いし、とらわれがちになってしまうのです。

まさに欅坂46の『サイレントマジョリティー』ですが、この曲も結局大人が作ったものであり、彼女たちもまた消費されていってしまったところが闇深い。

本作では、主に「アイドル」と「SNSの炎上」に焦点が当てられており、後半では、それらについて考察します。


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考察:アイドルと炎上の心理(ネタバレあり)

現代における「アイドル」という存在の危うさ

現実と虚構の狭間

『#柚莉愛とかくれんぼ』では、地下アイドルグループ「となりの☆SiSTERs」のセンター・青山柚莉愛が主な主人公です。
大人たちに言われるがまま行った動画配信で炎上し、そのままヘイトが柚莉愛に向いてしまいました。

きらきら輝いて見えるアイドルの闇の側面というのは、もはや改まって取り上げるまでもなく、今や一般に知れ渡っているのではないかと思います。
それらが明らかになってきた要因は色々と考えられますが、特に大きな要因は、インターネットやSNSの発達に他なりません。

アイドルの語源は「idol(偶像、崇拝される人や物)」にある通り、ある種象徴的な存在です。
アイドル史には詳しくないですが、アイドルの台頭はテレビの普及が確実に影響していたはず。
テレビの中にだけ見ることのできる、現実と虚構の狭間に位置する存在でした。
ライブやコンサートもまた、非現実的な空間です。
そこには、応援する各個人の理想像が投影されます

それらの構図が一気に崩れたのは、AKB48の登場やインターネットの普及でしょう。
「会いに行けるアイドル」AKB48は、アイドルを一気に現実的な存在に引き寄せました。
インターネットの普及が拍車をかけ、今までは謎に包まれていたプライベートな面も明らかになっていきます。

さらにSNSや動画配信の普及により、「一般人」と「有名人、芸能人、アイドル」の境界線がどんどんと曖昧になっていきました。
事務所に所属していながらあまり人気のないアイドルよりも、一般人インフルエンサーの方が圧倒的なファンを抱えていることもざらにあります。

これらは良い悪いではなく一つの文化ですが、問題は、その存在に虚構性が維持されており、「ファンの理想が投影される」という構図が変わっていないことです。

身近な存在になったことで、アイドルも人間であるという当たり前の現実が見えやすくなります
それは、直接的にアイドル自身が発信する内容から見ることもできますし、ネット上で拡散される情報で目にすることもあります。
熱愛が発覚すると荒れることに象徴されるように、多いのは疑似恋愛的な感情を投影しているファンです。
深層心理では「自分だけを見てくれる理想の女性・男性像」が投影されており(理性的にはそうではないとわかっていても)、それは当然ながら非現実的ではないイメージです。
そこは個人のファンタジーの世界であり、実際の年齢や環境は関係ありません。

「握手会」という概念やネットの発達により、アイドルとファンの直接的な交流の機会も増えました。
掲示板への書き込みから、徐々に現実やSNSで直接メッセージを送れるようになっていく。
それは、応援と誹謗中傷の諸刃の剣です。

アイドルが現実に近づいてきたのに対して、ファンも現実に近づいていればあまり問題はないのですが、そうはなっていません。
ファンタジーの世界で勝手なイメージを抱いたまま、勝手に裏切られたと感じ、一方的にメッセージを送る
現実ではその存在に虚構性が維持されているので、一人の同じ人間に送っているという意識が薄れます。
社会心理学で言うところの「匿名性」と「無責任性」により罪悪感が薄れ、友達のLINEにはとても送れない内容を気軽に送ったり書き込んだりしてしまうのです。

虚構と現実のバランスが崩れている、というのが今のアイドル像であり、それが柚莉愛の苦悩でもありました。

誰もがアイドルになれ得る時代

一方で、アイドルを目指す側も、ネットの普及により可能性は爆発的に広がりました。
上述しやように、インスタへの投稿や動画配信をするだけで、アイドルのようにファンがついていくこともあり得ます。

それは逆に言うと、その中で人気者になっていくには、熾烈な戦いが必要となってくるということです。
よほど個性的に打ち出していかない限り、ファンになってくれる可能性のある人たちを奪い合う必要が生じます。
さらには、ファンのファンタジーに応えるために、「アイドル」を演じる必要もあります。
「恋愛禁止」と打ち出していなくても、勝手に擬似恋愛的な投影をされ、勝手に裏切られたと思われてしまうのです。
「そんなファンはいらない」と割り切るのも正しく思えますが、本気でアイドルを目指している人にとっては、そうそう簡単に割り切れるものでもありません。

熾烈な争いの中では、アイドル同士での嫉妬も生まれます。
誰かがうまくいっているときに、「自分も頑張ろう」と思うか、「相手を引きずりおろしたい」と思うか。
江藤久美が選んだのは、後者でした。

炎上の心理

炎上は、「投稿されたメッセージに対して批判や非難が集まる現象」などと定義されます。
SNSにおける炎上は、もはや毎日どこかしらで起こっていると言っても過言ではないほどです。

日本では、ブログが一般的になり始めた2004年頃から多く発生し始めたようです。
ちなみに、炎上は英語でも「Flaming」。
燃え上がり徐々に広がっていく様は、まさに的を射た絶妙な表現。
拡散性の高いTwitterだと特に、その燃え広がっていく様子が目に見えます。

