作品の概要と感想(ネタバレあり)
タイトル:祝山
著者:加門七海
出版社:光文社
発売日:2007年9月6日
ホラー作家・鹿角南のもとに、旧友からメールが届く。
ある廃墟で「肝試し」をしてから、奇妙な事が続いているというのだ。
ネタが拾えれば、と軽い思いで肝試しのメンバーに会った鹿角。
それが彼女自身をも巻き込む戦慄の日々の始まりだった。
一人は突然の死を迎え、他の者も狂気へと駆り立てられてゆく──。
初読みの作家さん。
『祝山』は以前からタイトルは知っていましたが、ようやく読めました。
「著者の実体験を下敷きにした究極のリアルホラー」との文句に違わず、じわじわしたリアルさが楽しめた1作。
怪談ベースなのもありますが、これぞジャパニーズホラー感が溢れていました。
実話怪談である中山市朗『なまなりさん』の感想でも書きましたが、実話怪談や実体験系は、面白いのですが感想が難しいですね。
著者の加門七海は、多摩美術大学大学院を修了後、学芸員として美術館に勤務。
ホラー小説だけでなく、オカルトや民俗学、呪術などに造詣が深く、それらを活かしたノンフィクションやフィクションを執筆しているようです。
しかも、ご本人も霊感があるというか、心霊体験が豊富のようで、なかなか個性が強そう。
『祝山』の主人公は鹿角南なる名前でしたが、なるほど、著者の実体験がベースというのも経歴などを見ると頷けます。
『祝山』の特徴としては、あえて「小説としてフィクショナライズしている」と明言している点が挙げられるでしょう。
それが逆に、リアリティを生み出しています。
実話怪談なども少なからず演出の装飾がなされているでしょうが、あえて「小説らしく、少し派手に脚色している」と書くことで、現実と創作の境目がさらに曖昧になります。
曖昧な状態は不安を喚起するので、ホラーとしては定石でもあり、想像力を喚起させることが恐怖の源泉とも言えるでしょう。
本作においても、恐ろしい祟りが起こったとも捉えられますし、結局何も起こっておらずすべてはただ偶然が重なっただけとも捉えられます。
仏壇があったのかなかったのか、小野寺から送られてきたメールは本当に死後だったのか、そういった細部までほぼすべて曖昧なままです。
ただ、すべてが偶然にしては重なりすぎているし、かといって全部祟りだったのかもわらかず、この境界も曖昧であり、読者それぞれが勝手に想像できます。
偶然だとしても、気味が悪いのも事実。
しかし、本作の救いは、小野不由美『残穢』に代表されるような、読者にも侵食してくるような恐怖は少なめなところでしょうか。
鹿角南はちょっと関わっただけで巻き込まれてしまったわけですが、逆に言えば自分から関わろうとした部分があったのも事実です。
関わることになったこと自体も祟りの影響だった可能性もなくはありませんが、読んだだけで影響を受けそうという作品ではありません。
とはいえ、山、神社、祟りなど、日本人には馴染みのあるテーマ。
一歩間違えれば自分も巻き込まれてしまうかもしれない、という恐怖も孕んだ作品です。
本作の引っかかりポイントとしては、登場人物がみんないまいち好きになれなかったところでしょうか。
個人的には霊感もなく、オカルトも懐疑派なので、霊感があるという主人公の感覚にいまいち馴染みきれず。
また、矢口を中心とした4人組も、若尾だけはまともでしたが、何ともイライラしてしまうキャラたち。
しかし、おかしくなったように見えた矢口たちでしたが、どこまでがもともとの人格で、どこまでが祟りの影響だったのかわからないところも、怖いポイントでした。
祟りによって常識的な感覚がずれ、怒りっぽくなり、社会性が低下し、腕がおかしくなり、失踪したのだとしたら、もちろん怖い。
ですが、それが祟りじゃなかったら、むしろもっと怖いかもしれません。
心霊スポットに肝試しに行く。
神社に唾を吐く。
持ち帰ってしまった木材を笑いながら投げ返す。
科学的に考えれば、何の問題もありません。
