【映画】MAY -メイ-(ネタバレ感想・心理学的考察)

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作品の概要と感想(ネタバレあり)

内気でコンプレックスいっぱいの女の子メイ。
子どもの頃から周りに馴染めず、唯一の友だちは母親がくれた人形のスージーだけ。
そんな彼女に初めて恋人や友人ができかけたがうまくいかず、また独りぼっちに戻ったメイ。
寂しさに心を蝕まれていくうちに、彼女はふと思いついた。
友だちができないなら、完璧な友だちを造ればいい──。

2002年製作、アメリカの作品。
原題も『May』。

何と切ない作品でしょう。
これはホラーではなく、メイの成長物語でした
メイの純粋さが心に刺さります。
頑張ったよ、メイ。

似たような印象を抱いたのが『FOUND ファウンド』です。
『FOUND ファウンド』はより色々なテーマが詰め込まれていましたが、「メインはジュブナイルもの」と書きました。
『MAY -メイ-』も、ジュブナイルというには年齢が上かもしれませんが、自分の殻に閉じこもっていたメイが社会に飛び出していく物語でした。
心は少女のまま止まっていると考えれば、ジュブナイルものとも言えるでしょう。

しかし。
その成長の方向性は、社会的な価値観から見ると、激しく間違ってしまっていました

それは、なぜか。
斜視に極端なコンプレックスを抱き、内に閉じこもり続けてきたメイ自身の責任も否定はできません。
もちろん、そんなメイを傷つけてきた人たちの影響も少なくないでしょう。

ですが、とにかく。
ママ!
ママのせいだよ!

と、責任をなすりつけずにはいられません。
「友達は欲しい?じゃあ覆っておかなきゃ」と眼帯をつけさせたママ。
「友達がいないなら作ればいい」と人形をプレゼントしたママ。

何で!?
何でそうなるの!?

しかもママ、人形のセンスなさすぎだよ
ホラー大好きだったのかな。
あの人形が主役のホラー映画も作れるよ。
いや、あれはあれで味があって良いですが。

これによりメイは、「斜視は隠した方が良いもの」「友達は自分で作るもの(人形可)」ということを学んでしまいました
また、人形をプレゼントしてメイが包装を剥がそうとした際、何が悪かったのかよくわからなかったのですが、「台無しよ」とメイの行動を否定してがっかりしていたママ。
さりげなくパパも「はぁ……」みたいな表情をしていましたし、あれだけで両親のメイに対する関わり方が窺える巧みなシーンでした。

幼少期からあのような育て方をされて、自己否定感が強くならないわけがないでしょう
いくら親の影響は絶対的なものではなく、自分の力で抜け出せるのだとしても、あの時期から自己否定が根付き、内に閉じこもるパターンを身につけてしまったら、抜け出すのは容易ではありません。

その後、両親はまったく登場せず、話題にものぼらなかったので健在なのかすらわかりませんでしたが、人形スージーがその代替となっていました
「親友」である人形が持つ言葉は、母親の言葉です(すべてではないでしょうが)。
人形との対話は、自分との対話であると同時に、母親の価値観、いや、極端に言えば洗脳された考え方を持続・強化させられるものとしても機能してしまっていました。

「理想の友達がいないなら、自分で作ればいいじゃない(物理で)」理論も、母親の影響と言って差し支えないでしょう。
メイが作り出したお友達は、まさに現代版フランケンシュタイン。
何とも罪深きママでした

余談ですが、右目が斜視だったのに左目に眼帯をしていたり、ケーキのろうそくを吹き消した際に1本消えていなかったのに画面が切り替わった次の瞬間には消えていたり、なぜか幼少期のシーンは雑さが目立ちました。
幼少期シーンの撮影期間が短かったのかな。


成長してからの展開は、比較的シンプル。
アダムは最高にゲスいし、ポーリーは悪い子ではなさそうですがあまりに自由すぎてメイとは価値観がずれすぎていました。
そのあたりの接近、期待、そして裏切り(あるいは裏切られたというメイの勝手な思い込み)からの失望。
そのプロセスが非常に丁寧であり、だからこそ終盤のグロシーンが輝いていました

動物病院に勤務しているという設定も、「動物の身体を縫合できる」「人間とのやり取りが苦手でも仕事ができる」という2点でうまく活かされていました
あれでスーパーとかで働いていたら、あそこまで社会性がないのが不自然になってしまっていたと思います。
とはいえ、普通に働いてある程度人との関わりもあったので、あそこまでずれてしまっていたのはメイ自身の特性があったであろうことも否定できませんが。

しかしとにかく、メイを演じたアンジェラ・ベティスの演技が光っていました。
彼女の怪演あればこその作品と言えるでしょう。
前半は特に見事で、表情から仕草、距離感の詰め方まですべてが、「変わってるね」って言われちゃうだろうな、としか見えませんでした。
終盤、自らが親友の人形スージーのようになったときの振り幅もすごく、美しく堂々たる振る舞いは完全に別人。
『電車男』の山田孝之を思い出しました。

メタファーや音楽の使い方も非常に上手く、芸術性も高く感じました
殺し方や血の表現は相当にチープでしたが、ゴア描写がメインではなく、行っていたことは相当鬼畜なため、良いバランスになっていたのではないかと思います。
個人的にはかなり好きで、隠れた名作という印象です(自分が知らなかっただけで有名なのかもですが)。

