【映画】残穢【ざんえ】―住んではいけない部屋―(ネタバレ感想・考察)

映画『残穢【ざんえ】―住んではいけない部屋―』のポスター
(C)2016「残穢 住んではいけない部屋」製作委員会
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作品の概要と感想(ネタバレあり)

映画『残穢』のイメージ
(C)2016「残穢 住んではいけない部屋」製作委員会

ホラーや怪談をメインとした小説家である主人公(竹内結子)のもとに、一通の手紙が届く。
それは、女子大生の久保さん(橋本愛)が一人暮らしをしている部屋で聞こえる、奇妙な音について。
過去に遡りながら、その現象の謎が徐々に明かされていく。

小野不由美の小説『残穢』の映画化作品
竹内結子が出ているというだけで、やや感慨深い。
原作については以前レビューを書いたので、以下の記事をご参照ください。

基本的に原作に沿って進んでいきますが、映画オリジナル要素もいくつか。
原作ファンにとっては、その点がやはり賛否両論になると思います。

未読の方はその点関係ありませんが、雰囲気重視のジャパニーズホラー(以下、Jホラー)が好きであれば、十分楽しめるはず。
全体的に地味で、衝撃的なシーンがあるわけではないので、海外のホラーやスプラッタのような、刺激的な恐怖を求める人には物足りないかもしれません

「このレビュー、最後まで読んだら祟られますよ」と言われて、怖かったり、「そんなわけない」と思いつつも何となく気味悪く思える人には向いています。
逆に、「いや、そういうのいいから」と一刀両断みたいな人には退屈かも。

以前、映画『事故物件 恐い間取り』の記事でJホラーについて散々なことを言ってしまいましたが、『残穢』はJホラー特有の不気味さを十分すぎるほど味わえる作品でした。
特に、過去の古い映像や写真だけでも、何だか不気味さを感じる。
個人的には、着物姿の人たちの白黒写真とか、それを見ているだけでも何となく不穏な気分になります。
ゲーム『零』のプレイ時に近い感覚。

日本という狭い土地では、今住んでいる場所も、遡れば何人もの人が住んでいたはずです。
その歴史の重みが、恐怖の源泉

個人的には、映画版オリジナルである「住んではいけない部屋」という副題が少し不満です。
『残穢』だけだと意味がわからないので、どんな作品かイメージしやすいようにつけられたのだと思いますが、『残穢』の本質とは真逆に感じました
『残穢』には、「この部屋は危ないから住んじゃだめ!」という、ピンポイントな部屋や場所が出てくるわけではありません。
地縛霊っぽいのも出てはきますが、それよりも、「人と人との交流や移ろいによって穢れが拡散されていく」という怖さが描かれています。

一方の、先ほども触れた、映画『事故物件 恐い間取り』。
こちらの原作は未読なのですが、原作では、部屋の間取り図に説明が書かれていたり、間取り自体が不思議なものもあるようです。
それが、映画版では間取りはそれほど意味はなく、単純に事故物件の恐怖が描かれています。
なのでむしろ、『事故物件 住んではいけない部屋』が一番しっくりきませんか?

何となくどうでもいい話になった気がしますが、後半では主に、原作の小説と映画版の違いについて考えてみたいと思います。


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考察:原作との違いと、映像化による恐怖の変化(ネタバレあり)

映画『残穢【ざんえ】―住んではいけない部屋―』のシーン
(C)2016「残穢 住んではいけない部屋」製作委員会

原作と異なる主な点

基本的には、原作に沿って丁寧に進んでいき、原作を既読でも好印象でした。

時間の都合で、省略された点が多々あるのは仕方ないところ。
ただ、原作での「延喜式」や「触穢」といったような、日本古来の概念に基づく解釈が省略されているので、「ただ呪いっぽいことが起こっていて、それを解き明かしていく」というシンプルな図式になっていた印象です。
穢れの伝染経路も、原作よりはシンプルになっていました。

人物像、たとえば久保さんが30代のライターから大学生になっていたなどの細かい変化はさておいて、最大の違いはやはりラストでしょう。

原作では、いまだ不思議な現象も報告されつつも、関わりのあった登場人物たちはそれなりに平穏に暮らしている様子でした。
何がどうなっているのかははっきりしない、ぼんやりとした終わり方で、それがリアリティを感じさせる余韻を残します。

一方の映画では、これでもかとばかりに、登場した人たちがみな残穢に伝染している様子が映し出されます。
お隣の201号室の飯田さん(たぶん映画オリジナル)は、まさかの一家心中事件
編集者の人なんて、「聞いても祟られる」だけで祟られたにしては、かわいそうすぎませんかね。
あそこまでの演出をされて襲われるなんて、霊感の強いタイプだったのでしょうか。

その他にも、「ここまでは原作に忠実にやってきたんだから」と言わんばかりに、ラストはよくあるホラーシーンも連発されます。
特に、貞子ばりに目を剥いて怖がらせようと期待の目で見下ろしてくる、首吊りトシヱ夫人
映画中盤、「あんなちょい役だけのために成田凌を使わないだろう」と思っていたら、案の定、彼が襲われてしまいました。
あそこまではっきり見えるなんて、霊感の強いタイプだったのでしょうか。