比較的新しい概念である分、また研究も途上ですが、河合・桐生ら(2018)などは、投稿が炎上し拡散される側の要因として、以下の3つの群を挙げています。

  • 反社会的行為群:違法行為に対する批判であり、その行為の重要度(関心度)に左右される
  • 反個人的規範群:有名人や企業などの発言に対する批判であり、発言内容よりも行為者の属性(どんな人であるか)が大きな影響を与える
  • 反権力反応群:政権批判や多政党への批判。閲覧数は少なく、関心度は低い

反社会的行為群は、つまり犯罪を犯してしまった人に対するものなので、批判を受けるのはある程度妥当です(行き過ぎているように見えることも多いですが)。
いわゆるバイトテロや迷惑系YouTuberなどもここに含まれます。

問題になりやすいのは反個人的規範群で、これはつまり、違法ではないので感情論的な批判であり、その程度は批判される側がどんな人物かによって左右されます
不倫やアイドルのスキャンダルなどがまさにそうで、同じ不倫でも復帰できる人とできない人の差は、周囲のサポート状況などももちろん影響しますが、大きいのはその人のもともとのイメージです。

ネット上の炎上においては、先ほどの「匿名性」「無責任性」によって、誹謗中傷レベルの無責任さで攻撃的な言動が押し寄せます。
しかし、潜在的には怒りなどを感じていても、実際に炎上に加担している人というのはごく一部です。
山口(2015)の研究では、「炎上に加担したことがある」のは1.5%である一方、「炎上を知っている」人は90%以上存在しました。
炎上を見たことがある人はたくさんいますが、実際に加担している人はごくわずかです。

また、その批判する側も、大きくは2つに分かれると考えています。
「その行為が本当に許せなくて批判している人」と「何でもいいから攻撃したい人」です。

問題となりやすいのは、当然後者。
ある意味ただの便乗であり、ストレス発散のはけ口などが目的となっています。
また、詳しくは『13日の金曜日』の考察で書いた「シャーデンフロイデ」の感情が強いと考えられます。
これはいわゆる「他人の不幸は蜜の味」「ざまあみろ」の感情です。
相手が苦しんだり困っているほどすっきりするため、炎上している側が謝罪しようが何をしようが、収集がつくことはありません。
一方で、時間が経ったり他の炎上案件があれば、ほとんど興味がなくなります。

久美が柚莉愛に仕掛けた炎上は、まさに「炎上させる」プロセスを見事に表しています。
上述したので言えば、柚莉愛(というより大人たち)の炎上は「反個人的規範群」です。
柚莉愛はまったく悪人ではありませんが、ここに上述したアイドルの問題が絡み合いました。

「#柚莉愛とかくれんぼ」プロモーションは、炎上して当然とも言えますが、仕掛けたのは大人たちです。
しかし、アイドルの虚構性によって、その背後の大人たちというのが、ファンたちには見えなくなってしまいます。
冷静に考えればわかるはずなのに、見たいものしか見ていないのです。

炎上の要因として考えられる一つが「集団極性化」という概念で、同じような意見の人たちが集まると、その意見が極端になりやすくなる傾向です。
また、その同じ意見の人たちが「内集団」となり、その他の意見の人たちを「外集団」として、外集団の意見を排除しやすくなります。

『#柚莉愛とかくれんぼ』においても、「となりの☆SiSTERsについて思うこと」という、冷静な分析のブログが登場します。
これも広まってはいましたが、結局炎上させる側からは外集団の意見として排除され、冷静な側はわざわざ戦うリスクを負う必要もないため、見える範囲では炎上させる側の意見ばかりが溢れていきました。

これに関しても、「心配したのに裏切られた、許せない」というもともとのファンやアンチと、面白がって叩いている愉快犯とが混ざっているはずです。
実際は、「まぁそういうやり方は問題だよね」とは思いつつも、興味がない、あるいは冷静に見ている人が大多数であったはずですが、目立つのは批判的な意見ばかり、という構図が出来上がったのでした。

人間の二面性

上述したようなアイドルと炎上の問題を主軸としたのが『#柚莉愛とかくれんぼ』ですが、社会派的な作品という印象ではなく、本質的には様々な観点から人間の二面性を描いた作品であると感じました。

ここまで見てきたように、そもそもアイドルが、二面性のある存在です。
素の自分と、アイドルとしての自分。
柚莉愛もその葛藤を強く感じていました。

また、久美の二面性。
「僕っ子」設定はややトリックありきな印象も受けますが、いじめられた経験からネット上に居場所を見つけ現実逃避的にアイドルを目指した姿と、柚莉愛視点では常に広い視野で他者を思い遣っている優しい姿。
柚莉愛は最後まで久美に助けを求めていたところが、恐ろしくもあります。

そして何より、ファンの二面性。
ファンの振りをしていたアンチは別にしても、動画配信の一件で掌を返すファンも多くいました(少なくとも見える範囲では)。
自分の理想や価値観を押しつけて、一方的に非難する握手会での男性。
表面的な部分しか見ておらず、少し考えればわかることを、考えない人たちです。
もちろん、純粋・健全なファンも無数にいます。

「人間、ある程度の二面性はあって当たり前」という点と「二面性の恐ろしさ」の両方が併存している作品でした。

『#柚莉愛とかくれんぼ』はアイドルビジネスの限界や問題を非常に浮き彫りにした作品であり、作品ホームページの著者コメントには、「この本を読んでほしい2種類の人」として、「アイドルが好きな人へ」「アイドルが嫌いな人へ」というメッセージが書かれています。
しかし、本作から読み取れる本質的な部分はアイドルの話に留まらず、ネットやSNSの発達にそれを使う側のリテラシーが追いついていない現代において、多くの人にとって他人事ではない問題を突きつけられているように感じました。

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