以下、少しだけメイの心理について考えてみます。

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考察:メイが求めていたものとラストシーン(ネタバレあり)

彼女にとって、斜視がコンプレックスの元凶でした。
それに拍車をかけたのは、上述した通り主に母親です。
それにより自らの殻に閉じこもったメイにとって、母親からもらった人形スージーが社会の象徴となります。
話し相手になり、アドバイスをくれるスージー。
それはメイにとって、友人でもあり、母親の象徴でもあり、社会の象徴でもあり、そして憧れる存在でもあったはずでず。

一方では、常にメイを見守り寄り添ってくれる存在でもありました。
アダムには裏切られ、ポーリーも自分だけを見ているわけではなかった。
そんな悲しみに暮れながらタバコを吸っていましたが、ポーリーから預かった猫ルーピーもまたメイの呼びかけに応じず離れていってしまい、勢いで灰皿を投げつけて殺してしまいます。

このあと、人形スージーの箱にヒビが入る音が大きくなります。
アダムに電話をしますが冷たくあしらわれ、スージーに対して怒鳴り散らした上に「あなたが大嫌い」と言い放ちます。

しかし次の瞬間にはシーンが切り替わり、視覚障害を持つ子どもたちを相手にスージーを親友として紹介し、「一番の友達よ。しかも昨夜まで気づかなかったの」とまで言っていました。
「大嫌い」と言っていたのに、この変化は何なのでしょう。

推察するには、「大嫌い」と言っていたのは、自分がうまくいかないことの八つ当たりであったと考えられます。
それは本来、一番には母親にぶつけたかった言葉なのかもしれません。
いずれにせよ、自分がことごとくうまくいかないのは、間違ったアドバイスをし、邪魔をしてくるスージーのせい、という他責的な思考です。

しかし、どれだけ暴言を吐こうとも、スージーだけは変わらずそこにいて自分を見守ってくれていました
アダムにもポーリーにもルーピーにも裏切られたメイにとって、裏切ったり離れることなく自分のもとにいてくれる存在はスージーだけだったのです。
カットされていましたが、きっと「大嫌い」と言ったあと、そのことに気づいたのだと考えられます。

視覚障害を持つ子どもたちの中でも、メイはピーティーに対して特に目をかけていました。
ピーティーは1人で遊んでいたので、目に障害を持ち、孤立しているピーティーに自分を重ね合わせていたのでしょう。
メイが人形スージーを持って行ったのは、ピーティーにも、自分が救われたスージーの存在を教えてあげたかったのかもしれません。

しかし、スージーは子どもたちによって破壊されてしまいます。
スージーの象徴性は多岐にわたっていましたが、メイ自身が投影されていた部分があるのも間違いなく、スージーのケースが割れたことは、抑圧されていたメイの心が解放されたことの暗喩(ほとんど直喩に近いかも)でもあったと考えられます。

もう少し心理学的に見れば、メイのコンプレックスはすべてスージーに投影されていました。
つまりスージーは、メイが生きることのできなかった人生や理想が詰め込まれた存在であり、心理学的には「影(シャドウ)」として見ることができます。
メイが自らスージーの格好をしていたのは、コンプレックスも理想もどちらも受け入れて、より統一された自己を確立したのだと解釈できるでしょう。


以降、メイはグミ男(どんな髪型やねん)を殺害したことをきっかけに、理想の友達エイミーを自ら作り上げていきました。
母親からもらった友達ではなく、自分の理想を詰め込み、自分で作り上げた友達です。
名前をアナグラムでつけているところからも、自分の存在にとって欠かせない、自分の一部であることが明らかです。

しかし、目がないためにエイミーが自分を見ていないことに絶望するメイ。
ついには自分の片目を抉り出し、エイミーに与えました。

このときの「私を見てほしいだけ」というセリフが、本作におけるメイのすべてを表していました
結局メイが何を求めていたかといえば、本当の自分を見てくれる存在だったのです。

斜視を隠すように育てた両親。
斜視にコンプレックスのあったメイは、他者を正面から見つめることができません。
見つめたとしても、斜視に気づかれて目を逸らされることも少なくなかったでしょうし、いじめられることもありました。
メイの孤独は、誰からも本当の自分を見てもらえた経験がないという孤独です。
期待を抱いたアダムもポーリーも、結局本当のメイを見てくれることはありませんでした。

「見る」「見られる」ことの大切さを知り、コンプレックスの元凶でもあった眼球を与えるというのは、メイにとっての解放でもありました。
今までのメイの欲求は、「自分だけを見て欲しい」という一方的なわがままでもありました。
しかし、一方的に見てもらうのではなく、自分も相手を見て、自己犠牲を払ったメイ。

最後にエイミーがメイの頭を撫でてくれたのは、そんなメイの成長に対する行動であったと考えられます。
それは友人としてであり、社会の象徴としてであり、そしてメイ自身が初めて自分で自分を認めてあげるという象徴でもあったのでしょう。
実際にエイミーが動いたのかどうかということではなく、メイの内面を象徴するシーンであったのだろうと解釈しています。

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