作品の概要と感想(ネタバレあり)
タイトル:悪いものが、来ませんように
著者:芦沢央
出版社:KADOKAWA
発売日:2016年8月25日(単行本:2013年8月29日)
助産院の事務に勤めながら、紗英は自身の不妊と夫の浮気に悩んでいた。
誰にも相談できない彼女の唯一の心の拠り所は、子どもの頃から最も近しい存在の奈津子だった。
そして育児中の奈津子も母や夫と理解し合えず、社会にもなじめず紗英を心の支えにしていた。
2人の強い異常なまでの密着が恐ろしい事件を呼び、2人の関係は大きく変わっていく──。
あらすじもレビューもまったく見ずに読み始めたので、
まさかこんな展開だとは。
まさかこんなトリックが隠されていたとは。
まさかこんな完成度の高い作品だとは。
と、良い意味でたくさんの衝撃を受けました。
しかもこんなに心理学的な内容だとは思わず(それはちょっと、気楽に読もうと思っていたのでマイナスでしたが)。
これだから読書は最高ですし、情報ゼロのまま読み始めるのも楽しい。
『悪いものが、来ませんように』は、いわゆる「衝撃の1行」系でもあり、叙述トリック作品でもありました。
ぼんやりとした違和感はありましたが、まさかこんなトリックが隠されているとは思わなかったので、初めて出てきたときの「私の大事な──娘」という表現を最初は比喩的に捉えて、「娘扱いしてるのか。対等な友情というより歪んだ上から目線だな」と思ってしまったほどです。
著者の作品を読むのが初めてだったのも、功を奏しました。
「トリックがある」と予想して構えていたら、奈津子や紗英の年齢を考えたりしてもっと違和感が強かったのかもしれませんが、完全にフラットな状態で読み始めたので、見事なまでに騙されました。
とはいえ、構えていても騙されていたと思う見事さです。
内容は、意図せず比較的最近読んだ湊かなえの『母性』とも被る部分が多く(方向性は大きく異なりますが)、重々しいテーマ。
あらゆる描写がとても丁寧なので、とてもリアルでイメージしやすい印象を受けました。
特に、日常生活の切り取り方が非常に丁寧で、些細な表現に「あるある」と共感したり、自分では体験したことがないことでも「あぁ、そういう感じなんだ」とすんなりとイメージできるような文章でした。
当たり前の日々をこれだけ当たり前のように描くというのは実は難しく、著者はもともとの感性もさることながら、何気ない日々の細かい出来事や景色を丁寧に拾っているんだろうな、と感じました。
たぶん、延々と日常を描いて作品にできてしまうタイプ。
個人的には「日常の解像度」と勝手に呼んでいるのですが、それがとても高かった印象です。
ただ、インプットした解像度を、どのレベルでアウトプットするかはまた別の話で、描写の解像度によって話のテンポも変わります。
本作は、日常の描写の解像度も高め、かつ心理描写もとても丁寧だったので、話の進み方としては比較的じっくりゆっくりであったように思います。
それが退屈な人には退屈だったかもしれませんが、本作のテーマにはとても合っていました。
また、本作では、心理カウンセラーが心の闇を明らかにしようとしている、という展開も見られます。
心理学をやっていて一番難しいのは、「心理学を勉強するほど、人の心なんてわからないということがわかる」という矛盾というか葛藤です。
しかし、できるだけ科学的に、実証性ある形でメンタルヘルスの改善に貢献していこうと知見が積み重ねられています。
このブログでも偉そうに心理学的分析を書いていますが、あくまでも一つの自分なりの見方や解釈でしかなく、それが正解であるとはまったく思っていません。
驕った時点で心理の専門家としては失格ですし、本作のように、周囲の人から、そして本人たちから話を聞いたとしても、それで真実や真相、深層がわかったつもりになってもいけないのです。
たとえ本人が本心を語っているつもりでも、自分でも自分の気持ちが100%わかっているとは言えないものです。
また、言語化することで失われてしまう部分も多々あるでしょう。
ちなみに、心理に関する専門資格はたくさんありますが、2019年にようやくできた国家資格が公認心理師と呼ばれるもの。
それ以前からは、民間の資格ですが、臨床心理士が一番メジャーです。
「公認心理師、臨床心理士なら絶対しっかりしている」とは断言できないのが残念なところですが、少なくとも臨床心理士の資格取得には大学院への進学が必要など、教育体制は一番整っています。
「心理カウンセラー」などは、2週間の講義を受けるだけで取れるような形だけのものもあったりするので、相当に怪しいものも少なくありません。
『悪いものが、来ませんように』に出てきたのも「心理カウンセラー」でしたし、フィクションの話なのでそれほど突っ込んでも意味がありませんが、何より「真実」なんて銘打った本を、それも裁判が始まりもしないうちに出してしまうところなんかは、相当に怪しいなぁ……カウンセラーがこんなイメージになってほしくないなぁ……と、正直思ってしまったのでした。
考察:一卵性母娘と、事件の真相(ネタバレあり)
一卵性母娘
母性の負の側面については、湊かなえ『母性』や我孫子武丸『殺戮にいたる病』の記事などを中心に色々なところで書いているので、ここでは省略します。
『悪いものが、来ませんように』では、母子関係の中でも、「一卵性母娘」というのが大きなテーマとして取り扱われていました。
簡単に少しだけ触れておくと、この概念は決して新しいものではなく、1990年代からすでに指摘が見られます。
まさに本作のような、「まるで親友同士のような」母と娘。
これは相互依存・共依存の関係ですが、大きく問題があるのは、やはり母親です。