しかし、オカルトに懐疑的な自分でさえ、いわゆる罰当たりに該当するようなことをしようとは思いませんし、やったとしても気持ち悪さを感じるでしょう。
人間は、上述した通り曖昧な状況に不安を感じるので、何かしら理由を求めたがります。
祟りも、呪いも、宗教的なものはその不安を解決する手段の一つです。
しかし、理由もなく、あるいは理由がわからずおかしな状態になったのだとしたら、もしかするとその方が怖いかもしれません。
祟りであれば解決できるかもしれませんが、理由がわからないままだと、何をどうすれば良いのかもわかりません。
本作の出来事も、忌山である位牌山の祟りだとしたら、怖いですが納得はできますし、対応策も見えてきます。
罰当たりなことをしなければ、あるいは山と関わりを持たなければ、祟られる可能性は低くなりそうです。
ですが、そうでなかったとしたら、矢口たちの存在が恐ろしいものに見えてきます。
常識や話が通じない、理解できない人間というのは、何をしでかすかわからないという圧迫を与えてきます。
しかし、小野寺はただ心霊スポットに取り憑かれた末に事故っただけかもしれませんし、田崎の腕も本当に何かの感染症なだけかもしれませんし、矢口も精神疾患か何かだったかもしれません。
祟りだったら忌山という存在が怖いですし、祟りじゃなかったら人間が怖い。
どちらに捉えても何かがおかしく、何かが怖い。
『祝山』はとにかくあらゆる点において曖昧さ徹底しており、このような曖昧から生じる不安や恐怖が、やはりジャパニーズホラーの大きな特徴の一つだな、と改めて思いました。
近年は薄れてきているとはいえ、曖昧さが日本人の特徴でもあり、美徳でもありました。
侘び、寂びの精神です。
はっきりさせない、曖昧なままで何とかうまくやっていくというのは、土地の狭い日本における工夫でもあったでしょう。
そして日本の宗教観は古来、あらゆるものに精霊や神は宿っているという、アニミズムや八百万の神といったものです。
この多神教的な宗教観もまた曖昧というか、他の神を認めない一神教とは大きく異なるものです。
山の祟りだなんて、キリスト教がベースのホラーでは絶対にあり得ない発想でしょう。
ジャパニーズホラーのじめじめした雰囲気は、この曖昧性を活かしたものであり、かつ日本文化と相性が良いのだと思います。
キリスト教などがベースの場合は、善悪の判断基準がはっきりしているので、悪魔だったり、個人の呪いだったりというのが主となります。
自然が襲いかかってくることもあると思いますが、それも神の意思に背いた人間の愚かさが理由だと解釈されるでしょう。
ただ、曖昧さへの耐性は、近年の日本では弱まっている要素であるとも感じます。
スマホですぐ答えを得ることのできる生活に慣れれば、必然でもあるでしょう。
いわゆる「タイパ(タイムパフォーマンス)」を求める心理もまた同様で、スマホ依存によって欲求不満耐性が低下している(つまり我慢することが苦手になっている)という研究もあります。
ジャパニーズホラーの衰退も、おそらくそれらの点も影響しているはずです。
結局何なの?
はっきりしてほしい。
早く答えが知りたい。
そんな気持ちがあれば、じわじわした曖昧な恐怖感など、苛立ちやもどかしさしか感じません。
映画や小説などでは、まとめるのを諦めたかのように全部放り投げるのはどうかとは思いますが、はっきりした原因や解決が求められがちです。
もちろんそれが悪いわけではありませんが、じわじわ系ホラーが衰退していくとすると、個人的には寂しさも。
そもそも、現実は曖昧さに溢れているものなので、すぐに答えが得られないと気が済まない傾向が、カルト的な新興宗教や陰謀論などの台頭に繋がる要因となっているような気も(もちろんSNSの発展など、他の要因も大きいでしょうが)。
何だか内容から逸れて個人的な思想が強めな感想になってしまった気もしますが、そんな曖昧さから不安や恐怖を煽るというジャパニーズホラーや怪談の本質が詰め込まれたような作品でした。
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