また、震源地である奥山家の一人、奥山三喜みよしが吉兼家に持ち込んだ、顔が歪むとされる婦人図
原作では、住職が「こいつだいぶ業が深そうなんで、毎日朝夕と供養してます」と言っていました。
一方の映画では、住職、「この絵ですか?」と差し出された写真を見つめたあと、思わせ振りな間を取ってから「わかりません、見たことないんで」と一蹴。
けれど、ラストのラストではその絵をこっそり持ち出してきます。
まるで住職が黒幕かのような。
この意味はちょっとわかりませんでしたが、演出の意図について、後ほどまた触れたいと思います。

映像化による恐怖の変化

先ほどは少し否定的に書きましたが、ラストシーンの盛り上げは、映画化にあたっては必要だったのだろうとも思います。

原作も、展開としてはとにかく地味です。
しかし、それこそが『残穢』の恐怖に繋がっていました。

明らかに「小野不由美なのでは」とイメージさせるように描写されている「私」。
平山夢明や福澤徹三といった、実在する人物。
清水崇監督『呪怨』といった、実在する映画への言及。

それらが盛り込まれていることで、どこまでが現実で、どこからがフィクションなのかがはっきりわからないような作りになっています。
嘘にリアリティを持たせるには適度に真実を混ぜると良い、みたいな話。

また、「私」が明らかな怪異現象に遭遇しないのも原作の特徴です。
ホラーや怪談の作家でありながら、「私」は心霊現象には否定的
伝え聞く不思議な現象にも冷静な分析やアプローチを試みる姿勢が、逆に不可思議さを際立てていました。
悪戯電話などは「私」にもかかってきましたが、絶対に怪異現象とまでは言えない。
展開も地味だからこそリアリティを感じるのです。

しかし、この作品を映像化するとなると、「完全なフィクション」として扱わざるを得ません。
たとえ「実話の映画化」であったとしても、ドキュメンタリーでない限り「映画=フィクション」です。
なので、現実と虚構を織り交ぜたような曖昧さ、現実が侵蝕されるような恐怖が本質である原作を、映画で表現するのはどうしても無理なのです。

本当に最後まで原作に忠実に映像化すれば、「地味すぎる」の一言に尽きただろうと思います。
地味が故の恐怖が、映画化に際して失われるからです。
そのために、ラストシーンはあえて真逆に変更されたのだと感じました。

「原因がはっきりしている恐怖よりも、原因や対処法がはっきりわからない不安の方が人間は耐え難い」というのは、それこそ平山夢明が『恐怖の構造』という本でも述べていた点ですが、原作は、はっきりしないが故に「手元に置いておくのも怖い」といった書評まで生み出しました。

その曖昧さを再現することがそもそも無理なので、原作の「ぼんやりした不安」から「はっきりした恐怖」に舵を切ったのが映画版です。

原作とは違い、全員が残穢に伝染した登場人物たち。
そして、上述したラストのラスト、住職が「見たことない」と言った婦人図をいそいそと持ち出したシーン。
最後に初めて登場させて、その顔が歪む。
それによって、「聞いても祟られる」というのにプラスして、最後には観客まで祟られたことを演出して終わる。
そうすることで、映画なりに現実を侵蝕する恐怖を描いたのではないかと思いました。

「霊的なもの」の映像化の難しさ

『事故物件 恐い間取り』では散々否定してしまったJホラーのCG技術。
それは決してJホラー界全般の問題というわけではなく、『残穢【ざんえ】―住んではいけない部屋―』では、それほどひどいものではありませんでした(反省)。

本作でぼんやりとした存在として描かれたのは、主に、黒い影のような這いつくばる霊(炭鉱で死んだ人たち?)です。
あれも、だいぶ映像に馴染んではいましたが、どうしても個人的には浮いて見えてしまいました。

幽霊といった霊的なものは、その存在の曖昧さが恐怖の本質だと思っています。
はっきりとわからないから、恐ろしい。

それが、映像化することで、具体的な存在としてイメージが固着します。
半透明の幽霊なんて、どうしても「フィクション感」が強い存在です。
具体化されると、必然的に恐怖が薄れてしまう
むしろ、『リング』の貞子や、『残穢【ざんえ】―住んではいけない部屋―』の最後に出てきた首吊りタカヱのように、もともとの人間としての実体がはっきりしていた方が、むしろ怖いのではないかと個人的には感じました。
ただそれは、ビジュアル的な強引な恐怖です。

主に人間に取り憑くことでその存在を知らしめる悪魔(デーモン)や、『13日の金曜日』のジェイソンのような実体のある殺人鬼では、この問題は生じません。
本来、曖昧な存在であるからこそ、映像化すると、その在り方自体が変わって、というより失われてしまうのです。
海外にも霊(ゴースト)はありますが、どちらかというと姿形がはっきりした存在として描かれがちな印象です。

一方、『零』など幽霊が出現するゲームはいくつかありますが、これは逆にそこまでの違和感を感じません。
それは、世界や登場人物すべてがそもそもCGであるために、馴染んでいるからではないかと思います。
実写映像に取り入れるために生じてしまう違和感
そこが、映像作品での心霊ものの難しさのひとつだと感じました。

最後に余談ですが、最近観た『ハロウィン(2018)』『事故物件 恐い間取り』、そして『残穢【ざんえ】―住んではいけない部屋―』と、いずれも人感センサーで点灯するライトが使われていました。
汎用性の高い、現代ホラーの便利アイテムかもですね。

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