娘が自立していく20代頃は、母親にとっては40〜50代頃にあたることが多いでしょう。
更年期に差し掛かり、ホルモンバランスの変化による精神的な不安定さや、「老い」に対する葛藤も強まる時期です。
さらに、子どもの自立は、これまでの「母親」という役割を失い、改めて自分の人生について直面することが求められることになります。
そのような不安定な時期は、何かに依存的になりやすい時期です。
ここで母親が精神的に自立できないと、意識レベルでは子どもの自立を求めて応援しながらも、無意識レベルでは子どもを手放すことへの抵抗が生じてきます。
このような母親の場合、幼少期から無意識のうちに支配的に接していることが多いので、子どもの側も呑み込まれやすくなります。
そこで呑み込まれ、お互いに適切な母子分離がなされないと、まさに本作の奈津子と紗英のような母娘関係が出来上がります。
一見、仲が良いのは良いことに思えますが、行き過ぎた過保護はまた、虐待の一つの形態にまでなり得るものであり、子どもの自立を妨げます。
紗英も自分の軸がなく、何事も自分では決断ができず、常に奈津子に意見を聞き、従っていました。
奈津子は、紗英に優しく接しているように見せかけて、本質的には理想の娘像や自分の意見を押しつけているに過ぎません。
このような母子は、本当に大切なことが共有できていないことも特徴であり、不妊で悩む紗絵の気持ちをまったく知らずに「子どもを産むことが女の一番の幸せ」と言い放つ奈津子の姿がとても象徴的です。
「知らなかったから仕方ない」で済む話ではありません。
虐待の連鎖として考えれば、やはり奈津子も不遇な環境にありました。
作中でも言及されていましたが、「自分の母親を反面教師にして、母親とは逆のことをする」というのは、母親に囚われている状態です。
もちろん、虐待を受けて育てば必ず問題が生じるわけではありませんし、本作でも奈津子だけに問題があるわけではありません。
だいたい、一卵性母娘となる場合は、父親の存在がとても弱い、あるいは不在であることが多く見られます。
本作の奈津子の夫にして紗英と鞠絵の父親である貴雄も、ほとんど存在感がありませんでした。
子育てに苦労する奈津子に協力したり寄り添う様子もまったく見られません。
奈津子にばかり非難の目が向けられがちかもしれませんが、貴雄がもっとしっかりと奈津子に向き合い、支え合っていれば、大きく違ったはずです。
もちろん、奈津子目線での語りなので実際に貴雄がどうだったのかはわかりませんが、紗絵目線でも、ほとんど父親のことが出てこないことからは、やはり貴雄にも大きな問題があったのだろうと考えられます。
事件の真相
あえて「真相」としましたが、本作が訴えている通り、事件の真相など第三者にはわかるものではありません。
それでも、描かれていた内容から「実際はどうだったと考えられるのか?」については整理しておきたいと思います。
表面的には、
- 盗み聞きをして大志(紗英の夫)の不倫を知った奈津子
- 紗英の外出後に家に入り、蕎麦入りの麦茶を作って大志に飲ませた
- 蕎麦アレルギーの大志は死亡し、奈津子はその遺体を隠蔽のために埋めた
となっています。
しかし、表沙汰にはなっていませんが、紗英も蕎麦入り麦茶を作っていました。
事件後、奈津子が紗英に語ったのは、以下のような内容です。
- 盗み聞きをして大志の不倫を知り、紗英が蕎麦入り麦茶を作る場面も目撃していた奈津子
- 紗英の外出後に家に入り、「紗英では思いきれないのではないか」と思って自分で蕎麦入り麦茶を作り直し、大志に飲ませた
- 蕎麦アレルギーの大志は死亡し、奈津子はその遺体を隠蔽のために埋めた
ところがそれもまた、真相ではありませんでした。
実際はどうだったのかといえば、紗英が作った蕎麦入り麦茶で大志は死んだ、というのが真相でした。
流れとしては、以下の通りです。
- 盗み聞きをして大志の不倫を知り、紗英が蕎麦入り麦茶を作る場面も目撃していた奈津子
- 奈津子は、大志が蕎麦アレルギーであることを知らず、紗英が作っていたのが蕎麦入り麦茶だとも知らなかった
- 紗英の外出後、大志と話し合うために家に入る
- 大志が蕎麦入り麦茶を飲んでしまい、倒れる
- 驚いた奈津子は救急車を呼ぼうとしたが、紗英が麦茶を作っていたのを思い出して思い留まる
- キッチンのゴミ箱に除草剤が捨てられていたのを見て、麦茶に除草剤が入れられていたのだと勘違い
- 除草剤の空き容器などの証拠品(と思い込んだもの)を処分し、大志の遺体を隠蔽のために埋めた
- のちに紗英から大志が蕎麦アレルギーであったこと、自分が蕎麦入り麦茶を作ったことを聞き、「自分が蕎麦入り麦茶を作り直した」と嘘をついた
大まかには以上のような流れで、実に複雑です。
いずれにせよ、奈津子が紗英を庇おうとして、自分がすべてを引き受けて隠蔽したことは間違いありません。
この行動が母親として正しかったのか、本当に紗英のためになるのかどうかは、正解はありませんが、当然ながら疑問が生じます。
しかし、何が何でも、自分を犠牲にしてでも子どもを守ろうとするのもまた、母性の輝かしい側面でもあるのです。
本作における真相を知ると、表面に上がってきて報道されている情報が、いかに虚像であるかがわかります。
その「虚像である犯人像」に合わせるかのように湧き上がってくる、周囲の人たちの証言。
そして、その「虚像」に基づいて「真相」をわかったつもりになっている心理カウンセラーと、その内容を信じるのであろう人々。
本作で描かれているのは、一卵性母娘のテーマ以上に、そんな社会の恐ろしさであるようにも感じました。
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